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ACT.52『あの感情へ、一歩…2』

北の街並みへ

 特急、すずらん3号は札幌に到着した。遠回りな形で石勝線経由、そして室蘭本線の乗車間違いを挟んでの結果となってしまったがこうして札幌の地を踏む事が出来た。
 幾らこの駅を通過していたとしても、
『降りて駅名標を見る事』
で得られる感動感というのは大いなるものがある。
「遂に札幌に来たんだ、」
と自分は高らかなる気持ちを持っていた。
 ただ、実際は
「自動放送のご案内は私、大橋俊夫でした。」
まで聞き終えてすずらん3号を下車したものの、すずらん3号として乗車した785系の撮影はそこまで出来なかった事がなんとなく悔やまれる。785系の名物である封鎖された中間運転台も結果として携帯でしか写真が残っていないし、あまり撮影に浸れた記憶が残っていない。この辺りは次回の遠征に回すしかないのだろうか。
 として、札幌の街へ。この駅はJRの初期というか国鉄の分割民営化に備えた気風を充分に備えている駅だと思っている。駅のコンコースに降り、苫小牧で買わなかった朝飯をこの時点で買うことにした。その際には、JR東日本などでお馴染みな自動放送の女声、『向山比奈子』氏の自動放送が絶えず流れている。その自動放送も
「(時刻)発、特別急行おおぞら◯号、帯広行きが…」
と非常に哀愁を誘うものになっているのだ。本当にこの構内部分が誘ってくるあの平成初期の感覚というのは今すぐ戻ってでも体感したいくらい、北海道鉄道の名風景に入っている。そして、向山氏の放送と共にこの光景はいつまでも残されて欲しいものだと思ったのである。
 駅構内、そしてジグザグにコンビニやキオスクを物色しても自分の好みの食べ物がなかったもので、北海道の土産物屋に向かった。丁度、そこではパンの販売がされていた。その店でパンを買い、次の列車に乗車する。いよいよ、目的地である岩見沢への第1歩が始まろうとしていた。

図鑑の中から

 次に乗車するのは、『カムイ』という特急列車だ。札幌から旭川までを走行する、北海道の電車特急に於いて高速バスと互角に張り合う性能、そして列車となっている。
 車両は、現在もJR北海道で電車特急の主力として大活躍し戦う789系。室蘭本線での『すずらん』もそうだが、この『カムイ』での活躍こそが、彼の主戦場でもある。
「カムイ、って言ったら若い今の子達は電車特急の銀色の姿しか浮かばないんじゃないですか?」
「ははは。そうかもねぇ…おじさんにとってカムイ、って言ったら電車急行の711系なんだけども。」
そんな昨日のやり取りを抱えて、電車に乗り込んだ。
 しかし、車内は観光客やビジネス客で満載の状態だった。う〜ん、指定席出しておくべきだったろうか。こうした部分で悔やみが残る。なんとか指定席のuシートを車内で通り抜けて、空いている座席を発見した。岩見沢までの短い旅路が始まる。

 車内での移動時間と朝飯の時間を合わせて移動する事にした。
 札幌駅の土産スペースで買ったのは、ベーコンエピという惣菜パン。そしてサイコロキャラメルだ。この形状。そしてグミ形状のお菓子を食べておく事で胃を膨らませておく…と考えたのだが、ここからは見る度にサイコロキャラメルを次々買っていく事になってしまう。
 そして、この時点で働き先への土産も購入して移動した。特急カムイ7号は満載の乗客を乗せ、札幌を発車して行った。

 JR北海道の7打点チャイムを聴きながらの移動。そして、旭川方面に向かっていくので苗穂工場や苗穂のJR貨物の機関区などを見ながら走行していく列車。
 先ほどの(前回記事をお読みください)特急すずらんでもそうだが、図鑑で読んだりビデオで見た車両が今なお健在し。そしてその仕事を継続して行っているというこれほどまでに嬉しい事はないだろう。
 苗穂工場には、多種多様な車両…北海道には疎いのでよく分からなかったが、731系電車やキハ40形のような北海道を象徴する車両たちが並んで留置されていた。見ているだけでも感じ取れるが、苗穂工場は如何にも国鉄らしさを残したJR北海道の車両を司る場所である。
 そしてJR貨物の札幌貨物の方も。こちらは、本線で見かけるDF200形の他に入替機HD300の凸型の姿も確認した。その姿というか、ラインナップを見ているとどうも三重県は四日市や富田の方を想起させてくるのだ。なんというか、今は日本全国の非電化の区間を束ねる場所がこうなっているのだろうか。
 そんな情景を見つつ、札幌を離れていく。そして高架線を走行し、列車は宅地の区間を走行して行った。
 野幌、高砂、江別、豊幌、上幌向…
 列車は速度を上げていく。
『岩見沢まで あと20km』
「そんなかかるんか、なっが…」
こうした含んだ思いを抱きながら、パンに齧り付いた。微かに香る和の香りが美味い。

