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ACT.26『九州グランドスラム 6 伝統の道と真実の扉』

阿蘇を去る時

 阿蘇を離れる時間がやって来た。
 阿蘇を離れる…今自分が居る場所は阿蘇から離れた宮地に居るが、それでも少し懐かしい時間を過ごす事は出来たかもしれない。今回は豊肥本線の復旧記念館が開館していなかったが、次回の阿蘇訪問時には開館していると非常に嬉しいと思いながら、九州横断への道を進める事にした。
 迎えてくれたのは黄色いディーゼルカーである。1両の小さく可愛らしい車両だ。唐津でもこの車両に出会っている。キハ125系という九州のローカル線用気動車であり、割と九州の南部や西側では標準的に走行しているイメージが存在している。
 写真は客扱いに向かって入換を行っている最中の写真だ。雄大な山々を背景に複雑に組まれた線路を行き来するその姿は、流石。自然を売りにしているだけの事はある。
 前回の話の続編…にもなってしまうかもしれないが、赤水・立野付近は蒸気機関車時代だともっとこうして配線が複雑に組まれていたらしい。その時代は今感じる事が出来ないが、鉄道に乗車していればその行程に雰囲気を偲ぶ事は出来るだろう。

 車両は全体的に眺めてみると…こうして映る。
 唐津で発見したキハ125系に関してはロマンシング佐賀のラッピングをしている特殊な車両だったが、こちらは軽油の汚れや経年的なモノを感じさせる渋い状態になっていると考えて良さそうだ。
 行き先と時刻表の時間を確認していると…どうやら次はこの列車に乗車して、先の駅に向かうようだ。どうやらそのようになっており、行き先も『豊後竹田』と表記されている。

 再び、客扱い入換の写真に戻していこう。
 遠く踏切を越えて入換を実施していたキハ125形だったが、再び警報器を鳴らして戻ってきた。車の運転手からすれば「また鳴ったよ」と勘弁を食わされた気持ちになっているだろうし、鉄道の乗客からすれば「ようやく乗車できる」という安堵だろうか。互いの気持ちが交錯した状態が、この1枚に収まった。
 さて、ここから豊後竹田まで乗車した…のは良いが、記録が殆ど残っていない。恐らく乗車中は熟睡していたのだろう。(絶対にそうだ)
 という事で豊肥本線の全盛期について。基本的に鉄道の全盛期の時代、というと戦後復興からしばらくしての昭和30年代以降すぐから…が当てはまるだろうか。
 豊肥本線の鉄道全盛期、というのは気動車優等列車が華々しく走っている路線であった。現在の観光特急が固める時代からは想像が難しい…モノがあるが、当初は気動車準急、気動車急行の往来が日豊本線を介して行われており、観光の他にも都市間連絡を担う大事な路線であった事が窺える。
 気動車急行に関しては列車名が『ひかり』と命名されていた。『ひかり』はあの新幹線で現在使用されている『ひかり』である。東海道新幹線の開業に伴って昭和39年10月1日のダイヤ改正で『ひかり』の名を新幹線に譲る事が決定した時には、地元…熊本県の新聞紙にもそのニュースが掲載され、ニュースにもなったほどだった。九州内を走行する列車から、一気に新幹線への出席とは大きな飛躍だろう。
 そして豊肥本線は昭和39年に入り、9600形蒸気機関車の活躍する日本最南端の路線としてSLファンから注目されるようになっていった。大正の革命蒸気…はヒッソリと火山の噴火があった大地で余生を暮らしたのである。

 豊後竹田に到着した。
 豊肥本線に乗車し、九州を横断した…は良いものの宮地以南の写真が全くと言って良いほど存在していない。
 その後に甲子園球場での関西ダービー観戦などにあたって再び写真データなどを見返したが、全然と言って良いほど写真の存在が無く
「非常に惜しい事をした」
と現在は頭を抱えてしまうのみである。この先、自分は一体どうしていたのだろうかと調べてみたところ、豊後竹田からはキハ200形という気動車の普通列車に乗車して大分に向かっていた。
 そこまでは判明している。そして、ここまでは書ける範囲である。

