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夏の終わりの王国

もう夏至だ、太陽の時代だ!とうきうきしたのはついこの前なのに、気づいたら暦の上ではもう立秋を過ぎている。

なんてびっくりなんだと思いながら、去年も同じことを言っていた気がするし、きっと来年も同じことを言っているのだろう。

夏も終わりが近い。

そういえば川上弘美さんの小説『ニシノユキヒコの恋と冒険』には、「夏の終わりの王国」という章があって、そこに以下のような会話がある。

「夏の終りの王国に、いつか僕も招待してよ」西野くんは言った。ほほえみながら。
「ああ、いつかね。いつか、もっとわたしが年とって、もっとわたしが賢くなって、もっとわたしが強くなったら」

この文章は最初、Xのアカウントでひそやかにフォローしている、ひとひら言葉帳という名前のアカウントで見つけて、夏の終わりの王国という言葉がすごく気に入ってしまい、小説を借りて読んだらやっぱり好きだった。

本を読んでいてたまたま好きな文章と出会うのはもちろんすごく特別なことだ。でもそれと同じくらい、何かの文章を見かけてその本を無性に読んでみたくなるのもいいなって思う。

そんなこんなで、今日は久しぶりに、最近考えたり感じたりしたことをあれこれ書いておく。来月の頭からはもうしばらくnoteに来られないので、夏が終わる前に。

かなり長いです。それでは参ります。

栞のこと

本を読む人間が栞というものを気にかけるのは、ある意味ごくごく自然なことなのだろう。

私もある時期から、栞というものを少しずつ集めてきた。本を読んでいる最中に読書を中断して他のことをしなくてはならないとき、栞があるととても便利だからだ。

そうは言いつつ、たとえ栞がなくてぱたんと本を閉じてしまっていても、一体どこまで本を読んだのか、ページをめくっていけば余裕で分かる。

それは雨が降っているところから降っていないところへと入っていくみたいに、明らかなものなので、本当はわざわざ栞を買ったりしなくてもいい。

そもそも本に挟める薄くて小さいものならば、なんでも栞になり得る。

それに単行本だろうが文庫本だろうが、小説の多くにはスピンと呼ばれる紐の栞がついているから、それを利用すれば栞などというものは最初から必要ない。

けれど日常的に本を読むひとの中には、せっかくなら栞使いたいな、と思うひとも多いだろう。どうせ挟むなら気に入っているものにすると、本を開くたびになんとなく明るい気持ちになるからだ。

ちなみに私は通り道で見つけた四つ葉のクローバーとかをよく本に挟んでいた。

栞自体もいろいろ持っている。

プラスティック製でポップなりんごの絵がついている栞、幼いころ知り合った女の子が沖縄へ行ったときに送ってくれた、ステンドグラス風のジンベイザメの栞(もうぼろぼろ)、チューリップの花のついてる栞、葉の形をした金属製の華奢な栞、年下の女の子が春にくれた桜の花の栞、この前親友がくれたミュシャの春の栞。

かと思えば、少し大きめの紫陽花のステッカーを挟んでみたりしている。かわいい絵を印刷したり切り抜いたりしたやつも栞として使っている。

栞を集めるというのは、なんかとびきりいい感じの楽しみだ。好みのものを探すのも、手に入れて使うのも楽しいし、そんな栞を挟みながら本を読むのはもちろん最高だし。

もし読書を愛するみなさんがお気に入りの栞を持っていたら、一体どんな栞を愛用しているのか、ぜひ教えてください。

新入りの栞かわいいのだ


おともだちたち

友達という言葉は実はかなり曖昧で、どこからどこまでを友達とするのかというのは、ひとによって結構変わってくる。

そういう話をかつて、中学生のころの友達としたことがある。彼とは3年間吹奏楽部でがんばった仲だ。私がコントラバス、彼がチューバだったので、低音パートとして放課後はほぼ毎日一緒にいた。

あるとき、友情についての話をしていて、私が「自分が友達だと思ってても、向こうはそう思ってないこともあるよね」と言ったら、彼は「俺は俺が友達だと思ってるひとを友達とするからそんなの関係ない」と言っていた。

