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13.3.1 中国分割の危機 世界史の教科書を最初から最後まで

日清戦争で敗北した清。
そこへ、「なーんだ、思っていたよりも弱かったんだ」とヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本がドッと押しかけていく時代を扱おう。


日清戦争の「分捕品」を描いた錦絵
戦後は日本の中国に対する見方も変化していった。


国内に鉄道を敷いたり、鉱山を採掘したりするのが、当時の「経済的な進出」の常套(じょうとう)パターン。
「◯◯地方に鉄道を敷く権利」
「●●地方の石炭を掘る権利」
さまざまな利権が、清の支配層からヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本に与えられることとなった。

この事態を受け、フランスによる資本のサポートを得てシベリアへのユーラシア大陸横断鉄道(シベリア鉄道)を企画・建設していたロシア帝国は、中国に支線をのばして一気に太平洋に出る作戦に出る。


そこで、日清戦争(1904〜1905年)で勝った日本が獲得した遼東半島(りょうとうはんとう)から、日本を追い出そうと計画。

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同じく中国への進出をうかがっていた同盟国フランスとドイツを誘って、日本に圧力をかけ、遼東半島を清に返させることに成功したのだ。
フランスとしては、1891年以降、露仏同盟を結んでいるため、共同行動に反対はしなかった。
また、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世としても、「このままではフランスとロシアが接近してしまう」と警戒し、外交官の進言を受け入れて干渉に協力することにした。
当時のヴィルヘルム2世は、「ヨーロッパ中心の世界が、アジア(特に日本)の台頭によって脅かされている!」という被害妄想にとりつかれていたんだ。

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黄禍論(黄色人種によってヨーロッパが脅かされているという説)のイラスト


この事件を三国干渉(1895年)という。



「追い出してやったんだから、何かくれよ」と、ロシアが清から得たのは「東清鉄道(とうしんてつどう)を敷く権利」(1896年)だった。


その後、中国へのヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本の進出は加速。

また、ドイツは「宣教師が殺害された」と訴え、1898年に軍隊を出動させて膠州湾(ジァオヂョウワン;こうしゅうわん)を借りることを清に認めさせると、同じ1898年にはロシア帝国も遼東半島南部を借りることを認めさせている。
いったん「返せ」といった遼東半島の南部を、「租借」(領土の一部を一定の条件で”借りる“こと)しちゃったわけだ。


その流れに乗って、1898年にイギリスは威海衛(ウェイハイウェイ;いかいえい)と

九竜半島の北部(新界)を租借。

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1899年にはフランスが中国南部の広州湾(グァンヂョウワン;こうしゅうわん)を租借する。



各国はさらに、租借した都市の周辺にも鉄道の敷設や鉱山の経営を進めていく。
・ロシア…東北(トンベイ;とうほく)地方
・ドイツ…山東(シャンドン;さんとう)地方
・イギリス…長江地方と広東(グァンドン;こうとう(カントン))の東部
・フランス…広東の西部と広西(グァンシー;こうせい)。
・日本…台湾の対岸の福建(フージエン;ふっけん)
以上の各エリアの利権の優先権が自国にあることを、清の政府に認めさせていった。


こうした領土のことは、「植民地」ではなく「勢力圏」と呼ぶよ。


清の政府の領土でありながら、「勢力圏」として認められた土地の利用が独占的に特定の国に認められるという”異常事態“を前に、アメリカ合衆国が動いた。


ちょうど1898年にスペインとの戦争(米西戦争)に勝利していたアメリカ合衆国は、「中国のマーケットに進出したい」「中国に鉄道を敷き、軍事拠点をつくりたい」「鉱山を開発してもうけたい」という国内の産業資本家(ものづくりによって資本を増やそうとした人たち)・金融資本家(資本を貸し出し利子をとって資本を増やそうとした人たち)に押されていたのだ。

国務長官のジョン=ヘイ(1838〜1905年)は中国の「門戸開放」「機会均等」「領土保全」を1899〜1900年の間にヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本に対して提唱。
そのため、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本の中国の利権争いはいったん小休止。



しかし、当の清(しん)内部はぐちゃぐちゃだ。
「日清戦争にどうして負けたんだ」
洋務運動という近代化プロジェクトは失敗だったじゃないか」
「このままでは中国が”瓜“のように切り分けられてしまう」
と、支配層や知識人も衝撃を隠せない。

「やはり日本を見習うべきじゃないか」
「近代化のヒントは日本が憲法を制定したことにあるんじゃないか」

このような意見も出るように。
皇帝を中心とする伝統的な支配をあらため、思い切った制度改革(変法)が必要だというムードが盛り上がっていく。

その中心となったのが、儒教の一学派である公羊学派(くようがくは)の中心である康有為(カンヨウウェイ;こうゆうい)先生だ。

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われわれ中国人が長い間大切にしてきた儒教の教えは、なにも「古い制度」を守ろうとするものじゃなかったはずだ。
孔子先生だって、もともとは政治改革者。
改革をすることは悪じゃない。
儒教は本来 ”改革はよいことだ“とする教えを説くものだ。

このように主張し、国会を開いたり憲法を制定することで、ヨーロッパ式の「憲法によって君主をしばる国」に、思い切って国を改造するべきだと訴えた。


ヨーロッパの国がなぜ強くなったかというと、国が「国民中心」にまとまっているから。
「君主中心」の国では国民はまとまらない。

これからは「国民中心」の国づくりをするべきだというわけだ。


康有為の意見は採用され、1898年に光緒帝(グァンシィーディ;こうしょてい、在位1875〜1908年)を説得して改革がスタートした。
これを戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)という。

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しかし改革に反対する保守派の力も根強い。
皇帝のお母さんである西太后(せいたいこう、1835〜1908年)と協力して、改革派を追放するクーデタが起きてしまう。これを戊戌の政変という。
改革はたった3ヶ月で失敗してしまったのだ。

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結局、改革派に協力した皇帝は幽閉(ゆうへい)。康有為や梁啓超(リアンチーチャオ;りょうけいちょう、1873〜1929年)も失脚して日本に亡命。

清に反抗する勢力を支援するグループがあった日本は、その後も改革派・革命派のある種 ”避難所“となっていくよ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