苦闘の始まりに

 岩見沢、到着。ここまでの時間は特急列車なら序の口なのだろうか。そんな事も考えてしまう。
 しかし、車内で見た『あと20キロ』や『あと10キロ』の表示に関しては、見た瞬間の絶望感が半端ではなかった。
「この大地の広さとは一体…」
と自分の思考回路に槍を突かれた気分にすらなる。
 下車後、789系の特徴的な前頭部に向かった。カムイの表示と、前照灯。そして、微かに見える連結器カバーの魅力と特徴的なライトケースを近くに停車中のキハ40形を混ぜて撮影した。奥には731系電車も映っている。
 789系は、この先の美唄・砂川・滝川に向かって発車していった。まだまだ長い旅路が始まるのである。

 岩見沢到着後。奥に停車しているキハ40形の撮影に向かう為に反対のホームに向かった。しかし、この時点で岩見沢の駅は改良工事に入っているようであり駅の随所には工事中の跡や必死に駅を補修している跡が見えたのである。
 と、そんな中に。こんな表示を見つけた。きっとJR初期時代からこの駅を見つめていそうな表示を発見した。このキャラクターもいつ以来の発見か忘れたが、確かレンタカーやドアの注意広告に映っていたイメージがある。正式な名前はなんなのだろう。

 と、向かいに停車していたキハ40形。あまりそこまで大きな変化のあるキハ40形ではないが、この車両こそやはり北海道の車両。北海道を代表する非電化の普通車だと思わさせられる感触がある。
 いつまで残るか?も加味して、記念の撮影をしておいた。
 強いてこの車両の。というか北海道らしい事を考えてみれば、
・車掌台側に車両番号がある
という事かもしれない。そして、下部をよくみればスノープラウが見えてくるのだろう。
 そして、タイフォンをよく見てみると開閉式のタイフォンになっていた。この構造は一部の熱狂的な撮り鉄に嫌われやすそうな構造である。

 JR北海道のキハ40形には、側面にこうして行先の表示サボが存在している。
 キハ150形では側面幕になっているが、キハ40形では現在でも現役でこの『サボ掛けとサボ』の行先表示を使用しているようだ。こうした国鉄の文化保存や継承が、見ていて非常に美しく感じる。そして、多くの人がJR北海道のキハ40形に憧れる1つの点になっているのでもあるのだろう。
 列車は滝川に向かっていくようだ。室蘭本線からの列車なのか、ここで折り返して滝川に向かっていくのか不明な列車だが岩見沢からの長旅に挑む列車を見て、少し激励の思いに駆られたりした。

 キハ40形の後方にはキハ150形が1両、併結されている。両者の全く異なったチグハグな連結には面白さを感じるというか、気動車ならではの妙味さえ感じてしまう。
 つい何年か前にもキハ40形の妙味・面白さの味わいにと四国方面に向かっていたが、四国ではキハ40形が連結器の形状が違わない事を主な理由にしてキハ40形(系列)と他形式の併結が不可能という少し残念な状況になっていた。しかし、松山方面に行けば全く違うのだが。
 さて、北海道ではこうしてキハ40形はキハ150形との共通運用を組んでいるので遭遇の確率やこの併結を見かける事は非常に多い。
 岩見沢らしく、そして自分の滞在した場所らしく撮影をと思い駅に不意に置かれていた馬の像と撮影をした。どちらかといえば旅の記録になってしまったかもしれない。

