14.3.2 日本の動きと東アジアの民族運動 世界史の教科書を最初から最後まで
第一次世界大戦への参戦
第一次世界大戦によってヨーロッパ諸国が打撃を受けると、中国に進出していたヨーロッパ諸国が一時的に後退。
そのスキマにちょうど入り込んでいったのが日本だった。
日本は日英同盟(【←戻る】13.3.2 日露対立と列強)を口実にドイツに宣戦。
「口実に」というところがポイントだ。
当時のイギリスの外務大臣は、日本が中国本土でドイツと戦う事態となれば「日本の中国進出を許すことになる」との懸念を表明。
中国における鉄道の利権をめぐって、日英対立が生まれていたのだ。
一方、「日英同盟の誼(よしみ)」を利用しようという尾崎幸雄(1858〜1954年)法相をはじめ大隈重信内閣(1914年4月〜1916年10月)の閣僚には「参戦をするべきだ」という主張が多かった。
首相は、井上馨(1836〜1916年)らの天皇に近い大物政治家(元老(げんろう))との調整をした上で、宣戦布告はせずに最後通牒を出し、その間にイギリスに対しても「出過ぎた行動はしないから」と説得し、最終的に参戦に至った。
こうして中国の中にあったドイツの租借地の膠州湾(こうしゅうわん、青島(チンタオ))を占領。
イギリスとの交渉の中で「戦後には返還するから」という話をつけていた場所だった。
また太平洋方面にも展開し、ドイツ領の南洋諸島(現在の、北マリアナ諸島(アメリカ)、パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)を占領する。
ドイツ人の捕虜(俘虜(ふりょ))は、日本各地の収容所に移送された。
21カ条の要求
一方は、当時の中国を支配していた中華民国のトップ(正式大総統)は、袁世凱(ユェンシーカイ;えんせいがい)という大物。
日本政府は、第一次世界大戦が起きる前から、袁世凱政権に対し「あること」について外交交渉する必要性があることを認識していた。
特に日露戦争でゲットした旅順(りょじゅん)と大連(だいれん)の問題だ。
この2の租借(そしゃく)期限はたった25年。
このままいくと期限が切れてしまう。
租借するには延長が必要だったのだ。
さらにあわせて、満洲の南部(南満洲)と中国側に近いモンゴルの東部(東部内蒙古)の鉄道や鉱山などを日本の思い通りに取り扱うことができる権利(特殊権益)として認めさせたい思惑もあった。
こうした内容自体は、当時のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の帝国主義的な行動を見ていれば、同時代的には大それた提案とは言えないだろう。
でも、19世紀末から「中国の「領土保全」をするべきだ!」と、アメリカ合衆国の国務長官がヨーロッパ諸国に対して何度も要求をしていた経緯(【←戻る】13.3.1 中国分割の危機)もあったよね。
そこで、諸外国向けに第4項を用意し、「中国の領土をもぎとろうなんて考えてないですよ」と“安心”させようと考えていたんだ。
しかし交渉が進まぬうちに、第一次世界大戦が勃発。
占領したドイツ権益を「日本の権益として引き継ぐよう、中華民国に認めさせるべきだ!」という軍部の主張が強まった。
そこで、第1項の内容が必要となる。
しかも、選挙を控えた加藤高明外務大臣は「自分は中華民国に対して強気の姿勢なんだぞ」と国内向けにアピールするために、1〜4項を一気に袁世凱に要求。おまけに諸外国には内緒で、第5項も付け足すことになった。
選挙向けに「強い政治家」というメッセージを出したかったわけだね。
加藤高明 外相
しかしこの第5項の内容は、どこから見ても「内政干渉」だ。
それがわかっていたからこそ、内容は内密にされたのだ。
袁世凱はこれを「中国の主権を無視するものだ」と拒否。しかも内容をヨーロッパ諸国にリークしてしまう。
リーク情報に触れたイギリス、フランス、アメリカは「おいおい聞いてないぞ」と日本に迫るも、日本政府はいまさら撤回できず...。
加藤外相の外交姿勢については日本国内からも批判が出る始末で、結局、1〜4条について袁世凱は承認することとなったのだ(つまり、中華民国は「21」カ条すべてを飲んだわけじゃない)。
シベリア出兵
なお日本は一方、第一次世界大戦末期にロシアの革命政権(ソヴィエト=ロシア政権)をブロックするためにシベリアに出兵していたよね(対ソ干渉戦争、【←戻る】14.1.6 ソヴィエト政権と戦時共産主義)。
