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14.2.1 ヴェルサイユ体制とワシントン体制 世界史の教科書を最初から最後まで

1919年1月、協商国連合国)の代表があつまって ”勝ち組“による、”負け組“(同盟国)に対する措置について話し合うための講和会議が、パリで開かれた。
パリ講和会議だ。

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戦場となって荒廃したヨーロッパ諸国は、言ってみれば ”自爆“ したようなもの。
植民地の取り合いが招いた悲劇は、自分たちのまいた種だ。


自己解決できなかった ”ヨーロッパ諸国“ が頼ったのは、新興国であるアメリカ合衆国の圧倒的な経済力

協商国側に立って参戦したアメリカ合衆国は、多額の資金をあつめてイギリスやフランスに貸し付けた。
アメリカ合衆国の「マネー」が、第一次世界大戦における協商国の勝利をみちびいたといっても過言ではなかったのだ。


というわけだから、パリ講和会議での発言権も、おのずとアメリカ合衆国が大きくなる。
合衆国大統領のウィルソンは、すでに1年前の1918年1月に「14か条」を発表。

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このなかで、従来のヨーロッパの古い国際政治のスタイルを一新する、あたらしい世界観を打ち出した。

たとえば、秘密外交に代表される「国民の意見に基づかない政治」を批判。
どこの国と同盟するとか、敵対関係を結ぶとか、そういう決定が国民の頭越しになされていた従来の外交方針を“時代遅れ”のものとした。
また、平和や社会的な公平こそが人々の願いだとして、「帝国による植民地取り合い合戦」を批判。
代わりに「自由な競争のあるビジネス」を世界中にひろげることで各国の結びつきを強め、戦争を防いでいこうというプランを掲げた。


実はこの「14か条」、
さらにさかのぼること数ヶ月、1917年11月にロシアで革命を最高させたソヴィエト政権の指導者レーニンが打ち出した「平和に関する布告」を意識したもの。


11月8日、レーニンらは全ロシア=ソヴィエト会議を招集し、「われわれがロシアの新政権だ」と宣言。
すでに滅んだロシア帝国が戦っていた敵に対しては、

「①領土の要求はしません」(無併合)
「②賠償金の要求はしません」(無償金)
「③民族ごとの意見を大切にします」(民族自決)

この3つの原則をかかげ、“仲直り”をしようと呼びかけたんだ。
これを「平和に関する布告」という。


ウィルソン大統領は、レーニンの思想がヨーロッパはおろかアジアやアフリカに広まることをおそれ、アメリカの立場を鮮明にする必要に迫られたのだ。

しかし、実際にはウィルソンは「14カ条」の中で、「民族自決」とハッキリ述べているわけではないし、ソ連に比べ魅力は薄いものだった。


アメリカ合衆国の打ち出した「新しい世界秩序」の方針に対し、世界中に植民地などの従属地域を持ち「帝国」を築いていたイギリスとフランスの政権担当者はおもしろくない様子。

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フランスのクレマンソー(1841〜1929、在任1906〜09、1917〜20年)

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とイギリスのロイド=ジョージ(在任1916〜1922)は、

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あくまで植民地を手放さず、敗戦国であるドイツを二度と立ち直らせることのできないように完膚なきまで叩きのめす方針をとった。
おびただしい犠牲者を出した大戦の後処理に対し、”生ぬるい“対応では国民も黙っていない。
この時代の外交は、もはや“国民不在”でおこなえるものではなく、国民の顔色もうかがいながら話を進めていく必要が出てきていたのだ。



「民族自決」?

こうして結局、民族の意見を聞いて「民族ごとの政治的なまとまり」を確保してあげられた場所は、もともと①ロシア帝国、②オーストリア=ハンガリー帝国だったエリアに限定されることに。

オスマン帝国だったエリアは、事実上“対象外” となったんだ。


ロシア帝国の領土からは、
フィンランド


エストニア
リトアニア
ポーランドが独立。


ベッサラビア地方はルーマニアに与えられた。

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②ハプスブルク家の支配していたオーストリア=ハンガリー帝国は、サン=ジェルマン条約トリアノン条約によって、オーストリアとハンガリーが切り離され

その領土だったところは、
チェコスロヴァキア


ハンガリー


ユーゴスラヴィアとして独立。

一部はルーマニアにも与えられた。
ハプスブルク家による長い長い支配は、こうして幕を閉じたのだ。





オスマン帝国の領土だったところは、
セーヴル条約によってギリシア王国に割譲されたほか、クルド人やアルメニア人にも領土が認められ(その後、トルコ共和国の建国と戦争によって、ギリシア王国、クルド人戦争中に虐殺を受けたアルメニア人のエリアは、トルコ共和国の領土に変更されることになる)、
いくつかの「委任統治領」(後述)と呼ばれるエリアに分割されていった。


