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ACT.29『九州グランドスラム 9 最後を目指して突き進め…!』

霧島の地を走る

 列車は都城を出て、大隅大川原という駅まで到達した。この駅で、特急列車との通過待ちを実施するようだ。
 実は宮崎県には複線の鉄道が存在しておらず、列車はこうして何度か対向からやってくる特急列車や各駅停車を待たなければ先に進む事は出来ない。
 『電車が存在していない』徳島県にも訪問して思ったが、関西・関東で当たり前に存在しているモノがない鉄道というのは何か違和感も感じ、そして時には非日常にも目が向くので非常に楽しい気持ちにさせられる。

 列車が対向の特急列車を通過待ちさせている様子だ。目にも止まらぬ高速で通過していった。
 列車はこの先、この普通と逆方向にして都城・宮崎方面に向かって進行していく。
 かつては九州ブルトレ…として様々な花形の長距離寝台特急や名を連ねた博多方面からの長距離昼行列車が、この日豊本線を行き来したのだろうか。
 しかし、東京や大阪からの列車はいくら待てどやって来ない。やって来るのは、メタリックな塗装とロボットのようなイカつい顔をした特急列車だけだ。黙々と静かに。現在は少ない数の車両たちが、あの日の栄華を語り合うかのようにして静かに活躍しているのみである。

 大隅大川原では長時間停車…ではなかったが、列車を眺めての停車時間が確保されていたので、駅をもじっくり眺める事が出来た。
 ここにして、いよいよ『鹿児島』の文字を目にして気分が上がってくる。そして、向かいのホームには『都城』の文字だ。本当にここまでやって来たのだなと自分への気持ちが昂ってきたと言っても良いだろう。
 短い宮崎への時間と決別し、遂に自分は鹿児島への大地に足を踏み入れようとしている。この記録は、何か記念すべき記録になったかもしれない。

 大隈大川原の駅は、このようになっていた。
 列車を離れて長時間、撮影に向かったわけ…ではないがこうして山深い駅に列車が停まっているのもまた1つの絵に仕上がる風景だ。
 日豊本線は宮崎に入ると、日向・青井岳・山之口と山を越える鉄道に変化していく。
 大分〜博多方面での海を望む活躍も非常に自然豊かで素晴らしく雄大な本線だと感心してしまうばかりだが、この宮崎付近まで来て列車が山に挟まれ懸命に走破していく姿もまた素晴らしい。
 そして、列車は大隅大川原を発つ。遂に列車は霧島神宮へと突き進み、錦江湾が出迎える鹿児島中央へと歩みを本格的に進めていた。

田舎じゃなかったんかァ!!

 遂にこの、鹿児島中央に辿り着いた。
 自分の中では念願…というか、幼少期には憧れ。そして、いつか鉄道で来てみたいと願った場所である。
 到達した瞬間、この『かごしまちゅうおう』の駅名標を見て一気に疲れというか、ここまでの旅で使った労力が完全に雲散霧消してしまったのは言うまでの話でもない。
「遂に来れた…」
その言葉が知らず、自らの口を突いて出てしまったのである。
 しかし、道中に関しては疲れだったのか桜島や錦江湾に関する車窓は全く拝む事は無かった。何をしていたのか、自分よ。

 ホームを降りて、大抵の人は街中へ繰り出していく為に改札へ向かっていく…のだが、自分はというと回送列車の撮影に向かっていた。こうした気力だけはヒシヒシと残っているのだから自分は本当に鉄道で鍛えられたのだと思ってしまう。
 しかし、ここの車両も志布志方面に向かう九州色の気動車と全く変化はなかった。「同じなら撮らなくても良いではないか」と思われそうだが、そういう話でもない。
 複雑な配線を跨いで列車が入線する。信号機の数がさながらターミナルの駅にいる事を体感させてくれる。

 列車は、観覧車の麓のホームに停車した。駅員の声も響く中、列車は粛々と折り返しに向かって進んでいく。
 この駅の観覧車は、鹿児島中央の駅広場に存在し圧倒的な存在感を示している。最初は列車との共演を何気なく撮影していたが、後に長渕剛の『鹿児島中央STATION』という楽曲で、この観覧車が鹿児島中央の象徴のような景色になっているのだと知った。
 鹿児島中央STATIONは、平成19年に発表された長渕剛の楽曲だ。その歌い出しの中に
『俺は今タイムスリップしたかのように 鹿児島中央駅広場に聳える観覧車を仰ぎ見ている』
という歌詞が存在している。
 この歌に関する話は、今後もこの鹿児島中央から広がっていく町を巡っていく中で徐々に見つけていく事になる。そして、この歌をもう少し聞いてから鹿児島中央の駅に向かうべきだったと自分では少し後悔の念に駆られてしまうのでもあった。