※宮地で恐らく撮影しています

 豊後竹田→大分にて乗車したキハ200形という気動車の写真だ。今回は行き違い待ちにて撮影した写真が偶然発掘できたので、その分を掲載しておく。
 赤いキハ200形(系列)は豊肥本線の他にも久大本線での活躍もしており九州の情熱…そして、九州の山深い自然に映える気動車鈍行というイメージが存在している。
 しかし、車両として現在こうして眺めて感じるのは、ローカルや鈍行としてのイメージではなく車両としては洗練されていて、架線下ディーゼルか高規格の非電化路線を走っていても変ではない気動車だと自分では感じてしまった。それくらいスタイリッシュに仕上がった車両だと思っている。自分が小さい頃から図鑑の中には存在している車両なので、きっとそれなりの中堅選手気動車だと思う…のだが、いつまでも色褪せないデザインをしているのは非常に素晴らしい事だ。

諏訪方面で活躍したC12-67

 と、豊後竹田→大分でも記憶は存在していない(微々たるものしかない)ので、ここで『昭和の阿蘇事情』を知ったらば忘れてはならないある場所の話を記そう。
 大正・昭和の鉄道全盛の時代。立野・赤水での全盛期を誇った路線…といえばやはり気動車の優等列車で都市間を結束させた豊肥本線も捨て難い、のだがここはもう1つ存在している。
 それが高森線だ。高森線では、この写真に掲載した小型蒸気機関車・C12形が大活躍し、聖地のようにもなっていた。列車はC12形による混合列車が占めているのみ。気動車もなければ動力近代化の時代までは小型蒸気が自然の雄大か景色を駆け抜けた…までだったので、それは素晴らしかっただったろう。
 自分に関してはこの高森線は映像の世界だけでしかなく、中学生の時期にはNHKの映像で何回もC12形蒸気機関車がこの路線を走る姿を見返した。旧型客車に小さな貨車を従え、悠々と自然の中を画面ではあるが走っている姿。そしてその背後を飾る心地良いBGMは中学時代の青春の1幕なのである。
 高森線は開業時に宮地線として開業。名実共に宮地からの鉄路として歴史を始め、熊本の奥地の自然と共存する生活を送ってきた。
 高森線は昭和3年に開業したが、予定では高千穂方面と接続して宮崎方面との連絡を強化する狙いもあったようだ。しかし、トンネル掘削が難工事に立ちはだかる。湧水、出水の事故が多く断念し、現在の17.7キロの形状に落ち着いたのだった。
 高森線が動力近代化の波を迎えて気動車導入になったのは、昭和39年の話。豊肥本線との直通列車、高森-熊本での列車が2往復導入され気動車となった。同時に、豊肥本線の列車も気動車化されている。
 現在は国鉄の赤字83線政策や分割民営化…等を乗り越え、高森線は『南阿蘇鉄道』として第3セクター鉄道の再起動を切っている。観光要素を多く取り入れ、トロッコ列車も運転しているようだ。
 震災でも大きな被害を受けていた…そうだが、新型車両を導入し、更にその新型車両はJRとの直通運転の方も検討しているらしい。これからが楽しみだ。
 現在、この高森線については活躍していた蒸気機関車の保存…を始め、設備の第3セクター継承、等でその名残を体感できる。

 大分からは日豊本線に乗車した。九州の鉄道の中でも格式と伝統のある路線だ。
 九州東部の幹線として鉄道全盛期の昭和から様々な列車が往来した格式と伝統のある道…だが、現在はこうして車両編成も短い普通列車が走行している。
 大分から乗車した際には多くの乗客で埋まっており、着席もやっと…な状況だったのだが、しかし徐々に客足は分散していく。そうして自分だけになった。気付けば、終点の幸崎が近い所までやってきた。早いものだ。
 列車は普通列車…といえど駅間の長さが比ではないから勢い付けてカッ飛ばしている。817系のモーターサウンドが響き渡っていた。

