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綿帽子 第二十八話

退院してから一ヶ月半が経過した。

残暑も諦めが入ったのか、秋らしく肌寒い日も多くなってきた。

相変わらず『木から飛び出す婆さん』にはビクビクしながら散歩をこなす毎日が続いている。

今日は所用で役所に来ている。

人が多いところに来るのは病院以外では久々なので、違和感を感じずにはいられない。

「では、ここに御住所と御名前をお願いします」

「分かりました」

書く手が震えるのを抑えながら、集中する。
集中しないと自分の名前を書くことすら怪しいのだ。

ところが、いざ自分の名前を書こうとすると自分の名前が思い出せない。

いや、名前は思い出せても漢字がさっぱり思い出せないのだ。
目の前に役所の人が待っているというのに、思い出せない。

冷静になろうと、恥も外聞もなく深呼吸をする。
何回か繰り返した後に携帯で検索することを思い付いた。

自分の名前を検索しないと思い出すことすらできないのかと焦りながらも、何とか漢字を手繰り寄せて書き出した。

情けないやら悔しいやら、いろんな感情が混ざりながら書いていたが、それが果たして正しいのかさえ判断がつかないのだ。

まあいいか、間違えたら書き直せば良いと開き直ってみれば、今度は書き易いように引いてある横線から、大きく文字がはみ出した。

書いた文字は歪み、上下に散らばり、線の上にきっちりと並べて描こうとしているのに文字の大きさすら揃えられない。

それでも何とか書き上げて、震える手で手渡した。

「すみませんちょっと目が悪くて歪んでしまって、読めますか」

「大丈夫ですよ、少々お待ち下さい」

待っている時間が非常に長く感じられる。
時間にして凡そ15分くらいの出来事なのだが、2時間にも3時間にも感じられる。

「はい、これで大丈夫です。確かに受け取りました」

「あ、ありがとうございました」

軽くお辞儀をしてその場を離れる。

役所の中の自動販売機に向かう。

「何か飲もう」
「喉は乾いてるけどカフェイン入ってるの良くないだろうな」

とか、色々と迷ったけれど結局水を買ってから外に出た。

すると、突然強い目眩と共に頭の中で妙な音がした。

「プチっ」

「プチっ?て、なんだ」

と思った瞬間目の前がグラグラとして、突然呼吸ができなくなる。

「焦らないように、焦らないように」

と考えながら呼吸を整える。
その場に座り込み呼吸を整えることに専念する。

「どうしよう、とりあえず水を買ったのはよかったか」

ズボンの後ろのポケットに頓服用の薬が入っている。
ポケットに手を突っ込んで一錠だけ薬を取り出すと、水を口に含んでから飲み込んだ。

この薬が効くのかさえ分からない。
焦る気持ちをグッと抑えながら思考を巡らせる。

20分ぐらいその場に蹲っていただろうか?何とか動けるようになったので、病院に電話した。

運良く感染症科の主治医に繋り、症状を伝えたのだが、まともに請け負ってはもらえない。
呂律がおかしくて上手く話せないのだが、話せているのだから多分大丈夫なのだろう。

何とか、主治医を口説き落として神経内科の予約を取ってもらう。
手紙を書いておくので病院に来いと言う。

俺はフラフラとする身体を引き摺るようにしながら、タクシー会社に電話を掛けた。

それから約15分、ようやく来たタクシーに飛び乗り、意識が飛びそうな感覚に耐えながら何とか病院に辿り着いた。

主治医が話しておいてくれたおかげで、診察は受けられそうだが待合室で問診票を書いて待つように指示される。

「そんなこと言うなよ、早く診てくれよ」

患者は皆そう思いながら待合室で待っている。

俺も例外ではなく、電話ができて話せるのなら待てと言うことなのだろう。

「こんなことなら救急外来に行けばよかった」

という思いが頭を過ぎる。

諦めて問診票を書く努力をした。

一生懸命書き込もうとするのだが、もはや文字になっていない。
線の上を綺麗になぞって書いているつもりが見事に歪んで、文字の形状を成していない。

焦りがどんどん込み上げてくる中、問診票を見た看護師さんが大丈夫ですかと声を掛けてくれた。

「大丈夫ですか、横にならなくてもこのままで大丈夫ですか?」

「直ぐに先生診てくれると思いますから、何かあったら直ぐに言ってくださいね」

「ありがとうございます」

多分そう言った、そう言ったつもりだ。

元々不安障害があるのだから、こういう状況になった時は尚更気合を入れなければならない。
気合を入れると言っても気負ってはダメなので、心の中で色々と方法を模索する。
気を逸らそうと色々と試みてはいるのだが、一人で待っているのだ、そうそう落ち着く筈もない。

「いよいよ困ったな」

と思ったその時、後ろの方から誰かを呼ぶ声が聞こえた。

「〇〇さん診察室にお入りください、〇〇さん」

どこかで聞いたことのある名前だった。返事をしてスッと立ち上がった男性の後ろ姿に見覚えがある。

「あれ、〇〇さんかな」

ぼんやりとしていて、あまり意識ははっきりとはしていなかったのだが、何故だか懐かしい気がした。

そうだ、その人は父の同僚で同級生の父だった。

確か人工透析を受けていてかなり弱っていると聞いていたが、一人で病院に来ているのか?