 817系が停車している。写真の817系は緑のCTマークを装着しており、自分が九州を少し一周してきた感覚にさせられるモノがあった。何時間ぶりに遭遇したのだろうか。
 この鹿児島は、果ての南の都道府県であると同時に鉄道に於ける要素は鹿児島・宮崎・熊本の3種類の要素が混じっているように感じられた。
 このJRに関しても、長渕剛/鹿児島中央STATIONでは
『東京を夢見てた ギターぶら下げた俺
 夜行列車がガタゴトチューチュー揺れていた』
との歌詞を綴っている。こうして、歌詞に九州ブルトレと思しき存在もしっかり登場しているのだ。
 また、この歌の中には
『せつなく鳴いてた列車のポー 涙で霞んだ列車がポー 3番線 プラットホーム』
と非常に濃い鹿児島中央駅の描写が描かれている。
 鉄道好きとしては聞いているだけで往時の九州ブルトレや車両が近代化されるまでの往時に戻ってみたくなるような一節だ。
 少し、この駅を出て先に進んでいこう。

ガキの頃に来るとは思っていたか?

 鹿児島中央駅の様子だ。自分は西鹿児島としてこの駅に関しての事を知った、学んだような記憶がある。しかし、その面影は存在しているのだろうか。
 訪問した折は祝日の帰省期間でもあったとあり、イベントも満ちていた。コロナウイルスで人間が閉ざされ、久しぶりに故郷へ戻る事が出来たこの期間。鹿児島も暑さの中に盛り上がりを見せていたのだった。
 しかし、この駅に往時の長距離列車や寝台列車の姿はない。幼少期の頃に抱いた憧れは、昭和の名歌手への憧れへと形状を変えてこの地に降臨した。

 駅前には、路面電車が入っている。鹿児島の中心部をバスと共に支えている大事な交通機関だ。
 しかし、路面電車は駅前から撮影したり眺めたりするのには充分なる環境…ではあったモノの、自分では過ぎ去る路面電車や多く利用する乗客の姿。そして駅まで向かう通路の遠さを眺めてしまううちに萎縮してしまった。
 折角なので、路面電車の撮影がてら街を歩いて適当な電停から乗車する事にしよう。そう決めて、自分は歩き出したのだった。
 何度か、路面電車のある都市で
「路面電車と併走するように歩いて写真を撮る」
という事を脳裏に浮かべた事はあったが、長崎以来久しぶりの挑戦になった。どんな写真が残せるか、逆にそちらを楽しみに歩いていこう。

 街へ歩いて繰り出そうとすると、かなり古い日野製のバスを発見した。
 鹿児島に関しては、バスはかなり古い方が多いと聞いていたが早速出逢えるとは非常に嬉しい。そして、この日野製のバスに関してもいつぶりに見たバスだったろうか。
 鹿児島のバスに関しては、爽やかなグリーン系の白い色味に南国調の模様をあしらった姿となっている。バスに関しても南の土地の雰囲気に染まっている感触を感じられ、非常に
「遠くまで来れた」
という感慨に浸れるものだ。
 鹿児島で走るバスの中には、元は京阪バスで走行していた種類が在籍し現在でも走行しているという話を聞いた事がある。
 バスに関しては素人然たる人種なので何も分からないが、もし元・京阪バスの鹿児島車に出会えたらその時は再会を喜ぼう。

瞳の奥に街並み照らして

 鹿児島の市内を歩いていこう。街は日本晴れ…というか、南国晴れというのだろうか。南の地域を体感するに相応しい天気になっている。
 そんな中で、街中に大久保利通像を発見した。宗太郎越えの道中では西南戦争、西郷隆盛に関しての場所を通過したがこの場所で大久保利通に遭遇とは考えもしなかった。西郷同様に、大久保もこの鹿児島の地に名を刻みし1人である。
 大久保利通、に関しては思えば横浜で見かけた鉄道開業の記念展示を思い出す。(オタク脳か)
 あの際には、大久保の座席も鉄道開業記念の列車の中に用意されており、明治新政府を担う期待や政治家としての名を残した1つの功績のようなものを感じたのだった。
 今から150年も前…の話にはなってしまうが、こうして教科書や受験勉強などで学習した人物が実在し生きていた痕跡を発見する事が出来、あの時は嬉しかった思い出がある。
 勉強熱心な中、若かりし頃は倒幕運動にも参加。また、明治新政府となってからは西郷隆盛と同時に近代国家の建設に尽力する。そして、大蔵卿・内務卿などの新政府を支える職業に尽力し明治を生き抜く。
 が、明治11年に暗殺されこの像は大久保の没後100年の節目に建造されたのだそうだ。銅像の下には、大久保利通暗殺時の共に亡くなった犠牲者である馬と馬車夫の姿も刻まれていたようだ。もう少しじっくりと撮影しておけば良かった、と今更ながら後悔。

