心理学の鎖から自由へ——ぼくは心理学なんかに頼らない
心理学。メンタリズム。神経言語プログラミング。NLP。脳科学。神経科学。認知科学。
これらの領域の学問はたしかに面白い。
ぼくはこれらの学問と出会ったとき、ずっしりとした手応えを感じたのを覚えている。
「心理学を極めれば、俺モテまくりで出世しまくり?」
こんな不純な動機から心理学に手を伸ばしていた。
実際に、言わずとしれた名著『影響力の武器』は、当時のぼくにとってすごくありがたい本で、3周くらいしたと思うし、それが今の仕事にも活きている場面は少なからずある。
そして、さらに発展的な勉強がしてみたくなり、ゲシュタルトやクルト・レヴィンやゴッフマンなどの名前を大学図書館で、背伸びして検索をかけたことのもよく覚えている。
また、独学の域を出ていないが変性意識状態は、ぼくにとってすごく意味のある人生のテーマの一つだ。
すごくみっともない白状をすると、
心理学的なトリセツを介して、人間や社会を理解するほうが効率がいいと考えていたのだ。
なんというか、ここには「人生を攻略してやろう」という下心が透けて見えている。
しかし、常に感じていた「本当なのかな?」
その気持がやっと言語化できたので、あえて脱心理学のススメを執筆することに決めた。
「この世は見かけによらずワンダーランド」であることに薄々気づき始めたぼくにとっては、もう必要のない学問かもしれない。
——少なくとも、誰かをコントロールする目的で身につけた知識は、きわめて局所的な成功例の寄せ集めに過ぎないことを学んだ。
そして、誰かと仲良くなるという目的のために心理学は役立つこともあれば、役立たないこともある。
本記事では、心理学を学んでいるのに一向に人との距離が縮まる気がしない(しかも「なんでだ!」と逆ギレしている)と思っている人にこそ最後まで読んでいただきたいです。
脱心理学のススメ
ミードの「一般化された他者」という概念がある。
「一般化された他者」とは、「ふつうの人」のことだとぼくは解釈している。
「ふつうの人」とは、これまでの常識や偏見の中から構成されたあなただけのオリジナルな空想の人物のことである。
吉田沙保里が、あるバラエティで犯人の映像VTRを見ている時、とっさに「この人左利きですね」と言ったという。
これは、彼女にとっては格闘技が常識になっているために培われた洞察力による判断だ。
彼女にとっては、目の前の相手の利き手をしることは「ふつうのこと」なのだが、多くの人にとっては驚くべき洞察力かもしれない。
このように、「ふつう」は人によってかなり異なるものだが、ぼくはミードの「一般化された他者」は「ふつうの人」のことだと解釈している。
人とのコミュニケーションが苦手だったぼくにとって、「一般化された他者」を具体的に知ることは、コミュニケーションを上達する上で非常に役立った。
ぼくにとっての「ふつう」は相手にとっての「ふつう」ではないわけだけど、相手がして「ほしいこと」と「してほしくないこと」は、ぼくにも共通している部分があって、
それを判断軸に、とりあえず仲良くしてみることで、「仲良くなれる人」と「仲良くなれない人」がいることを知った。
そして、「仲良くなれる人」とだけ距離を縮めていけばいい。
逆に、「仲良くなれない人」とは少し距離をとった関わり方をすればいい。
こうしたコミュニケーションの指針のようなものができたのは、紛れもなく心理学をたくさん勉強したおかげだと思う。
「ふつうの人」を想定する上では、心理学的な知識は本当に役に立った。
しかし、当然目の前の具体的な他者は、ぼくの知っている「ふつうの人」とは違う人なのだが、心理学という権威づけられたデータがあると、そっちが真実なのではないかと勘繰ってしまうのである。
これがぼくが脱心理学を唱える理由である。
教科書やマニュアルを手にすると、それを信奉すればするほど、
目の前の具体的な他者よりも、その背後にある心理学的なデータベースの知識の優先度が上ってしまうのである。
結果として、目の前の具体的な他者が見れなくなってしまうのだ。
そして、なまじっか変に知識が入ってるものだから、
「本当はこう思っているに違いない」「○○効果によれば、〜となるはずだから、これは✗✗」と意味不明な思考の迷路に迷い込んでしまう。