私はそれに対して何も言い返せなかった。横暴なやつだな、と思ったけど、胸のどこかでは確かにそうかもしれんな、と納得したからだと思う。

ちなみに私は彼のこともすごく好きだった。

それでね、大人に近づくと、「遊ぼう」という言葉の意味がかなり変わってきちゃうでしょう。私はいま、そのことにすごく悩んでいるのだ。

私のことを好きでいてくれるみんなは、遊ぼうとか、会おうとか言って私のことを誘ってくれるのだけど、その提案内容は大抵1日中どこかへ出かけるとか、お酒を飲みに行くとか、そういうのが多い。

もちろん本当に行きたい!と思える友達とならばいくらでもそういうところへ行くのだけど、それはちょいとちがうなあ…みたいな子だと、おろおろしてしまう。

1日中遊び歩くにはちょっと長すぎる相手が、私には多分多すぎる。そして「遊ぼうよ」「会おうよ」の意味が、私と彼女たちとでちょっと違っている。

たとえば私の「会おうよ」は、一緒に3時のおやつを食べようよとか、そこら辺を散歩しながらおしゃべりする時間分だけ会おうよ、とかそういうレベルのもののことが多い。

でもみんなからすると「会おうよ」はどこか遠出してランチするとか、ボウリングやダーツやカラオケへ行くとか、夜日が暮れるまで一緒にいるとか、そういうことみたいなのだ。

それが私にはちょっとつらいときがあって、あなたにはすごく会いたいし、会ってくれるのはすごくうれしいのだけど、そうじゃないの…!って思ってしまうことが近ごろ多い。

それぞれの友達とは、それぞれに適切な会い方や、ちょうどよい時間の長さのようなものがあって、それが互いに一致していないと、会うことさえも億劫に感じてしまう。

私はあんまり長時間出歩きたくないし、できれば日が暮れるまでにはおうちに帰っていたいタイプだから、そこをわかってくれるお友達と会うのがやっぱりいちばん楽ちんだと思ってしまうのだ。

わがままかなあ。ちょっとわがままかもしれないなあ。

そうだ、ついでに思ったことをかいておくのだけと、そもそもお友達が多い方がいいなんて、そんなわけもないと私は考えている。

もちろん知り合いが多いのは素晴らしいことだけれど、友達が多いということと人脈が広いということは全然違うことだ。私はそこを勘違いしたくない。

そうすると私の友達って、結構少ない気がする。家族と恋人以外でほんとに私を理解してくれるひと、私も相手を理解できる(あるいは、しようとする)相手はかなり限られてくる。

人間関係も、やたらに広げると難しくなったり絡まったりするので、できるだけひとりひとりに対して真摯に付き合えるくらいの範囲内に留めておきたい。

そんなことを最近思った。

本屋さんへいきたい

本屋さんへ行く夢を見た。

山を降りてきてから、私はずっと本屋さんへ行きたい。そして小説をたくさん手に入れて、できればずっとそれを読み続けたい。

何度も何度も書くけれども、世界には読むべき本がたくさんある。それを思うと私はそれを本当にうれしい気持ちになる。

そして救いようがないくらいかなしくなる。

読むべき本が多くあると同時に、世界にあるすべての本を読むことができないということも頭で分かっていて、そのことに絶望を覚えるくらいには、私は文学というものを愛しているみたい。あーあ。

それは世界中の全てのひととは出会うことができないし、すべてのひととは話をできないのと似たようなことなのかもしれない。

そう思うときっと、嘆くことでもない。自分から誰かに近づいていくように本を手に取り、その時々に出会ったものを大切にする他に、私にできることはないのだろう。

未読既読ごちゃまぜ積読スペース


すいかとめろん

私はぬいぐるみが好きだ。かわいい。お店に並んでいるとつい欲しくなる。そして妹や恋人に「もういっぱい持ってるでしょ」と叱られる。

ぬいぐるみに名前をつけない方がいい、みたいな話も聞いたことがあるけど、私はぬいぐるみには名前をつける。幼いころから、ぬいぐるみに名前をつけることで命名のセンスを育んできたつもりだ。

名前をつけるということについて考えたとき、果たしてものがあってそれに名前をつけるのか、先に名前を考えていて何かにそれを与えるのか、というところはすごくすごく気になる。

子どもに名前をつけるときにも、生まれる前から、男の子ならこの名前、女の子ならこの名前、と考えている場合もあるだろうし、反対に生まれてからこの名前にする!みたいに決めるもあると思う。それがおもしろい。

