神の「空」へ
出張で長期滞在したエジプトはイスラム教の国で、その人口の90%がムスリム(イスラム教信者)、他にキリスト教徒やユダヤ教徒などが暮らす。
イスラム社会では「イン・シャ・アラー」と言う言葉を日常的に使うが、これは直訳すると「神の導きのままに」の意味で、自分はすべきことをして、後は神の意向に従う、つまりそれは「人事を尽くして天命を待つ」ということだ。
人間は弱い。間違いも起こすし、時には傲慢、高慢になる。それでもうちなる自分の心を見つめて精進してゆけば、そして、いつか詳しく書いてみたいイスラムの教えに従って生きれば、死後も天国へいくことが約束されている。
キリスト教でいうところの天国と違うところは、イスラム経典である「クルラーン」が、神の使徒であるモハメッドを通じて、その口から発されたことだ。聖書はキリストの弟子が書いたもので、イエス・キリストが書いたものではない。
モハメッドは文盲(文字が書けない、読めない人)であったのに、その口から流れるように出た言葉の数々は、人間が考えたものとは思えないことを様々な学者が立証している。例えば宇宙の太陽系について、量子レベルでの人の身体について、そして当時はまだ知られていなかった動物の生態などだ。それらは周りの者たちによって書きとめられクルラーンとして集大成された。
「クルラーン」には死後のことが様々な個所に登場する。そのもっとも顕著なのは「最後の審判の日」。
すべての者が、この日に裁かれる。
この「最後の審判の日」についてのクルラーンにある記述は、おどろおどろしいなんて生半可なものではない。詳細にわたり、繰り返し、すべての人間がその行いによって裁かれる様が如実詳細に記されている。天国は永遠の地であり、「空」( الغرفة )だとクルラーンには描かれている。
なんだかそれってナーガールジュナ(龍樹)の「空」の哲学を想わせる。
かねてからずっと、仏教の考え方とイスラムの教えには類似性、あるいは重複する真理があるように思えてならないのだけれど、ここでも、そのように強く感じた。
ちなみにどんな悪人であっても、生きている間に心の底から改心すれば、その罪は許されるとある。
以下に「クルラーン」のその部分の引用と、様々な人が英文に翻訳している文章を記す。
純粋な悔恨の心を持って改心することで、その行いは許される。
人間には生まれながらにして与えられた良心があって、その良心の真理にそわないことをすると、どこかで心が疼くとされている。
この考え方は孟子が唱えた性善説にも類似する。
「クルラーン」は英語の翻訳も日本語の翻訳も、翻訳されたものを読むとその神聖さが失われてしまうと感じる。そうはいってもわたしのアラビア語の語学力ではとても深い理解に達しないのだけれど。それでも、祈りを呼ぶ声、アザーンを聞くと、イスラムの深淵さが電撃のように体中を流れる。
ぜひ以下から聴いてみてほしい。
「小空経」『マッジマ・ニカーヤ』第121経には、「アーナンダよ、かつて、わたしは、そして、今も、空性(くうしょう)の住処に、多く住している」とある。
空性(くうしょう)の住処とは、寂静であり、多様な想いや言葉や意見は滅してしまう場所を指す。そこからは言い争いの元になるような見解が出てくることもなければ想いや言葉によって、苦しむこともない。
これが、戯論寂滅の境地、空性の正体ということのようだ。
もしもどこでも住めるとしたら、この深い、敬虔な光に満ちた、隠された真珠のようで、そして宇宙よりも広い、「空」の世界に住んでみたい。
#どこでも住めるとしたら
日本語の読めない友人のために英訳したものはこちら。
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