こうして、3つの巨大な帝国が、地図上から消滅したわけだ。



しかし、その処理の方法は、ほとんどは住民の実情を理解したものとは言えない代物。


とくに現在のシリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラクのエリアは、1916年のサイクス=ピコ協定にもとづき、イギリスとフランスの事実上の勢力範囲となってしまう(ロシアは革命によってこの協定を放棄している)。



それに世界中に散らばる敗戦国ドイツの租借地(そしゃくち)や植民地も、けっきょく ”勝ち組“ 諸国の取り分となった。

こうした戦後処理をめぐっては、諸国の思惑が渦巻き、世界中の人々の期待とは裏腹に、結局のところイギリスやフランスの「帝国」支配を”延命“ する結果となったといっても過言ではない。

「結局、「帝国」による世界の支配の構図はなんにも変わってないじゃないか」と、アジアやアフリカの人々の期待をうちくだくことになった。




なお、敗戦国との講和条約は、それぞれ個別に結ばれている。順番に見ていこう。


ドイツの講和条約(ヴェルサイユ条約)


1919年6月に、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で、ドイツは協商国と講和条約を結んだ。
場所にちなみ、これをヴェルサイユ条約という。

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ポイントは明快。
ドイツは「すべての」植民地を失うこととなった。


さらに以下のような項目が取り決められた。

・フランス国境近くで鉄鉱石の産地でもあるアルザスとロレーヌをフランスに返還。1870〜1871年のフランスとの戦争の結果、ドイツが獲得していた領土を返した形だ。




・ポーランドなどの周辺国に領土を返還。
ライン川流域を非武装化
・徴兵制を廃止
・陸軍を10万人以下に
・海軍を大幅に制限
・戦車、軍用飛行機、潜水艦の保有の禁止


きわめつけは、巨額の賠償金の支払いだ

・1921年に決定された額は、1320億金マルク(当時のドイツの通貨は金に兌換(だかん)することができなかったので、戦前の金マルクを金額の算定に用いたため、このような単位になる)。
とうてい払いきれないような莫大な額であり、「ドイツを厳しく罰するべきだ」という“感情論”によって決められたといっても過言じゃない。

こうした “理不尽”とも思える条約を締結した社会民主党(SPD)政権に対する批判は、しだいに「この条約締結の背後には、ドイツで革命を起こした共産主義者やユダヤ人がいたんじゃないか? われわれドイツが負け、屈辱的な条約を結んだのは、彼ら “ドイツ人の敵” による背中からの “ひと突き” が原因だったんじゃないか?」という不穏な噂(うわさ)へと変わっていくこととなる。

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当時のドイツで流布した「背中からの一撃」のイメージ



その他の国の講和条約

1919年9月にオーストリアサン=ジェルマン条約を締結。

オーストリアはドイツ人のみの小さな共和国となり、もともとオーストリア=ハンガリー帝国だった領土とロシア帝国だった領土からは、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、フィンランド、ポーランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの独立が認められた。


1919年11月にブルガリアはヌイイ条約を締結。
1920年6月にハンガリーはトリアノン条約を締結


また、1920年8月にオスマン帝国はセーブル条約を締結。

オスマン帝国の領内では、アラビア半島ではイブン=サウードが独立することが認められた。


しかし、シリアとイラク、トランスヨルダン(現在のヨルダン)、パレスチナは、それぞれ「いきなりどくりつさせるとかえって混乱する。落ち着くまで、代わりに協商国に支配を”任せよう“」ということになる。



こうしてフランスがシリア(現在のシリアとレバノン)、イギリスがイラクトランスヨルダンパレスチナを代わりに統治することになったわけだ。


でも、そもそもイギリスは戦時中に、パレスチナを含むアラブ人の領域に「アラブ人の国」を建設することを認め、さらにパレスチナに「ユダヤ人の国」をつくることも了承していたのだから、”言ってることとやってることがまるで違う“という状況。


この ”代わりに支配する“領土 (委任統治領)の仕組みだって、はっきりいってイギリスとフランスが従属地域を広げたいという本音が見え見えだ。

(注)これらの条約の地名は、話し合いの舞台となったパリの近郊の地名からとられている。



国際連盟の設置


こんなふうにさまざまな物議をかもした「戦後世界」のプランの中で、ひときわ異彩を放っているのが国際連盟(リーグ=オブ=ネーションズ)の設置だ。
アメリカ合衆国のウィルソン大統領の肝いりではじまったこの組織は、ズバリ「世界平和をめざす国際組織」。