漫画『陰陽師』の最初の方に「名前はいちばん短い呪(しゅ)だ」というのがあって、たしかにそうだろうな…と漫画を読むたびに思う。

ここでの「呪」というのはおどろおどろしい感じではなくて、ただ、名を与えられることで対象を縛ることになっている、ということらしい。ポチと名付けられた犬はポチとして育つし、タマと名付けられた猫はタマ以外の猫にはなり得ない、みたいなこと。

(おもしろいなあと思ったら、『陰陽師』読んでみてください。私は夢枕獏さんの小説の方はまだ読めていないけど、夢枕獏さんの小説を原作とする奥野玲子さんの漫画は最高です)

まあともかく、名前というのは不思議なものだ。

だから私はぬいぐるみに名前をつけるたびに、その名前でぬいぐるみを縛っているのかもしれない。ひつじのめえちゃんとか、うさぎのみみちゃんとか。

基本的にはぬいぐるみを手に入れてからしっくりくる名前をつけるタイプの私だけど、例外もある。私は今後、もしきりんのぬいぐるみを入手するようなことがあったら、そのきりんには、かりんとうという名前をつけると決めている。

また同様に、マスコットくらいの小さなペアのぬいぐるみを見つけたら、その子たちには、すいかとめろんという名前をつけようと思っている。うみとさばくもいいな。人間には絶対つけないような名前がいいな。

ただ、ぬいぐるみを買ったのに名前をつけないで置いておくと、妹や恋人がみょうちきりんな名前ばかりつけて私のことを困らせるので、そこだけは気をつけなくてはならない。

いるかのぬいぐるみに「いるかのいるか」という名前をつけられたり、サンリオキャラクターみたいな愛らしい犬のような見た目のマスコットに「はんばあぐとぅいんくる2号ぽちゃむきん」という名前をつけられたりしたら、もうたまったものじゃない。

はんばあぐとぅいんくる2号ぽちゃむきん


私は1度名を与えられたものに再度別の名をつけるということはしない。

それは名を与えられた時点で、そのものとその名はぎゅっと結びついてしまっていると思うから。1度与えられた名を剥奪してまで別の名をつけるというのは、相当な緊急事態時でなければ、自然なことではない。

私だって、生まれたときにもらった名前で呪をかけられて23年も生きてきたし、これからもこの名で生きていくのだもの。

秋の果実

すいかとめろんという題でぬいぐるみや名前のことを書いたから、今度はちゃんと果物の話をすることにする。

このまえの夕ごはんのあと、桃と梨と葡萄をたべた。ちなみに漢字で葡萄と書いたのは、桃と梨の漢字表記に合わせたからだ。私はぶどうに関してはひらがなで書く方が好き。

私は果物と呼ばれるものの全般が好きで、出されるとかなりたくさんの量をひとりで食べる。ちょうどこれくらいの時期から秋にかけては、さっき挙げたみたいに果物がたくさんあって本当にいい。果物だいすき。

でも私が唯一あまり好きじゃなかった秋の果物がある。無花果だ。

無花果はやわらかくて、ぐじゃっと、ぬめっとしているから、まずそこがあまり好きじゃなかった。かぶりつくとむにゃっと形が崩れて、中からつぶつぶがたくさん出てくるでしょう。あれも苦手だった。

味も特別甘いわけでも酸っぱいわけでもないし、なんとも言葉で表現しにくい。

だから果物には目がない私だけど、無花果だけはあんまり積極的には食べなかった。食卓に並んでいても自分からは手を伸ばさなかった。

「食べたら?」と言われたら食べるけど、言われなければ無花果を好きな妹たちや祖父に譲った。

けれど、この数年で私は無花果を平気で食べるようになった。なんでかは分からない。まだすっごく美味しいと思ったことはないけど、自分から手を伸ばして食べるようになったのだ。

なんでだろうと考えてみるけど決定的な理由はない。私がちょっと大人になったということなのかもしれないな、と勝手に思っている。

今までにも何度かそういうことはあった。

思いきり転んで膝から血が出たのに不思議と泣かなかったとき。ある春の朝に頭がぼやぼやしている感じがして、それきり以前のようなクリアな頭に戻らなかったとき。外でおままごとをして遊ぶより、家の中でおしゃべりをしていたいと思ったとき。だいすきだったぶらんこに乗ったら気分が悪くなったとき。