 連結面を、馬の像の反対の方向から。
 キハ40形の丸みとキハ150形の四角い形状がよく分かるのではないだろうか。もちろん、JR北海道ならではの国鉄フォント駅名標も。コレがなくてはいけないだろう。
 キハ150形の車両側面に、『札トマ』の表示があるのを発見した。(乗務員扉付近)この車両は苫小牧付近での活躍…苫小牧付近での拠点を主に軸にしているのだろうか。
 ちなみにだが、先ほどの馬の像に関して。
 キハ40形・キハ150形の連結面と共に映した馬の像は北海道の象徴、『ばん馬の像』だ。
 ばん馬は北海道開拓に大いなる力を発揮し、明治時代は屯田兵の強力な相方として活躍したのであった。
 そして時代は過ぎ、このばん馬を活用した競技が北海道で起こる事になる。その競技が、昭和の時代に始まった『ばんえい競馬』である。
 ばんえい競馬…とは北海道の農耕用の馬であるばん馬にソリを牽かせ、その速さを競う競技だ。
 岩見沢では昭和28年に岩見沢市営競馬場が発足し、この市営競馬場を契機にしてばんえい競馬の歴史が始まったのであった。
 岩見沢駅にこの像が建てられたのは、昭和54年となる。岩見沢から始まった市営競馬と岩見沢の名を広めるべく、として当時の駅長が発案しその勢いで設置された像である。
 皆さんも駅を訪問した際には是非その姿を拝んでほしい。

 駅を出る前。再び、特急列車・カムイが入線して来た。
 この列車は札幌に向かう便となる。
 少し暗い場所でシャッターを切ってしまったが、そんな事さえこの塗装なら格好良いと割り切ってしまえる色味の格好良さがこの車両にはある。
 岩見沢で一息の休息を付き、最後の札幌までのラストスパートを駆け出していった。

※岩見沢市を象徴する電車となった711系電車。車両は登場初期と晩年の復活イベントの際にこの塗装になったが、現在でもこのイメージと人気は根強く残っている。赤色は北海道の電車としての『交流電車』としての色を。クリーム系の色味は警戒色の意味を込めている。

電車の祖、出迎えの祖、そして迷い

 岩見沢に到着して、まずは駅の綺麗な具合に驚いてしまった。そして、同時に考える事があった。2台の蒸気機関車が保存されている公園は何処にあるのだろうか、と。
 倶知安の時のように自転車の手法が使えれば楽に回避しバス代の元さえ…?と思ったものだが、そんな気持ちを豪雨が突き飛ばしてゆく。
「うわ、これあかんやろ…」
早速絶命の危機に立たされた。
 駅外の空が雨雲に覆われ、大粒の雨とそして夏特有の豪雨に晒されたのだった。
「無理やな…」
決心しつつも、駅のエスカレーターを下った先の観光案内所に向かってみる事にする。
「すいません。あの。蒸気機関車が保存されている公園に行きたいんですけど、自転車で行ったら何分くらいで行けます…?」
「自転車ですか。ありますけど今の天気ですと無理…じゃないですか?」
「ですよね(汗」
「はい、駅からは30分ほどかかりますので、バスに乗車されて行かれた方が早いかと…」
「分かりました。ではそちらで…」
確か、500円ほどで電気式の自転車などを選択できるレンタサイクリングがあったのだが、今回は天気の事情で中止にした。その代わりにして、バスでの移動にしたのだが…結局は当初の移動手段の予定に戻っているという感じか。
 しかし、自転車を借りてバス代が回収出来る様子なら全力で漕いだのだが。
 また、この駅にある観光案内所では鉄道に関する土産の品を買った。全く行っていないし、今回は訪問する事も叶わなかったが岩見沢市の鉄道保存施設・大地のテラスの公式グッズとして写真に掲載した711系のグッズを購入した。
『グッズ資金は711系の維持資金に充てられる』
との事だったので、自分は行けない代わりにこのグッズを買っての支援表明をした。
 他には、
『711系思い出のカプセル』
として711系車両の再塗装前の作業。塗装剥離の際に削れた塗膜片を詰めた瓶の販売もあったので、これも購入。
「ビンやし割れへんやろか」
と心配したが、京都に帰ってもビンが割れる事はなく杞憂に終わったのであった。