すべての国が加盟し、平和を乱す国をみんなで懲らしめようという発想だ。これを集団的安全保障という。
同盟や協商の結びつきによって、ヨーロッパが2つのグループに分かれてしまったことへの反省だ。





本部はスイスのジュネーヴにおかれ、総会、理事会、連盟事務局を中心に運営され、ロシア革命を意識して国際的な労働者に関する問題を話し合う国際労働機関(ILO)や、国と国との間のもめごとを仲裁する常設国際司法裁判所も設置された。


しかしドイツなどの敗戦国やソヴィエト=ロシア政権は、当初加盟することをゆるされず、構成国はヨーロッパ諸国にかたよった。

提案した当のアメリカ合衆国大統領も、「どうして税金をヨーロッパの平和のために使わなきゃいけないんだ」とアメリカ合衆国の上院の反対を受け、国際連盟設置を定めるヴェルサイユ条約を国として受け入れることに失敗。
結局、アメリカ合衆国は国際連盟に参加できない形となってしまう。


地球儀の上に立ち、世界の警察官として活動するウィルソン大統領を描いた社説漫画。アンクルサムが彼の腕を掴み、"America first!"と言っている。地球上のいたるところに、ウィルソンがモンロー・ドクトリンを拡大したことに基づく新しい命令や法律が描かれている。ウィルソンは、メキシコ、中米、カリブ海などの地域で「宣教師外交」を可能にするため、ドクトリンを拡大したと評価されている。 シカゴ・トリビューン紙に掲載されたもので、日付は不明。https://dl.mospace.umsystem.edu/mu/islandora/object/mu%3A419623/print_object



そもそも国際連盟には武力制裁の規定はなく、経済制裁などソフトな制裁手段しかなかったため、これじゃあ世界平和なんて守れないという批判もあった。
でも、小さな国々どうしの国境をめぐるもめごとを解決したり、文化交流をすすめたり、また人身売買を規制するなど、一定の成果はあげたといっていいだろう。


こうして、ヴェルサイユ条約によって新しくはじまった戦後の国際秩序のことを「ヴェルサイユ体制」という。
アメリカ合衆国にとってみれば、ウィルソン大統領の提案した「自由な競争によるビジネスを普及させるプラン」は実現できなかったわけだから、決して満足のいく結果とは言えないね。
イギリスとフランスは、痛手を負いながらも、世界中の植民地を死守した上に、さらに「委任統治領」という名目で支配をつづけようとしたわけなのだから。


ワシントン体制

ヨーロッパを中心とする新秩序にくさびを打つことができなかった、アメリカ合衆国の支配者は、対象をアジア・太平洋地域にうつすことに。
「もう国際的な事柄は十分だ。戦争はたくさんだ」という国民の世論を受けつつも、なんとか日本の勢力拡大を防止したかったアメリカ合衆国の共和党政権。

1921〜22年には、アメリカ合衆国大統領ハーディングが提唱し、

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イギリス、フランス、日本などの9か国をワシントンDCに集め、会議をおこなった。
これがワシントン会議だ。
この会議の目的は、東アジアにおける新興国である日本の勢力を封じ込めること。


アメリカ合衆国:イギリス:日本:フランス:イタリアの5つの大国の間で、主力艦の保有トン数と保有比率を、5:5:3:1.67:1.67に定める海軍軍備制限条約が結ばれた。
また、中国の「主権尊重」「領土保全」を掲げ、中国でこれ以上勝手に勢力圏を拡大させないことを約束した九カ国条約

それに、太平洋の島々の「現状維持」を定めたアメリカ合衆国、イギリス、フランス、日本の四カ国条約も結ばれた。





四カ国条約によって、日本がイギリスと締結した日英同盟は解消。
イギリスを日本の後ろ盾から外し、外交的に孤立させる作戦だ。

ワシントン会議で決まった、アメリカ合衆国主導のアジア・太平洋エリアの新たな国際秩序を「ワシントン体制」という。



こうして、ヨーロッパのヴェルサイユ体制(ヨーロッパで滅んだ帝国の後処理と、ソヴィエト=ロシアの社会主義の拡大防止、ドイツが二度と戦争をしないような対処を盛り込んだもの)と、アジア・太平洋地域のワシントン体制(アメリカ合衆国が、日本の大陸進出を防ごうとしたもの)の2つの体制が、1920年代の国際的な秩序の柱となっていったんだ。




このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