そういうときに私は「私ちょっと大人になったのか」と思った。これは感覚的な話なので何か特別なことが起きているわけじゃないのだけれども、とにかくそう感じた。

だから無花果をすんなり食べられるようになったのもそれのひとつなのだと思う。

あいかわらず苺や林檎や蜜柑の方が好きではあるけど、無花果というのは字面もおもしろいし、響きもおもしろい。今年は無花果を食べる機会があるかな、山へ行くから食べられないかもしれないな。

なんでもかんでも毛嫌いせず1度食べてみるようにしようと思う。

そして果物の漢字表記は、なんだかそのときしか使わないような字がいっぱいでおもしろいね。みんなはなんの果物がすきですか?

切手、葉書、手紙

このまえ、暑中見舞いを無事に出したら、まじめな大学の同期、眼鏡の彼から返事が届いた。

彼は今先生をしていて多忙を極めているはずなのに、わざわざ返事をよこしてくるところがほんとうにまめだと思う。私のことを大切な友人だと思ってくれているということが態度からも言葉からも実感される。

そういえば、秋から郵便料金が上がるみたい。

私はわりとよく手紙を出す。しかもそれは、学校や仕事の上で誰かとのやりとりが必要な公式の郵便物ではなく、単に私が出したくて出す手紙だ。

手紙を書くというのは、自分の持っている時間を誰かに使うということの典型的な例だと思う。私は人生を削っていくものとして語ったり、どんどん減っていく、死へのカウントダウンへの過程として捉えるのは好きじゃない。でもそれは事実でもある。だから自分の持っている時間を誰かに捧げるのは尊いことだし、そもそもそう思える相手とめぐり会えること自体が奇跡のようなことだと思う。

文字を書くのには結構時間がかかる。間違えたら書き直すし、こだわりのあるひとならば便箋や封筒も選ぶ。切手代も必要だ。

でも手紙を書く時間は本当に豊かな時間だと思う。

そして手紙のよいところは、送り手が手紙を書いた時間と、貰い手がその手紙を受け取って読む時間がすこしずれている、というところだと思う。

それは、いま空に見ている星の光がじつはすこし前のもので、もしかするといまその星はないかもしれない、みたいなのとちょっと似てる気がする。ちょっと違う気もするけど。

手紙に書かれているそのひとからの言葉は、いまこの瞬間のものではなく、すこし前のそのひとからのものなのだということ。もう手紙を書いたときのそのひとはいないかもしれないし、そこに綴られている気持ちももうないかもしれないということ。だからこそ胸に迫るものがある。

私は家のポストに誰かからの手紙が入っているのを見つける瞬間が好き。手紙を家へ持って入って、鋏でちょきんと封を切り、中身を取り出す瞬間も好き。きれいに折られた便箋をひらいて文字を目で追う時間も好き。全部読み終わって、もう1度最初から手紙を読み返し、言葉を噛みしめるのも好き。

そういうわけで、私は私にとって大切なひとびとに宛てて手紙を書く。家に帰ってきて私から手紙来てたらちょっとうれしいでしょ〜とか、傲慢なことを思いながら。

手紙を書く時間は単に私の癒しの時間でもあるので、そういう時間をいつまでも持ち続けたいものだな、と思う。たとえ切手の料金が上がってしまってもそれは変わらない。

眼鏡の彼が送ってよこしてくれたポストカード、かわいい


理想的なお部屋

私は片付けや整理整頓、といったことがものすごく苦手だ。

どれくらい苦手かというと、勉強机がすっきりとした状態で保たれていることがほとんどなく、きれいなままだと驚かれるくらい。

ところがひとの前で取り繕うのはうまいので、学校の引き出しやロッカーはわりと整頓できていた。大学では友人たちに何もかもさらけ出してしまっていたのでそれも無理で、私の席周辺はいつも散らかっていた。

そして私は持ち物がすんごく多い。昔からそう。私の机の引き出しはいつも、ものがぎゅうぎゅうに詰まっていた。反対に、3歳年下の妹の机の中はいつもきれいだった。ちょっとすかすかしていて逆にさびしいくらい。

妹によると私には収集癖があるらしく、たとえばレターセットとか、シールとか、ペンとか、文房具の類にはとりわけ目がないのでどんどん増えていく。そんなにハイペースで使うものでもないから余計に多くなりやすいのだろう。