※JR北海道が発売するシリーズ入場券にも711系は登場する。この土地で彼が名車となった証拠でもあるだろう。

 さて。少しだけではあるが、岩見沢市・大地のテラスにて保存されている711系に関して少しだけ車両解説の話を打っておこう。
 711系電車の話を知る事は、『北海道鉄道の電化の歴史』を知る事にも繋がり、『極寒の大地の電化進展』について知る貴重な資料にもなるのだ。
 711系が誕生したのは、昭和42年の試作電車に遡る。この際、北海道で電車走行に関して函館本線の手稲〜銭函で電気機関車を用いた電化鉄道の試験が実施され、その『成果を下にして』試作電車の開発が実施されたのである。
 その際に誕生した電車が、711系の901編成と902編成だ。711系誕生の瞬間である。この901編成と902編成には違いが持たされていたのだ。その違いは、
『耐寒耐雪に向けた構造』
の差である。
 901編成に関しては客用扉を4枚式の折戸扉に改良し、そして下段固定・上段下降のユニット窓に配していた。
 902編成の差異は、扉を片開きの通常扉にしていた事だった。その中で、窓は当時の急行用気動車と同じ構造の開閉可能な1段上昇式の2枚窓に設定した。
 この2種類の構造差異を付けた電車の登場が、『711系の誕生』であった。この2種の電車を試験走行させ、そして後にこの2編成は営業運転に就業するのである。
 そして、第1の量産車が誕生した。昭和43年に8本の711系が登場する。この量産車の登場にて、北海道の電車時代が始まっていったのだ。

※北海道電化に向け、函館本線の手稲〜銭函で試験運転を行う事になったED75形500番台の機関車。蒸気暖房を搭載しないので貨物運用が中心として余生を暮らしていた。

 711系の時代は、一気に盛況へと駆け上がっていく。
 日本鉄道史に残される、大規模なダイヤ改正は711系にも飛躍を齎したのだった。昭和43年10月1日。よん・さん・とお。このダイヤ改正にて、711系は北海道初の電車優等列車にして電車急行である『かむい』に充当される。
 後の昭和44年の増備では仲間を増やし、そして旭川電化までの晴れの時を出迎える事に。また、この時には札幌〜旭川にて『所要時間2時間の壁突破』という大偉業を達成しており、711系電車はスターのなったのである。
 しかし、車両設備に関しては顔は東海形急行電車…でも車内の座席にはロングシートに吊革があり、一部乗客には『遜色急行』の愛称でも呼ばれる事があったようだ。
 だが、711系は昭和47年。それまでの急行『かむい』運用を更に増強し、そして新たに急行『さちかぜ』の仕事にも登板するのであった。北海道は電車時代の到来を喜んでいるような盛況ぶりを見せている。
 昭和55年。千歳線・室蘭本線の一部電化が実施された。これを機に、711系電車は3次車として55両の仲間を加える事になる。しかし、北海道電化の時代と共に進んでいく711系の歴史は終わらないのだ。
 昭和61年。711系は急行運用を退いた。通勤仕様の車内で『遜色急行』のアダ名まで背負った赤い電車の花形姿は、北国で俊足を発揮し多くの人々に親しまれたのであった。
 711系の増備は3次車で終了する。北海道の電化区間・最北は旭川。そして札幌近郊の電化区間を走行した711系の活躍は晩年に入っていくのであった。

※711系の最初期の後継車?に近い、721系。増備要素が強い電車だが、実際に乗車するとJR初期らしさを体感できる面白い電車だ。

 711系の車両構造として、雪切室に車両設計時に得た耐寒大雪の構造は、後の後継電車に活かされていった。
 そんな711系電車の光景に製造されたのが721系電車だ。雪切室・耐寒耐雪に向けた車両内をデッキで仕切る仕様。様々な事が711系から継承された。
 711系は次第に老朽化も相まってその戦列を外れていく。しかし、平成24年には電化されていた影響での札沼線入線実績もあり、北海道の電化区間の生き証人のような存在にもなってしまった。
 しかし。そんな屈強な711系にも終わりの時が来た。平成27年。3月のダイヤ改正で新型電車に置き換えが発表され、711系は引退が決定したのだ。
 これを機に北海道内では711系のさよなら運転やさよならイベントを企画。道内各地で記念入場券や記念グッズの販売を実施し、北海道の功労者に別れを捧げたのであった。
 そして引退後は、有志たちの保存運動によってクラウドファウンディングによって岩見沢市へ。現在は2両の先頭車両が岩見沢市でレストランとして第2の生活を暮らしている。但しアクセスは激ムズ。

いよいよ始まる…

 ここからいよいよ、保存場所に向かう。711系に関しては今回、完全に諦めたというか次回に回して駅近の別の保存車を目指していく。果たしてそこにいるのだろうか?
 あの銀幕の星と慕った存在が。ただし、ここから本当に呆気ない難しさに堕ちる。
 一体どうした…!?

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