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ドッペルゲンガーと村上春樹

第一部を読んだだけで村上春樹の『騎士団長殺し』についての #noteを書いたのだけれど、その後第二部を読んでその印象がずいぶん変わった。いや読んだというのは正確ではなくて、Audibleの高橋一生氏の朗読で聞いたのだ。

第二部の上巻は、村上春樹おなじみの切れに切れる比喩表現と人物描写、その人物の潜在した心の奥深くまでを掘り下げている。情景の描写も繊細かつ品があって細やかだ。

ついでに言うと性描写もこの巻では抑えられていて、「わたし」の想像の中に出てくる夢想のような体験のみしかない。それよりももっと精神的な機微や動きについて、それらがまるで人物を写生するように写実的に、そして情感が込められて描かれている。

それこそ美しい絵画を眺めているようだ。そう感じさせられる見事な盛り上がりだ。

例えば、時計が時を刻むその針の動きの『ひと刻みごとに、世界が少しずつ前に押し出されていった』こんなキラリと光る表現とたたみかける文章でまったく飽きることなく最後まで一気に聞いた。

そして不思議なドッペルゲンガー(Doppelgänger)のような事象が二度にわたって起こる。最初は雨田 具彦が、アトリエの椅子に座っているの目撃した時。そして二度目は「わたし」自身が、離婚届を出した後の妻とベッドにいるときの叙述だ。

主人公の分身がそこにいて、それを主人公が見ているというその光景は過去の村上作品にもあった。観覧車の上から自分の部屋が見え、そこで自分が誰かと性交渉をもっているのを目撃すると言う場面だ。

村上さん自身はドッペルゲンガーなんてひとこともいってないけれど、そいう現象を小説にしっかり盛りこんでいるようだ。そういえばシルバーライニングについても日本語でちょっと触れていた。外国小説を原語で読む人ならではの風流に思う。

プロットにこういうことがあると、普通ならちょっと稚拙な漫画っぽくなってしまうところを、村上春樹はうまく制御した筆力でやすやすと描いていく。

「エイハブ船長は鰯を追いかけるべきだったのかもしれない」と言うセリフも、にくいほど巧みな使われ方をしている。南京事件について触れられていることもストーリーに重厚な色を与えている。「歴史とは国にとっての集団的記憶であり、戦後生まれだから僕に責任がないとは思わない。物語の形で問い続ける」と村上春樹氏はそのインタビューで述べている。

高橋一生氏の訥々とした朗読も、主人公の「わたし」にこれ以上ないくらいマッチしている。第二部の下巻がこの上もなく楽しみだ。







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