そういうわけで、私はおそらくミニマリストになることはできないだろうし、かといって収納も下手くそだからお部屋がいつも散らかっている。

かわいくてすっきりしたお部屋をつくりたい。けれど、むり。私のお部屋はものにあふれてごちゃごちゃしているし、好きだと思ったものをあれこれ集めるから統一感もまったくない。

でも、だいすきなもので構成されたお部屋にいるとすごく安心する。さっぱりとした部屋に住むことはできないかもしれないけど、私は、旅立つ前のキキの部屋みたいな、やさしい雰囲気のお部屋に暮らしたいな、と思う。

片付けと整頓は練習しなくちゃだけど。

ナルニア国への愛

驚くべきことに、ここではまだ1度も書いたことがないみたいなのだけれども、私はナルニア国物語がだいすきだ。

小学校高学年のとき、母が「これあなたが好きそうよ」と教えてくれた映画が、ナルニア国物語第1章の「ライオンと魔女」だった。

私はそれを見てまんまとナルニアをすきになってしまい、第2章「カスピアン王子の角笛」の映画もすぐに観た。1度では飽き足らず何度も見た。映画の台詞を丸々全部言えるくらいだ。

それくらいあの世界観に魅了された。

第3章が映画化されるという情報をキャッチしたときには、家族みんなで映画館へ観に行った。

第4章以降は残念ながら映画が制作されていないから、学校で本を借りて原作を読破した。ちなみに私は原作の全7冊のうち、5冊目の「馬と少年」がいちばん好きだ。何度も読んで頭の中で完璧に映像化されているから、もし映画化されることがあったら、自分の脳内のイメージと映画との違いに苦しむはめになるかもしれない。

C.S.ルイス原作の物語自体のファンであるのはもちろんだけれど、私は映画からナルニアの世界へ足を踏み入れてしまっているので、映画3作はやっぱり特別だ。ナルニアのことを語り出すときりがないので、今回は映画に限定して書くことにする。

最初に見たときから、私はあの映画に出てくるペベンシー4人兄姉弟妹がすごくすきで、もう本当にすきですきでたまらなかった。

ナルニアの世界観が好みど真ん中だったのはもちろんそう。魔法が生きていて、神話に出てくる神様や妖精や言葉を話す獣がいて、戦いもある。

けれど、あの俳優たちが映画をより魅力的にしている。

あんまりにも好きすぎていてもたってもいられなくなり、役者宛にファンレターを書こうと試みたこともある。映画の場面の画像を家のパソコンで調べては印刷し、ノートに切り貼りして写真集のようなものを作り、それを大切に持ち歩いていたこともある。

ウィリアム・モーズリー演じるピーター・ペベンシーはもう私の初恋のひとみたいなもので、未だかつてあんなに映画俳優に熱をあげたことはない。今でも本当にだいすき。ピーターみたいなハンサムで格好いいお兄ちゃんがいたらどれほどよかっただろうと何度思ったことか。

私が金髪碧眼の西洋少年に憧れを持つようになったのはナルニアがきっかけだもの。ピーターめ。

末っ子のルーシーがうらやましくてうらやましくて仕方なかった

アナ・ポップルウェルのスーザンは大人っぽくて、唇がぽってりしているところが最高に魅力的。きまじめでちょっと頭が固いところもあるけれども、弓矢がうまくて、とてもきれいなお姉さん。

私はスーザンに強く憧れていたので、髪を伸ばしてゆったりと垂らし、地面に引きずるほど長いワンピースを着て、お手製の弓矢を持って家の庭を走り回って遊んでいた。なお、妹とふたりでナルニアごっこをするとき、妹は必ずルーシー役、私はスーザン役だった。

笑顔が可愛い
かっこいい…


次男のエドマンドは第1章では裏切り者扱い(というか実際そうだった)されてちょっといろいろ大変だったけど、第2章では成長していて、お兄ちゃんのピーターを立てて自分は1歩下がったところで控えながら全体を見ているという、いちばん格好いいポジションのひとになっている。