 移動中に、415系の疎開留置を撮影していた。
 みかん形のベンチが設置されている…という事で写真の判読はきっと早くなるだろうと思ったが、写真に関しては車両番号とみかん形のベンチという2つの動かない証拠が映っており解析は早かった。
 車両番号に映っていたのは『モハ415-124』という番号。車両は415系のFo124編成であった。
 そして、みかん形のベンチに関しては杵築と津久見にあるらしい。そして、記事を作成中に日豊本線の415系疎開留置目撃…に関して調べていると、コレと同じような写真が発見された。
 その中に『津久見駅で観察』の文字があり、そうして発覚したのである。1ヶ月前の旅路を記憶していないのも自分ではかなりの失態であり曖昧な範囲になってしまうが、差し迫る事や勤労の面でも多忙でこういった写真の存在などすっかり忘れていた。

415系電車。通称・白電という名前でも呼ばれた。写真は幕回し中の1シーン。 ※2022年撮影

 津久見に疎開されていた415系電車、とはこのような電車だ。
 電車としては典型的…な東海形急行のスタイルをしているが、JR九州の電車としては交直両用の電源と周波数を活用し会社境界線(在来線)の下関にも乗り入れが可能という個性をもっている電車だ。
 昭和、平成と活躍してきたJR九州にとっては国鉄時代からの大事な存在の電車…であり、かつては九州の東西でその姿を眺める事が出来た電車だった。しかし、車両の経年劣化を理由に次々と引退・廃車が発生していく。今回の津久見駅疎開留置が決定した車両もその一環だろう。
 車両としては、国鉄時代に開発された常磐線に並行投入(時期は少しズレる)された401系の流れも汲み、鉄道史にも名を刻んだ交直両用電車だ。この旅でも後ほど乗車するのでお楽しみに。

 幸崎に到着した。日豊本線に於ける普通列車運転の一定の境界…といった所だろうか。大分からはこの駅で一旦途切れていたが、自分のようにこうして大分から終着の幸崎まで乗車した客は殆ど居なかった。
 しかし静かな駅だった記憶しか今は残っていない。この幸崎付近から日豊本線は佐伯に向け、本当の恐ろしさを見せつける。
 日豊本線には峠越え、そして霧島連山を目前にした山岳区間の走行というのが迫っている。しかし、この時は天然で何も気がついていない。あの駅が接近していた事にも…

笑うなら今のうちに

 どうしてこの男は勉強しないのだろう。どうしてこの男は現実を知ろうとしないのだろう。自分が分離して障害など持っていない真っ当な人間なら、そう諭したに違いない。それ位には自分という人間はとぼけてこの駅から先を目指そうとしている。
 幸崎から佐伯まで移動した。この際に乗車したのは福岡の都市圏や上有田方面でも一時的にその姿を見かけた813系で、自分にとっては少し意外性のある出会いであった。都市圏を走っている電車にこうした風光明媚な風景とこの路線事情はスペックの無駄遣いではないのだろうか。

 佐伯にはこうして駅の待合室がサイクリストの為に改良されている構造になっていた。
 コンセント電源付きの座席は勿論の事、自転車の修理環境、はたまたシャワー室などもあり相当な環境の作り込みにされていた。
 自分のように鉄道の乗客もこの待合室を活用していたが、決してそういった制約などないのだろうか。そして、このモダンな雰囲気は今を思えば一体何だったのだろうか。
 結局、充電できるならここしかないと思っていた自分はこの先で充電をしながら記事を1つ。キーボードを海越えて九州に持ち込んだからこそ、と連載の方を書き進めた。

 佐伯の待合室はこのようになっている。こういった時点ではサイクリスト向けの解法にされているが、鉄道利用者でも充分に活用できそうな待合室だ。
 路線の事情が閑散とした本線だからこそ…かもしれないが、学生の自習場所としても活用されそうな雰囲気などもある。
 佐伯付近には駅を出て少しした先にファミリーマートが存在しており、そこで買った食事をこの待合室で開封して食事するのもまた何か良い活用法だろうか。
 しかし、時間が時間だったのか肝心のサイクリスト利用は一向になく。自分と僅かな旅人が列車をこの駅で待機しているのみとなっていた。時刻としては既に夕刻付近になっており、また違う時間に寄っていれば違う客層の人がこの場所に来ていたのかとすら考えてしまった。