ほかの国が撤兵した後も「革命勢力が残っている」として軍をそのままとどめたために、国内外の批判を浴びた。1922年になってようやく軍を引き上げることになった(北樺太を除く)。
なお、1920年にはアムール川の河口近くのニコラエフスクナアムーレ(尼港(にこう))で約700人もの在留邦人・旧日本軍軍人らがパルチザン(不正規軍)によって殺害される「尼港事件」もおきている。
三一独立運動
日本が支配していた朝鮮半島では、ロシア革命や民族自決の潮流に呼応して、独立への要求が高まった。
1919年3月1日、「独立万歳」をさけぶデモが、京城(現・ソウル)ではじまると、たちまち朝鮮半島全土に拡大。これを三・一独立運動という。
日本の総督府は軍隊・憲兵を増員して運動を鎮圧。
しかしこの事件にショックを受けた日本政府は軍事力による武断政治をあらため、「文化政治」と呼ばれる同化政策に転換することになる。
なお、1919年4月には朝鮮の独立運動の諸グループを統合して、大韓民国臨時政府が上海で結成されている。
現在の韓国と北朝鮮においても、この三・一運動は特別な意味を持つ事件であり続けている(ちなみに北朝鮮では三・一運動を始めたのは、金日成(キムイルソン)のお父さんということになっている)。
1919年には日本在住の朝鮮留学生によっても、日本政府への独立宣言書の送付や独立万歳をさけぶ集会が催されている。
当時の日本には、19世紀末以来中国、台湾、朝鮮、ベトナムからの留学生が多く受け入れられており、日本はそうした留学生の社会運動や独立運動の場ともなっていたのだ。
彼らアジアの留学生を、吉野作造や大杉栄のような知識人や運動家も、経済的・思想的に支援した。異なるバックグラウンドを持つ留学生同士が、ときに連帯することもあった。
日本のほとんどの新聞は独立運動に理解を示さなかったが、吉野作造は統治政策の見直しを提案している。
五四運動
1919年のパリ講和会議で、中華民国の政府代表は「二十一カ条の要求」取り消しや、日本の占領している山東半島のドイツ利権を中華民国に返還するよう提訴した。
ドイツが清(滅亡後は中華民国に引き継がれた)との間の取り決めで獲得していた利権なのだから、その利権がそのまま日本に横滑りでスライドされるわけじゃないのは、当たり前だ。
しかし、ヨーロッパの強国やアメリカ合衆国によってその主張が退けられ、中華民国の政府代表もそれを承諾すると、中華民国の人々これに抗議。
1919年5月4日に北京大学の学生を中心に大規模な抗議デモが勃発する。
この動きは条約への反対や日本反対の声となって各地に広まり、日本商品のボイコットやストライキがおこり、幅広い層をまきこんだ愛国運動に発展した(五・四運動)。
そのため中国政府もヴェルサイユ条約の調印を拒否せざるを得なくなったんだ。
五四運動は「日本を含む帝国主義に、中国人が勇敢に立ち上がった“原点”」として、その後現代に至るまで重要な出来事とされている。
じゃあ、日本が占領したドイツ権益は結局どうなったのだろうか?
じつは、パリ講和会議においては日本は山東半島のドイツ権益の継承が認められ、赤道以北のドイツ領南洋諸島を代わりに統治する権利を得る結果となった。
また、国際連盟の常任理事国となり、国際的な地位を向上させた。
明治維新(1868年)から約50年。
ヨーロッパ諸国と肩を並べる立場にまで“スピード出世”した日本は、大きな自信を得ることとなった。
ただ、1919年には人種差別撤廃を提案したけれど、これはイギリスなどの反対によって否決されている(【←戻る】14.2.6 アメリカ合衆国の繁栄。アメリカ合衆国が日本人移民を規制していることが提案の背景にあった)。
しかしその後、ヨーロッパの強国やアメリカ合衆国は東アジアでの日本の勢力伸長を警戒。
1921〜22年のワシントン会議ではアメリカ合衆国やイギリスなどが中国の主張を支持し、九カ国条約で中国の主権を尊重すべきことや、領土の保全が約束された。
また、日本と中国の交渉の結果、山東半島にあったドイツの利権も中国に返還されることとなった(【←戻る】14.2.1 ヴェルサイユ体制とワシントン体制)。
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