そしてエドにはなんとも表現しがたい絶妙なユーモアがあって、笑ってしまう。

スキャンダー・ケインズは黒髪黒目で他のペベンシー兄弟を演じる俳優さんとはまた雰囲気がちがっていて、それがすごく効いている。

第2章のエドマンドはビジュアルが大優勝しているから、映画を観たことがないひとは本当に見てほしい。彼の横顔を見てほしい。本当にきれいだから。

男子たち、よい
懐中電灯のくだりもだいすきである


ジョージー・ヘンリー演じるルーシーは太陽のような明るい女の子で、ルーシーがいなかったら、この物語はかなり暗いような気がする。末っ子でお兄ちゃんお姉ちゃんに守られているけど、最初にナルニアを見つけたのはルーシーだし、アスランを誰よりも信じているのもきっとルーシーなんだと思う。

第2章のルーシーの髪型(前髪を編みこんでそれを後ろでくくっている)、本当にかわいくて、さらさらの髪が風になびいたり、ルーシーが動くたびに髪が揺れたりするのを見るのがだいすきだった。妹は真似して学校にこの髪型で行っていた。

この髪型!
かわいい

私はこの4人が本当にだいすきで、ナルニアが好きというのはもちろんだけど、映画のペベンシー兄弟が好きでナルニアを好きと言っている節もちょっとあるように思う。

でもこんなにも4人を好きなのは、彼らが兄弟姉妹という設定だからだと思う。

私はファンタジーにおける恋愛が結構好きだ。というのは、ファンタジー物語における恋愛は、恋愛そのものを主軸に据えた作品のそれよりもはるかに淡く描かれるからだ(そんな気がする)。

特にハイ・ファンタジーでの恋愛要素は、騎士が姫に恋心を抱いているとか、愛する誰かと過去に大切な約束をしたとか、一緒に旅をしていてちょっと相手が気になるとか、そういうふうに物語に華を添えるくらいで、みんなは冒険したり戦争したりで忙しいので少女漫画みたいな恋はしないし、していたとしてもそれほど細かく描かれない。

そしてそれは私の好みにぴったり合っている。

ナルニア国物語は作中の恋愛要素がかなり薄い。強いて言うならば、映画第2章でスーザンとカスピアン王子がちょっと惹かれあうけど、生きていく世界がちがうので結局お別れしなくてはならない、というくらいのものだ。

カスピアンのこと忘れてた
これは3作目

ナルニア国物語は、第3章までは血縁者たちが主軸となって物語が進んでいく。だから恋の要素もない。兄弟や親戚では、そもそも恋愛に発展し得ないからだ。でもそれが純粋な冒険をするためにはすごくいい設定になっている。兄弟姉妹たちは喧嘩もするけど、仲もよくて助け合いっこする。その様子がかわいい。

そして4人兄弟姉妹に関しては、きっと役者さん同士がものすごくなかよしなんだろうな…というのがにじみ出ていて、それがまた尊い。だから好きなのだと思う。どこを組み合わせてもかわいい。本当に、本当にかわいい。

かわいいとかすきとかしか言ってなくてごめんなさい。

そして衣装や小道具なんかも最高にいい。衣裳担当の方、小道具担当の方は本当にすばらしいお仕事をしていると思う。

あんまりにもすてきなので、同じくナルニアを愛する妹と映画を見ると毎回、「なんなのこのカスピアン王子の服の襟元の刺繍は」「エドマンドにこの色を着せたのは誰?」「テルマールの盾の紋章かっこいいな」「このドレスはスーザンにしか似合わないわ」とか、ずっとしゃべってしまう。

ライオンのアスランはアスランで、なかなかいいことを言う。

「同じことは二度起きないのだよ」とか、「自分の価値を知りなさい」とか、そういうことをいろいろ言う。

ナルニア国物語はキリスト教の世界観を強く反映しているから、もしかしたら聖書にそういうのがあるのかもしれないけど、残念ながらそこまではちゃんと知らない。聖書も読んでみたいな。

…と、まあ、ナルニアについて語り出したら止まらないので、今日はここらへんでやめておくことにする。

なぜナルニアのことを書こうと思ったかというと、過去に金曜ロードショーでやっていたナルニアの映画を録画したものをやいていたDVDが最近発掘され、第2章だけ見返したからだ。