同級生の母が亡くなった時に告別式に参列した。
顔を見るのはその時以来だ。

やがてその人は診察室から出てきた。
そちらに目をやったが俺に気付く様子はない。

看護師さんに何やら話しかけられている。
動脈硬化の検査がいつ頃あるかとか、薬の処方は同じままだとか、そんな内容だったと思う。

相変わらず耳は良く聞こえはしないのだが、聞こえる時と聞こえない時がある。

今日は良く聞こえている方なのだ。

不思議なことに看護師さんを待っている間、その人の姿がまるで親父が椅子に座っているように、重なり合っているように見えた。

そんなことある筈がないのに

「俺はここに居るから、大丈夫だしっかりしろ」

と言わんばかりに親父はそこに座っていた。

やがてその人は一通り看護師さんから説明を聞くと、またスッと立ち上がり去っていった。
あれだけ奥さんの告別式では弱った姿を見せていたのに、一人で病院に来て一人で帰るのか。

元々頑丈な人だと聞いてはいたが、病状や年齢に見合わない凛とした姿に俺は勇気をもらえた気がした。

看護師さんが呼びに来た。

「有難うございます、やっと順番が回ってきたんですね」

看護師さんに抱き抱えられながら診察室に入る。
先生が、問診票を見て早目に呼んだと言う。

色々指示された動作をこなしながら、MRIを直ぐに撮るように指示されるが、予約が埋まっていて撮ることができない。
その代わりにCTを撮ることになった。

促されるままに診察室を出る。

看護師さんが車椅子を持ってきてくれた。
車椅子にに乗せてもらいCT室に向かう。

CTを撮っている間も意識がぶっ飛びそうな感覚に怯えながら、なんとかCTを撮り終えると、看護師さんが待っていてくれた。

再び車椅子で待合室に戻る。

待っている間が長く感じられたが、父の同僚の姿を見てから体に少しずつ力が入るようになってきた。

やがて診察室に呼ばれた。

「大丈夫。今のところは異常は無さそうだけど、また同じようなことがあれば来てもらうしかないかな。」

「あ、はい」

「ところで既往がいっぱいあるね」

そう言われて見た先には、今回の敗血症性ショックの他に統合失調症の文字が見える。

またかと思わずにはいられなかったが、開き直るしかない。
再度問診を受けた際に自ら今の病状を告げる。

「なるほど、最初は統合失調症じゃないかと疑われて、この薬を飲んでいるうちに好酸球性肺炎を起こしたか。で、今は神経症だと言われていると」

そう言いながら、カルテに書き込まれていく。

「でも良かったね、問診票見てびっくりしてあのままだと大変な事になると思って写真撮ったんだけど、何もなくて良かったよ」

「字がミミズみたいになってたものな」

何故だろう、とても苦しい思いをしながらこの感触は。
同じ病院の中でもこうも違うものなのか。

「捨てる神あれば拾う神あり」

苦しい状況なので余計にそう感じるものなのか?

ともかく俺はこの先生の言葉に強く後押しされた。

統合失調症の文字の後に上書きされるようにコメントが書き加えられて行く。

初めて見た嬉しい光景だった。

「先生、結局何が起こってこうなっているんですか?」

「それは分からない、分かっているのは脳はひとまず大丈夫そうってこと」

「話を聞く限りでは自立機能も相当やられてそうだから、何がとははっきり言えないが時間はかかるかもしれないね」

「今はだいぶ落ち着いてるかい?」

「いえ、吐き気はしてますし体に力が入らないです」

「CTを見た限り脳梗塞もないし、大きな障害は見られないから脳は大丈夫と思って安心して」

「ちょっと別室で休んで落ち着いたら帰ってもらって大丈夫だよ、おかしいなと思ったらまた直ぐに来てください」

「はい、分かりました。ありがとうございました」

先生にお礼を言い、診察室を出た。

待合室の椅子に座る。

看護師さんが出てきた。

「〇〇さ〜ん、どうするちょっと休んでいく?」
「それともここでもう少し様子見る?おかしくなったらまた直ぐ診てもらえるから」

「あ、看護師さんここでもう少し休みます、調子悪くなったらまたお願いします」

「そう?じゃあ帰る前にまた声を掛けてね」

「分かりました、ありがとうございます」

ほんの数分間の出来事なれど、たったこれだけのことで15年来の苦しみが薄れて行く。

一応、今日は帰っても大丈夫と言われたけれど、全身が烏賊のようにふにゃふにゃとしていて力が入らない。
そして、重力に抗えないように果てしなく重い。

それでも少々安堵感を覚えた俺は、少ししてから病院を後にした。

看護師さんの笑顔がとても心強く見えた。

「こんなことが一体いつまで続くのだろうか?」

以前からは想像ができないような体の不調に絶望しそうになるけれど、それでも前に進むんだ。

戦いはまだ始まったばかりだが、一つだけ確実に分かったことがある。

人を愛するということを深く知らない俺だけれど、少なくとも親父には愛されていたということを。

それは、例え肉体を失って風のようになってしまっていたとしても、常に俺の側にあるということを。

俺は改めて今日知ったのだ。


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