京都府内の石造物⑰:今熊野観音寺層塔、宝塔、五輪塔(伝・藤原忠通、藤原長実、慈円の墓、島津義久逆修塔)

名称:今熊野観音寺層塔、宝塔、五輪塔

伝承など:藤原長家、藤原忠通、慈円(以上宝塔)、島津義久逆修塔(五輪塔)

所在地:京都府京都市東山区泉涌寺山内町 今熊野観音寺


泉涌寺の塔頭の一つである観音寺は、「今熊野観音寺」と通称され、寺伝では弘法大師空海の創建と言う。

本堂に向かって左に建つ寺務所の前に、古様の三重の層塔が建っており、寺伝ではこれを創建当初のものとしている。

平安初期までは遡れないが、それでも古い石造物には違いなく、おそらくは平安時代末期の作と思われる。

近畿地方の層塔でも屈指の古塔であるが、不思議なことに石造物を扱った書籍などではほとんど言及がない。

むしろ今熊野観音寺で著名な石造物は、本堂裏の墓地内にある三基の層塔である(二枚目、三枚目、四枚目、五枚目)。

それぞれ藤原長家、藤原忠通、慈円の墓と伝承される(どの石塔が誰の墓に当たるかは不明)が、もとより石塔の年代と合致せず、かつ三者とも活躍した時期が異なるため、単なる後世の伝承に過ぎない。

宝塔自体は、鎌倉時代後期の作でいづれの方もその特徴をよく示している。

宝塔の向かいには、関西には珍しい形式、石質の五輪塔(六枚目)があるが、これは戦国時代末期に薩摩・大隅・日向の大守であった島津義久が造立した自身の逆修塔(生前の供養のために造立された石塔)であると言う。

地輪に慶長三年銘があり、形式は九州の地方色が強く出ており、石材も薩摩産の山川石と言う凝灰岩で義久が領地から運ばせたものと思われる。

一説によれば、島津義久の逆修塔ではなく、義久が三女の亀寿の逆修のために造立した石塔と言う。


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