やっぱりだいすきだった。

どうせいつまでも好きだし、定期的に見たくなるのだからと言って、妹とふたりでその勢いのままDVDを購入した。今はそれが届くのを心待ちにしているところだ。

ナルニアのことは、また機会があれば書くかもしれない。

犬の寝言

私の家には犬が1匹いるのだけれど、彼女はずいぶん歳をとり、もうすっかりおばあちゃんになってしまっている。

昔は雪の季節も花の季節も外を飛んで遊び、その名を呼べば全速力でこちらに駆けて来たのに、今では必要最低限しか歩かない。名前を呼んでも、大きい声でなければちっとも聞こえないらしく、結果的に知らんぷりされてるみたいになることもある。

この夏はあまりにも暑かったのですっかりばててしまい、犬はすんごく痩せた。2、3日ほどごはんもあんまり食べなかったことがあって、家族みんな心配していた。いまは、すこし回復して元気になってきたところだ。

そんな犬は、近ごろよく眠っている。

眠っているとき、夢を見ているのか、むにゃむにゃと寝言を言っている。たぶん吠えているつもりなのだろう。夢の中では外を走り回って山に出る動物を追いかけたり、番犬としての役割を全うすべく、知らないひとに向かって吠えたりしているのかもしれない。

犬が眠って寝言を言っているのを聴くと、かわいくてかわいくて仕方がない。

そして同時に、この犬も何年かしたら死んでしまうのだなあ、と勝手に考える。なぜそんなことを言うの、まだ生きてるのにひどいと思われるかもしれないけど、私が小学生のこらからいる犬だから、正直いつ死んでもおかしくない。

生きているものは必ず死んでしまう。それは生きものと暮らすことの本当にかなしくて愛おしいことのひとつだ。

自分より先に寿命がきてしまう動物と関係性を築き、いつかは最期を見届けること。死んでしまうからこそ、生きているうちにたくさん可愛がって愛してあげること。

それは動物も人間も同じで、いつか必ずお別れが来る。お別れが来るのはかなしい。私も前に飼っていた白い犬が死んだときは本当にかなしかった。

でも、だからといってもう犬を飼わないとかそういう風にはならなくて、私たちはたったひとりきりの誰かを愛するように、世界でたった1匹しかいない犬を愛する。うちには猫もいるので、猫ももちろん愛する。

死んでしまった犬の代わりに犬を飼っているわけではない。あの犬の代わりも、いま一緒に暮らしている犬の代わりも、どこにもいないもの。

だからいまよぼよぼになってきている犬が死んでしまったら、私はまたこころの底からかなしんで大泣きするのだろう。きっとそうあるべきなのだ。

彼女の額や背中を撫でるときには、私のひと撫でひと撫でが彼女にとって最高に気持ちよくありますように、と願う。

生きているうちに、やさしくやさしく可愛がってあげよう。彼女の白濁した目がどんなふうに私を映しているか、ちゃんと覚えておこう。遠くなってしまった耳にも聴こえるように大きな声で何度も名前を呼んであげよう。できるだけ、いいにおいのする、おいしいごはんを食べさせてあげよう。

私より後に生まれ、先に死んでしまう犬の寝言を聞きながら、最近よくそんなことを考えている。

夏の終わりへ

これを書き終えようとしながらテレビで甲子園を見ていたのだけども、私の住んでいる県の高校生たち、9回裏からとんでもない逆転勝ちをしてしまい、もう本当に感動した。なんて格好いいんだろう。

普段は滅多に見ないのに、ときどき機会を与えられてスポーツの試合を見ると本当にこころを揺さぶられてしまうのだから、スポーツはすごい。甲子園、しっかり応援しよう。がんばってね、みんな。

朝夕の気温、風のにおい、雲の形なんかが秋のそれに近づいてきて、ちょっと切ない。今年の夏とのお別れも近い。季節はまた私を置いていく。

しかし秋もわるくない。

だから夏の終わりを堪能しながら、自分のやるべきことをがんばろうと思う。高校球児たちがあんなに必死で戦っているから、私も必死に自分の日々と戦おう。これを書き終わったらちゃんとします。

今回はあれこれ写真も入れて記事を書いてみたから、ちょっと目が楽しいといいのだけど。そうは言いつつ、ほぼナルニアの話で終わってしまった私を許してください。私の根っこのほとんどは、ナルニアとジブリでできているの。

みなさんも夏の疲れが出ないように、しっかり身体を休めてくださいね。長かっただろうに、ここまで読んでくださってありがとう。

今夜は月がきれいだから、ぜひ夜空を見上げてみてね。

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