 そんな大久保利通の銅像の近くは、いつも通りのような街並みが流れている。
 路面電車が走り、そこに自動車たちが群れを成すイワシのように追いかける風景。そして、そんな風景を季節を先取って照らす夏のような陽射し…に自分はすっかりカメラを向ける手が止まらなかった。
 そして、写真を撮影していても実感する事ではあるのだが路面電車の真ん中に対して電柱が並ぶ風景である『センターポール』。コレが非常に素晴らしい情景になっている。

 同じような写真…にはなってしまったが、もう少し先まで歩いた様子だ。この写真には、『鹿児島市電の全て』に相応しいモノが全て詰まっているように自分は感じる。
 鹿児島市電というのは、全国に先駆けて軌道を緑化した路面電車だ。この『軌道を芝生化する』という事業はこの鹿児島に始まり、今や全国の路面電車へと普及していった。
 その為、鹿児島市電には芝生を列車が走行しない時間に刈り上げる特別な電車として『芝刈り電車』なるモノが走行している。全国の路面電車としていち早く、ヒートアイランド現象に向き合っていったのだ。
 そして、この電車。鹿児島市電は、全国の路面電車の中でも早期にLRTによる低床電車の導入を実施した都道府県である。かつては財政難に苦しみ、その時期には東京や大阪からの中古路面電車を投入して車両難を突破した。しかし、財政健全化が功を奏し現在はこうして低床の電車を全面的に普及さす事に成功した。
 車両は7500形といい、平成17年から導入を開始した鹿児島市電の低床エース電車である。緑化された軌道に似合うように緑の塗装を採用しているのが特徴だ。
 そして、鹿児島市電に齎された財政健全化の運動は大きな影響を与えたのだった。この財政健全運動で、電柱を軌道の真ん中に置き『センターポール』化を実施する。そして、中央分離帯のマウントアップに停留所の低床化と人に優しい路面電車が完成されていったのだ。非常に大きな逆転の成功を収めている。

 鹿児島の街中を歩いていると、大久保利通の銅像もその1つだったが江戸・明治風の侍の銅像を見かける気がする。ついつい遭遇してしまったので、こんな記録を撮影してしまった。
 鹿児島を象徴する低床電車と侍の組合せ…というパラレルな空間の撮影が出来たこの写真は、自分でも非常に良い成果を残せたと思っている。
 路面電車の乗車を面倒と断って結局歩いた身だったが、写真を撮影して路面電車を五感で体感するという意味では非常に良い体験だったのかもしれない。
 この侍たちは一体、いつから鹿児島の風景を見ているのだろう。そう考えると、この低床電車の存在も何か大きな痕跡を残しているのではないかと思ってしまう。

 すっかり緑化軌道に馴染んでいる鹿児島の路面電車。牛乳パックの工作で作ったような広告柄の電車が、電停に入っていた。
 鹿児島もそうだが九州の路面電車は非常に宣伝熱心な一方で、また車両の良さも感じさせる原塗装と中間に車両が派手にならないように頑張っていると思う。サイドボードなどでは得られないような、ラッピング広告の効果が車両から解き放たれている。

 この車両は、9500形という。角張った路面電車の顔つき、そして横から見た時の風貌が非常に素晴らしい。真ん中が折戸…なのも、鹿児島の路面電車の面白いところだと思ってしまう。さしづめ、ワンステップバスのような見た目というのだろうか。
 車体は更新してしまったものの、足回りに関しては大阪市電の車両を採用しているのだという。これは中古電車で財政難、路面電車の維持が困難だった時期を象徴しているものであり、この土地の成長に欠かせない痕跡を充分に残している。
 足回りが大阪市電…という事だが、個人的に大阪市電の車両というのは譲渡されても長くその形状が残っているという事はあまりないような気がする。爆破されたり、3連にする為に切り継ぎの素材にされたり。そして、こうして足回りを供出して昇天したり。かなり振り回された生涯ではないだろうか。

