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13.3.2 日露対立と列強 世界史の教科書を最初から最後まで

ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本によって清(しん)が複数の勢力圏(せいりょくけん)に分けられていくにつれ、人々が「外国人を追い出そう」とする運動も激しくなっていく。


そもそもアロー戦争(1856〜60年)によってキリスト教の布教が公認されて以来、中国各地に教会が建てられ、さまざまなところで外国人が活動するようになっていた。


これに対して反キリスト教運動(仇教運動(きゅうきょううんどう))が勃発。

1894〜1895年の日清戦争敗北後に、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本が北部中国に強引に進出するようになると、人々の反発はさらに高まった。

なかでも、山東半島の農村で、自衛のための組織をルーツに発展した宗教的な武術集団(義和団(イーフートゥエン;ぎわだん))は「ピンチの清を救って、外国人を追い出そう!」(扶清滅洋(ふしんめつよう))をとなえて、鉄道やキリスト教の教会を次々に破壊。キリスト教の宣教師や信徒を攻撃した。

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義和団はそのまま北京にも進出。
北京に置かれていた外国の公使館も、義和団の攻撃にさらされることになった。

このとき清がとった行動は、義和団側に立つこと。
これをチャンスにヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本を排撃しようとしたんだね。

史料 徳齢の回想による西太后

「皇帝など何を知っています、私はあれまではとてもうまく行っていたのですが、あの拳匪の運動がしまいに支那にあんな重大な結果を起こそうとは夢にも思いませんでした。あれが私の生涯でやったただ一度の誤りでした。私は直ちに勅諭を出して、拳匪がその信仰を実行にうつすことを禁ずるべきだったのですが、端郡(トワン)王と瀾王が、自分たちは拳匪こそあの面白からぬ憎むべき外国人を悉く追い払えるように、天から中国に送られたものだと確信していると言うのでした。」

西太后に仕えた徳齢による記述。徳齢『西太后に侍して』講談社、2023年、377頁
「本書にも、彼女が話を盛った部分がある。」が、「西太后は…「御伽衆」であり、自分と同様に旗人の娘である徳齢には、本音を語った。」(404, 408頁)。



しかし、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国、そして日本は「北京にいる自国民を保護する!」として、共同で出兵。8カ国連合軍は北京を占領し、出られなくなっていた自国民を救け出した。

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左からイギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の兵士。背の順だ。インドが入っているのは、当時イギリスが植民地としたインドから、精鋭のシク教部隊などを駆り出したからだ。



敗れた清は1901年に辛丑和約(しんちゅうわやく、北京議定書)に調印。
巨額の賠償金と支払いと、外国軍隊を北京に駐屯することを認めざるを得なかった。

この戦争は、これまで北清事変と呼ばれることが多かったが、中国史研究者の小林一美は「義和団戦争」と称すべきであると提唱している。日本も参加した東アジアにおける最初の多国籍軍による戦争であり、日本は西欧列強にとっての「極東の憲兵」という役割を果たした。

小松裕『「いのち」と帝国日本』小学館、2009年、51頁。


しかし、義和団の一件が終わった後も、8か国連合軍の主力だった日本とロシア帝国は中国東北地方から撤兵することなく、朝鮮半島への圧力を強めていく。


すでに1897年に大韓帝国と改名し「皇帝」を名乗っていた朝鮮王朝の高宗(コジョン)はは、日本とロシアの動向を警戒し、「われわれは独立国だ」と示したのだけれど、事態は不穏になるばかり。


イギリスやアメリカ合衆国の支配層は「ロシアが朝鮮半島に侵攻するのは避けたい」と考えていたのだが、当時のイギリスは南アフリカの戦争(南アフリカ戦争;ボーア戦争)に、アメリカはフィリピンでの戦争(アメリカ=フィリピン戦争)に忙しく、それどころじゃない。


そこで「じゃあ日本を支援して、ロシアをブロックさせればいいじゃん」と1902年に結ばれたのが日本とイギリスの同盟(日英同盟)だ。

一方のロシアのことは、シベリア鉄道などに莫大な鉄道公債を発行していたフランスがバックアップ。さらに関心を東方にひきつけておきたいドイツも、ロシアにたくさんのお金を貸している。「ヨーロッパではなく、敵はアジアですよ」というわけだ。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がこの絵のような「黄禍論」を主張したのは、ロシアの関心を東方にひきつけておきたいという意図もあった。

つまり、日露戦争というのは、単に日本とロシアの対立というだけではなく、ドイツ+フランス 対 イギリス+アメリカ の代理戦争という見方ができるのだ。


シロクマと相撲をとるミカド(フランスの絵葉書) 後ろでイギリス、アメリカ、ドイツなどが見物をしている。


***

こうして日英同盟とアメリカ合衆国の支援を後ろ盾にした日本政府は、ロシアへの強硬姿勢をとるようになっていく。ただ、戦争にはお金がかかる。非常特別税法という形で、国民に大きな負担がのしかかった。反戦論も唱えられたもののの、世論は知識人の声明やマスメディアを通した強硬論も活発化し、急速に開戦支持へと傾いていった。