 佐伯駅のホームに関して。
 待合室(といってもサイクリングステーションの要素が濃い)の出迎えフォントが国鉄だった…事もあり、何か駅構内にもその時代に近い絵が記されている。
 地元出身の漫画家氏による作品を掲出しているようだ。この他には、釣りキチ三平の絵も飾られていた記憶が残る。(そうだったかな)
 昭和の時代。日豊本線といえば自分の憧れであり、九州の鉄道の賑わいを司っているイメージが自分の中にはある。
 数々の寝台特急が運転され、東京や大阪といった大都市と九州を繋ぎ、名門特急の走った街道でもある路線。現在でも走る『にちりん』などは昭和の時代から走行しており、国鉄色やJR九州継承後の赤い485系で運転される姿は見応えがあった。
 かつては、この日豊本線にも『かもめ』『みどり』と現在は西九州方面で主役を張っている列車たちが走行しており、全盛期の東九州の主役。鉄道輸送の主役としてこの路線を駆けていたのだった。
 列島に於ける鉄道発展の全盛期。昭和30年代以降は日豊本線の宮崎方面が新婚旅行先として人気を呼んだ。この時期には日豊本線に様々な急行列車・準急列車が集中してた時期でありこれらの列車は格上げされて特急に昇進していく。歴史的な観光地や日本の遺産と共に鉄道も発展し、昭和の全盛期を謳歌していたのだった。

絶望開始

 電車に乗車して、自由自在に動き回れるこの国の環境というのは決して当たり前の環境ではない。それは、昭和の時期に多くの準優等列車を走らせて特急に育て上げた日豊本線とて同じ事なのだ。
 今から、衝撃をただただ体感する事になる。が、この時の自分は全くそんな事を考えていない。写真もそんな呑気で撮影したものであり、自分は余裕しかなった。この時には。

 佐伯から電車に乗車して延岡方面に乗車し、そのまま上岡、直美、直川…と乗車していくと急にこのような駅に到着してしまう。列車はこの駅にて折り返す。
 体感時間は何分ほどだったろうか。しかし、1時間は乗車していなかった気がする。佐伯から急にこの駅で終点…と言われても何か全く腑に落ちないというか、一体この駅で何があるというのか。何をするというのか。そんな感覚になっていた。
 しかし、この列車に乗車していた乗客は自分ともう1人の乗客だけだった。本当に微々たる人間だけを運んでいるといった状況で、この列車が走る意味は傍目にあるのか疑わしい気持ちにもなってしまうだろう。

 到着した『重岡』の駅の駅名標を写真に映した。
 …と何か勘づいた方は居るだろうか。それは後に。しかしこの時点で何か自分でも嫌な予感というのは既にしていて、不気味な状態で列車の折り返しをひたすら撮影して時間を潰しているという状況になる。この時点では大分県の佐伯市…になっているが、土地や鉄道の面ではもう少しで宮崎に入るのだという。そんなところまで来ていたとは、自分は全く考えもしていなかった。

 駅の周辺はこうなっている。
 春後半…という事情もあってかツツジの花?のようなものが駅に彩りを添えていた。
 そして列車が停車し、折返しの時間をただ待っているだけのように見える。しっかし発車や別の動きに見える気配がない。
 一体どうしたものか…不安になってきた。
 しかしこの駅のこういった側面だけを眺めていると平凡な無人駅の写真や鈍行ののんびりした旅路のように感じてしまう…かもしれないが、実際にはかなりの恐怖を感じての撮影。
「本当に先に行けるのか」
「戻るにしても、どうやって」
様々な考えが頭を堂々巡りしている。

鉄道に感謝せよ!

