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綿帽子 第二十七話

『残酷な向日葵が並んでいる』

元々厳しい残暑のおかげで季節外れに華々しく咲いていた向日葵だ。

それでも希望を胸に抱きながら歩き続けている自分にとっては、明るい未来の象徴の様に心和む存在だった。

まるで焼け爛れた様なその姿の前で、俺はしばらく立ち止まっていた。

数日前までの元気だった姿はもうない。

体が弱りきっているとちょっとのことで感傷的になったり、余計な考えを手繰り寄せてしまう。

突発的な何か得体の知れない物に汚染されたのではないか?
例えばそんなことだ。

実際俺はこの地域が放射能で汚染されたのではないかとGoogleで検索した。
それを植物を通して俺に教えてくれたのではないか?そんな妄想を膨らませたりもした。

生き生きとしていた向日葵の姿が、あまりにも無惨に変わり果てている。

その姿が今の自分と重なり合うような気がして残酷に感じたのだ。

向日葵の群れをあとにすると、やがて左手に小さな祠の様なものが見えてくる。

その後ろには小さい御神木なのだろうか、背丈は低いのだが祠の後ろから伸びている。
多分御神木なのだろう。軽く手を合わせてからその場を立ち去る。

緑豊かとは言い難いが、田んぼの横には水路があり若干水が流れている。
小魚が泳いでる姿を時折見かけることができる。

水路脇の草むらの中から蛙が飛び出して来ることもある。
春先になると蛙の卵を見つける事もできる。

もう少し先を歩けば山とまでは呼べないが木々が生い茂っており、鳥の鳴き声も聞くことができる。

傷んだ体を癒すには良い環境なのかも知れない。

ただ、その場所に俺は一人で居ることには変わりはない。
誰かが側を一緒に歩いてくれるわけでもない。
慰めの声をかけてくれる人もいない、こればかりは何も変わってはいない。

これから俺が見事に復活を遂げたとしても、それは成るようになっただけなのだ。

奇跡の復活を描いた物語は、本当に稀で希少な出来事だからクローズアップされている物であり、普通の人にはそんなことは起こらないのだ。

多くの人の励ましは要らない。

例え僅かでも自分の本当に信頼出来る大切な人からの声があればいい。

それすらない俺は一体何をどうやったらそんな風になるのか知りたいぐらいなのだ。

だけど、そうなんだから仕方がない。

自己啓発的な本などに書かれていることは、物凄く稀な出来事を物凄くデフォルメして書かれているのだと思う。
そうそう容易く起こったりはしないのだ。
もしかしたらそういうカテゴリーの本は夢を売る本なのかもしれない。

しかし例え夢を売る本でも、それがその人の力に成るのなら、それはそれで良いのだ。

実際俺もこの時期は占いとかそうゆう本に頼りたくはなった。

毎日一人で歩き、風に舞う埃を吸い、鳥の囀りを聞く。

小川のせせらぎとは言い難い田んぼの水路にせめてザリガニぐらいはいないかと覗き込む。

慣れない道を歩いているもんだから、街中の猫の代わりにイタチが目の前を横切ったりする。

『木から飛び出す婆さん』のおかげで、イタチが目の前を横切る意味とは何かとGoogle検索してからビビったりする。

俺の周りには常に大自然とまでは言い切れない中途半端な自然があり、風がブタクサの花粉を運び、極度の花粉症まで患っている。

「踏んだり蹴ったりじゃないか」

そう、平たく言えばそうなのだ。

踏んだりも蹴ったりもすることなんかないのに、そうなのだ。

中途半端な自然が中途半端にどちらにも転びやすい選択を迫っているのだ。

先を進むと右にカーブするように道が続いている。そのまま行くと墓地の前を通ることになるが、吸い込まれるような気がしてならないので、分岐する道を左に曲がる。

道沿いに進んでいくと昔の牧場跡に出る。
その昔競走馬も預かったりしていたようだが、今はもうその名残があるだけだ。
厩戸と柵のようなものが辛うじて残っている。

牧場の真ん中に大きな銀杏の木が立っていて、銀杏の実が成る季節になると独特の匂いが漂ってくる。

近くには春先になると、こごみや山うど、タラの芽が取れる林がある。
夏にはカブトムシが集まってくる雑木林もある。

でも、どんなに鳥や植物や虫たちで周囲が賑わっていようとも、一番大切な物は人の温もりなのだ。

どんなに自然の力を自由自在に扱えるドラゴン紫龍のような聖闘士になったとしても沙織さんの愛には勝てないのだ。

オビ=ワン・ケノービが常にフォースと共に側にいてくれたって、ルークも私生活では3人の子供に恵まれたお爺さんなのだ。

人間として生まれてきたからには、人間らしく生きてこそ人生に価値を見出せる。

それは自然界との調和の中にあるわけではなく、人と人との繋がりの中にだけ存在するものなのだ。

仮に自分が冒険家としての人生を歩んでいたとしても、そこには絶えず人がいる。

冒険家は決して心の中だけではなく、実生活の中でも孤独であるなら冒険家には成れないのだ。

そして彼らの素晴らしいところは自分を絶えずバックアップしてくれる人を、そして人達を見つけられる才能にある。

これを俺は50年も生きてきて掴み取れないのだ。
その方法を探し歩いて長い旅に出たままなのだ。

それはきっと大海原の遥か彼方にあるわけではなく、身近な所に転がっているはずなのに。

例えば、雨が降ったら水溜りが出来るように。

子供が笑えば母も笑うように。

そんなところに転がっているはずなのだ。


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