史料 政友会の指導者原敬の日記

我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり。政府が最初七博士をして露国討伐論を唱えしめ、又は対露同志会などを組織せしめて頻りに強硬論を唱へせしめたるは、斯くして以て露国を威圧し、因て日露交渉を成立せしめんと企てたるも、意外にも開戦に至らざるを得ざる行掛を生じたるもののごとし。
『原敬日記』一九〇四年二月十一日

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年。



1904年2月4日、御前(ごぜん)会議で開戦が決定され、日本はロシア帝国に宣戦。

特に旅順の攻略は、極東にロシアの軍艦を集結させないために必要不可欠なものとされた。そこで海軍は陸軍に次のように何度も頼み込み、共同作戦の実行を実現させた。

史料 秋山実之(さねゆき)から乃木希典への手紙
 
実に二〇三高地の占領いかんは大局より打算して、帝国の存亡に関し候えば、ぜひぜひ決行を望む。[中略]旅順の攻略に四、五万の勇士を損するも、さほど大なる犠牲にあらず。彼我ともに国家存亡の関するところなればなり。

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年。表記は現代語にあらためている。


その後、1905年5月27日〜28日には、東郷平八郎率いる海軍が日本海海戦でロシア海軍に勝利し、バルチック艦隊の艦艇のほぼ全てを損失させた。


ただ経済的にも士気の面でも、長期戦に耐える余裕はなかった。
旅順攻略戦では1905年1月陥落まで3度にわたる総攻撃で、第三軍(13万人)のうち戦死者1万5390人を出す結果となった。

1905年1月にかけての旅順における激戦を勝ち抜いたものの、おびただしい数の若者が犠牲になったことは日本の世論を否定的な方向に導いた。

また、ロシア側も戦争による国内への締め付けが「第一次ロシア革命」を誘発。戦争どころではなくなっていった。



両者を「仲介」するという設定で、アメリカ合衆国のセオドア=ローズヴェルト大統領が、1905年にアメリカ合衆国ポーツマス

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で両国の和平をとりもった。
これをポーツマス条約という。

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内容は以下の通りだ。

まずはこれ。

第二条 ロシア帝国政府は,日本国が韓国において政治・軍事・経済上に抜群の権益を持つことを承認し,日本帝国政府が韓国において必要と認める指導・保護・監督の措置をとる場合に,それを妨害したり干渉しないことを約束する。

日清戦争の下関条約では、

第1条 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。

であったのが、さらに一歩レベルがすすみ、「指導・監督する措置」を認める内容になっている。
事実上、植民地化への道がひらかれたということになる。

また、

第3条 

一 本條約ニ附屬スル追加約款第一ノ規定ニ從ヒ遼東半島租借權カ其ノ效力ヲ及ホス地域以外ノ滿洲ヨリ全然且同時ニ撤兵スルコト

二 前記地域ヲ除クノ外現ニ日本國又ハ露西亞國ノ軍隊ニ於テ占領シ又ハ其ノ監理ノ下ニ在ル滿洲全部ヲ擧ケテ全然淸國專屬ノ行政ニ還附スルコト

露西亞帝國政府ハ淸國ノ主權ヲ侵害シ又ハ機會均等主義ト相容レサル何等ノ領土上利益又ハ優先的若ハ專屬的讓與ヲ滿洲ニ於テ有セサルコトヲ聲明ス
[注:露西亜帝国政府は清国の主権を侵害し又は機会均等主義と相容れざる何等の領土上利益又は優先的若は専属的譲与を満州に於て有せざることを声明す。]

とあるように、ロシアは満洲から撤兵し、帝国主義列強は「機会均等」をかかげてこぞってここに進出することができるようになった。この条文の重要性もおおきい。


さらに、


・ロシアは樺太の北緯50度よりも南の領土を、日本に譲る。

・ロシアは、東清鉄道の支線(南満州鉄道。旅順(ルーシュン;りょじゅん)と長春(チャンチュン;ちょうしゅん)と、その周辺に付属する炭鉱(石炭の掘れるところ)を「租借」(レンタル)する権限を日本に譲る

・ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島の一番南のところ)を租借する権限を日本に譲る


・ロシアは沿海州の沿岸で漁業する権限を日本人に与える






日本がヨーロッパの国であるロシア帝国に勝利したことは、ロシアが西ヨーロッパに遅れをとっていたとはいえ、世界に様々な反応をもたらした。

たとえば、ロシア帝国の進出によって圧迫されていた中央アジアのトルコ系イスラーム教徒の中には、日本がいちはやく近代化をしたことに刺激を受け、ロシアの勢力を追い払おうという意識を高める指導者も現れている。


だが、日露戦争に勝利した後の日本は、むしろヨーロッパやアメリカの強国と肩を並べたという意識でもって行動していくことになる。
イギリスとの同盟(日英同盟)を維持しつつ、国際環境の変化から1907年にイギリスとロシアとの間に英露協商(えいろきょうしょう)が結ばれ、同年、日本も敵国であったロシアとの間に日露協約を結んだのは、その現れだ。
こうしてロシアとイギリスの後ろ盾をゲットした日本にとって、中国や朝鮮への進出に対するハードルはますます下がっていったのだ。


・2023.6.18 加筆・修正


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