 ずっと歩いてきて、この噴水の前で立ち止まった。丁度、路面電車が交差している。カメラの電源を起動したタイミングとピッタリ合い、噴水と路面電車の奇跡的な清涼感ある記録が残った。
 そういえば、なのだがカラオケで(JOYかDAMかは忘れた)長渕剛/桜島を入れると、サビの部分で路面電車が映るのだが確かこの周辺だったような気がする。噴水を記憶しているだけなのかもしれないが。

 もう1つ、噴水と路面電車の記録。
 鹿児島の路面電車というのは角張っている…と言っても、何か丸っこいような、かと言って少し尖った印象のある複雑な形状をしている。この形状、というかこの形状の特殊さはこの路面電車でしか得られないものを持っているような感覚がある。
 このカボチャのような塗装、が鹿児島市電の標準的な塗装だ。昭和30年の頃から生まれた車両含め、旧形〜軽快形のような電車はこれらの塗装が施されている。南国、鹿児島の街中を盛り上げる塗装だ。

憧れに触れた瞬間

 長渕剛/鹿児島中央STATIONでは、路面電車をこう歌っている。
『今も走る路面電車 灰にまみれた路面電車
セーラー服の少女たちの瞳の奥に 希望はあるかほら!将来はあるかほら!
未来はあるか 夢はあるか ガムシャラに生きてるか!』
電停で路面電車を待つ女子高生の姿を想像してしまう(個人差)歌詞である(と思っている)。
 そんな路面電車は、最先端になって今は鹿児島の街を走行している。1000形・ユートラムという路面電車だ。
 鹿児島を低床路面電車の都市へと引き上げるべく推進した電車であり、鹿児島市電の看板車両のような存在である。『運転台+客室+運転台』の独特なユニットの仕切りが面白く、自分はこの電車を図鑑などで見た瞬間に幼い頃衝撃を覚えた記憶がある。その電車に、今から乗車するのだ。感動は大きかった。

 (写真はユートラムを下車した後)ユートラムに乗車して感想として思ったのは、
「何か車両として狭い」
という印象だった。
 低床車両の時代を築いていくからこその意欲的な電車…なのは分かるが、逆にその意欲的な設計が車両を狭くしているようにも感じる。上手い感想が話せないのが実に悔しいのだが。
 しかし、運転台と客室を分離してユニットにする発想というのは面白く、その発想には終始見惚れてしまうモノがあった。少し特殊に、運転台を引き上げたユートラムの運転台はロボットや何かそう言った手の先進性を感じさせる。
 自分の中でも、
「鹿児島市電といえばこの電車」
のイメージが強く、乗車できれば良かったかな程度だったが、郡元〜谷山で乗車できたのは嬉しかった。
 ちなみに、なのだがこのユートラムには『鹿児島国体・文化祭』のラッピングがされている。このイベントには長渕剛もゲストで来訪との事で(式典だったっけ)、地元を愛し地元にいつまでもエールを送り続け鼓舞する感動を思ったものだ。

路面電車の南

 1000形・ユートラムに乗車してそのままやってきたのは、谷山の駅だった。この駅は鹿児島市電における終端駅で、この駅で電車が折り返していく。
 ガレージのような場所に、埋まり、それぞれの電車が発車を待っているような状態に見える…というのだろうか。電停というか、行き止まった先に乗降の岸を設けた感覚を覚えるがそこは終着駅の性質だろうか。
 この谷山で下車した目的…としては『長渕剛に縁があるラーメン屋』を探す為でもあったのだが、そのラーメン屋に関しては店主が逝去してしまった為同時に閉店してしまったそうだ。
 自分の長渕剛への影響は友人から来ており、友人は大学時代に同じようにしてこの谷山の大地に来たのだという。その際には営業していたというが、その際には店主は既に高齢であり店もあと何年の状況だ…ったようで、自分の訪問は叶わなかった。
 結局、こうして鹿児島市電の自分にとって乗車の憧れであった『ユートラム』に乗車して今回の市電乗車は終了となりそうだ。

 この『谷山』の電停…というのは、日本最南端の路面電車電停になるのだそうだ。
 自分は路面電車と生活している人間なので、この柱に関しては記録しておかねばと思い記録した。ここから先に伸びている鉄道…といえば、JRの指宿枕崎線だけになってしまうのだろうか。そして、海を隔ててもとなれば沖縄のゆいレール。2本の鉄の線路で走行する鉄道は、指宿のJRを過ぎると台湾の鉄道まで無いという結論になってしまうのだろうか。