 この駅を離れた場所から写真で撮影した。
 こうして列車が停車しているだけでも充分頼りを感じるというか、頼もしいというのだろうか。心強いものだ。列車が停車しているだけで生活感覚というのは極限まで増してくるような気がする。
 この重岡駅というのは、大正11年に開業した駅だった。西郷隆盛による最後の戦争、西南戦争では激戦地となった歴史的な地…ではあったが、当初鉄道がこの地に開通した際にはこうして現在のように静かな雰囲気を残している場所ではなく、多くの小屋や鉄道員たちの拠点…のようなものが存在している場所であった。
 しかし、鉄道の存在が薄れ現在の令和。この時代に停車する列車は2両の普通列車だ。昭和30年代には電化の押せ押せという盛んな景気によって鉄道も盛り上がりを見せ、この駅にも長い列車や貨物列車の長編成が停車したりと盛況の時があったのだろう。そういった時は回想までに留まってしまった。

 よく、ローカル線を旅した方や都心から閑散とした鉄道を旅して、
「1時間に1本しか電車が来なかったのよ、信じらんない」
だとか
「俺の地元は30分に1本だから少ないんです、走ってないのと同じですよあんなの」
と話を聞く事もあるし、帰省の愚痴を聞かされる経験もあるだろう。しかし。
『これを見てみろよ!”「(切実な)松岡修造の声」“』
 どうだろうか。この時刻表。列車の存在は殆ど存在していない。そしてこの先の集落。大分県の佐伯市〜宮崎県の延岡市までに鉄道という手段は存在していない。
 そして、あの駅名標を思い出して頂けないだろうか。
 そう。あの駅名標の延岡方面が指していた方角には、秘境駅『宗太郎』の文字が刻まれていたのである。
「これが有名な、そして語り草にもなる宗太郎か…」
と生唾を飲む感覚だった。無計画にこんな場所に来てしまう自分も悪いのだが。
 簡単に示して書いてしまえば終了なので、時間を簡単に書いてしまおう。
 この重岡から先に広がる区間は『宗太郎越え』とされる、鉄道ファン・秘境ファン。そして旅マニアにも知られる屈指の名所だ。
 その場所の知名度を引き上げたのには、何しろ『列車本数の少なさ』というものが挙げられる。
 時間はまず。大分に向かう
・佐伯方面、が
6時47分
18時21分
20時43分
だ。コレでまだ驚いてはいけない。衝撃はこの先の区間。日豊本線の奥地に向かう延岡方面の時刻が恐ろしいのだ。
 宗太郎越え、の玄関口と言えるこの重岡駅。重岡から先、一応ではあるが宮崎にも鉄道での移動は可能になっている。そんな宮崎に向かっていく
・延岡方面、の時刻はというと
6時45分
のみだ。この列車を逃すとこの時点で1日の宗太郎越えの列車は終了。宗太郎越えの難易度の高さを象徴する話である。
 現状、こ宗太郎越え…に関してはバスなどの手段が存在しているが、中には徒歩で10キロ以上をかけ延岡へ越えたという力技を成し遂げた猛者もいると聞く。自分も一瞬。
「延岡までタクシーでも呼んで乗車するかな…」
と考えたが、そういった考えには結局ならなかった。宗太郎越えの真実は、相当に重いものだったのだ。

 改めて、その時刻を見てみよう。
 しかし本当に鉄道が走行している区間なのだろうかと思ってしまう。
 ちなみに、重岡の駅前からもバス停が立っておりバスでの移動は可能になっていたが、バスに関しては佐伯市のコミュニティバスと豊肥本線方面に向かって走っていくバス、と完全にアテにならなかった。
 日豊本線で何も知らずにこの駅に来てしまうとその時点で終了。もうその時点で延岡に向かいたい場合はこの駅で1夜を越してしまうか(そんな事を今すれば警察が黙らないだろう)、佐伯に戻って佐伯で朝を待つしかない(現実的なのはコレになるのか)。
 自分としては「遊び半分」でこの駅を訪問した事を少々悔やんだが、
「宗太郎まで近づいた!!!」
という謎な自信に関しては一生誇れるかもしれない。
 あ、多分ダメか。翌朝の始発に乗るまで堪えないと…。
 この後に関しては、セーブデータを書き換えて再び挑む事になる。しばらくお待ちいただこう。
 ちなみに、この先の宗太郎越え。観光特急(周遊型)の36ぷらす3という列車の日豊本線ルートでは観光途中下車という名目でアトラクションとしての途中下車が出来るようになっているという。
 しかし、そういったアトラクションで下車してもなぁ…
 この先、一体どうなる???

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