 路面電車の最南端地点訪問、を『ユートラム』と撮影した。
 かく言えば自分が記念写真を撮影してもらえれば良かった…と気づいたが、後の祭りであった。
 記念写真をお願いするのもタイミングがあるというものか。
 日本最南端の軌道を走っているのは、少々イカつくメカメカしい低床の路面電車であった。

 丁度、電停で記念撮影や「ここまで来てしまったか」と感慨に浸っている間の事だ。
 指宿の観光特急・指宿のたまて箱が通過していった。
 電停付近には高架橋が張られており、列車が通過するとディーゼルの鼓動でスグに分かる。この時、何か乳牛のように斑点模様というか不規則な窓。そして両面の互い違いな塗装をしている観光特急の通過というのはスグに分かった。
 出来れば駅や区間内で撮影したかったのだが、今回はこうして偶然の結果としてすれ違った撮影になってしまった。また次回は、形式をじっくり撮影できるような時間づくりを…。

 谷山の電停というのは、このようになっている。
 少しどう表現して良いのか迷う…が、カッパのような顔をしているというか、生物的な駅舎をしている。
 生物的、というと少し畏った言い方になってしまうかもしれない。ここは何か、メルヘンチックとでも言っておこう。
 つい最近でも、福井鉄道のハーモニーホールの音符のような待合室を発見したばかりというのにまたこうして路面電車の珍駅舎を発見してしまった。
 確か、この駅舎も中学生の頃に見た駅舎観察の書籍に『珍駅舎紹介』として大々的に表記されていたのを思い出す。その際に関してはどうだったか忘れたが、中学生の頃をなぜか思い出してしまった。
 こうして眺めていると何故かこの口の中に吸い込まれそうになってしまう不思議な魅力が存在している。
 路面電車の反対側、鹿児島駅前に関してはターミナルの整備が1年以上かけ実施され、つい先日の令和4年秋にタクシー・バスなどとの共用を開始したばかりだという。
 しかし、この谷山は静かで。また、駅舎の所為になるのか少しシュールな雰囲気が漂う。…と言っても近辺は居酒屋や地元の店が集い、少し出てみると車の出る大通りなのだが。

 再び、9500形を撮影した。低床形のユートラムシリーズ以外、この電車しか殆ど撮影していない気がする。鹿児島市電最大の勢力なのだから無理もないのか。
 9500形に関して、調べてみるとどうやら製造(車体)はアルナ工機で製造したようだ。大阪から路面電車を送り出して伝統のメーカーであるが、乗車してみると何か広島のような、そして軽快電車のような。また阪急のような少し地元を思わせる空間が漂っているのだろうか。

 また1つ、違った電車に遭遇した。
 9700形だ。この電車も、9500形同様にアルナ工機で車体を製造した車両のようだ。
 車両としては平成9年に新規製造された車両であり、9500形と同様にした設計ではあるものの2両しか製造されなかった希少な車両だ。足回りに関してはどうなのだろうか。新造と公表されているくらいなので、機器流用ではなさそうな。
 谷山の電停から撮影したこの景色は、何かガレージのようにも感じるし、整備工場のようにも感じる不思議な風景だ。吹き抜けの屋根が、また夏を近づかせたこの時期には非常に似合っているだろう。

 改めて、今回乗車し鹿児島市電低床LRT路線へと舵を切るキッカケになった車両、1000形『ユートラム』を眺めてみる。
 ユニットを運転台で仕切る事で設計させた車両で、客室部分の低床化に貢献した車両だ。
 『ユートラム』に関しては9両の車両が在籍し、現代の鹿児島市内の公共交通の任を担った形となる。
 鹿児島の路面電車の時代とは、大正元年に谷山〜武之橋までを開業させた事に始まる。この当時は電気鉄道であり、まだ市営電車の時代ではなかった。軌道・会社の市営買収は更に先の昭和3年まで経過してようやく実施となる。
 路線に関しては大正元年の谷山から始まった路線を大正4年までに殆ど完成させた。鹿児島の市電に関する歴史はさながら名門にちかいものがあり、電車と技術は日々進化している。
 戦時中の第2次世界大戦では、鹿児島空襲により車両が殆ど損失してしまった中だったが、そこからめげずに復活を遂げた様は市民の希望の姿となったに違いない。
 路線に関しては今回乗車した谷山線の他に、唐湊線。そして大正期に完成した路面電車始まりの路線である第1期線と第2期線が存在している。今回は乗車できなかったが、次回の旅では乗車してみたいものだ。
 その後、自分はJRの指宿枕崎線の谷山駅まで歩いて移動した。この先は更に南国を目指して鉄道に乗車していく。短い鹿児島市電の旅が、こうして終わりを告げた。

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