もっと目の前の他者をよく知ろうとすること。
そして、尊重すること。
具体的なひとりに立ち止まって、
「お前はこうに違いない」という心理学による傲慢な決めつけではなく、謙虚な観察が必要なのだ。
そう、人は攻略できない。
人にマニュアルなんかないのだ。
目の前のその人が心の底から笑っていれば、心理学的にNGであってもOKなのだ。
でも、その人が顔がひきつっていれば、心理学にOKであっても、やっぱりNGなのだ。
まとめると、ぼくにとって「一般的な他者」を具体的に知る過程までは、心理学はとても役立つ学問だった。
しかし、そのフェーズを終えるとむしろ枷になってしまうものだということを知った。
それから、ぼくは心理学との距離をとるようになったのだった。
心理主義化——相談のアウトソーシング
心理主義化という現象がある。
要するに、「心理主義化」は、いろんな問題をすべて個人の心理の問題に還元しちゃうという思考停止を批判しているのだ。
生きているとつらいことがある。
そのつらいことに、名前がわかったり病名が判明するとショックと同時に少し救われた気持ちになる。
「あ、自分だけじゃなかったんだ・・」という安堵感だ。
そういうやりとりを批判したいわけではなく、あらゆる問題を無視して薬だけ与えることで「解決した」気になっている社会が何か間違っているような気がするのだ。
悲しくてつらい個人は目の前にいるはずなのに、薬を飲んでボーッとしているから、「解決した」と一件落着の判を押してしまう感覚に、なにかおかしいという感覚を抱いているのである。
この心理主義化が加速すると、免許の有無にかかわらず心理カウンセラー職の人が相談のビジネス化が始まる。
たとえば、ココナラなどのクラウドソーシングサービスには、この手のサービスがいくつもある。
しかし、そのどれも商品として販売されて、マーケティング的な分析に基づいたセールスライティングと値段設定によって巧妙に設計された商品なのだ。
※もちろんこれはスクールカウンセラーや職業カウンセラーの方々を否定したいわけではない。そうではなく、カウンセリングビジネスが加速する社会に対して問題提起を行っているのだ。
本当に行き場がなくてつらく悲しい人にとって、こうしたサービスは、その人にとって本当に必要な処置や手続きができるのだろうか。
たしかに、終始笑顔で感じのよいカウンセラーかもしれないし、話すと気分が晴れるのかもしれない。もしくは、本当に治しちゃうようなすごい実力の持ち主もぼくが知らないだけでいらっしゃるのかもしれない。
しかし、それでも、本当につらくて悲しい人にとって立つべき入り口はここではないような気がしてしまうのだ。
じゃあどこにいけばいいか?
それは一番身近な人じゃないだろうか。
こころの距離が近い人だ。
親でも親友でも、恩師でも家族でも旧友でも誰でもかまわない。
あるいは、それがたまたま知り合ったまったく自分のバックボーン
を知らない他人でもいい。
とにかく、あなたの話をだまって訊いてくれる存在だ。
あなたの、卑屈も我が儘も心のなかにある棘も全部、受け止めてくれる存在だ。
素直になれない気持ちも全部だ。
みっともなくてダサいあなたをいっしょに笑って受け止めてくれる存在である。
こういう人なら、「明日仕事だけどこいつのためなら時間を作ってやるか・・」とわざわざ時間をとってくれる。
どんなに忙しくてもあなたのために時間を少しでもつくってくれる。
「そんなの悪い・・」と遠慮してしまうかもしれないが、
あなたが親友からそういう風に頼られたら、あなたはどうするだろうか。
きっと応じるはずである。
だから、そのためにも、あなたは、誰かにとって”こころの中”で話せる人でなければならない。
誰かのみっともなさやダサさに寛容になるのだ。
そして、黙って話を訊く。
要するに、困っている人に手を差し伸べられる人になろう。
まず、あなたからそうならなければあなたの世界は変わらないのだから。
味方として信頼を得るためには、自分から信頼しなければいけない。
カウンセリングがビジネスライクになるのではなく、もっとフランクに自分の悩みを誰かに打ち明けられる社会の方が、ぼくにとっては住みやすそうである。
こう書いてなかなか実現することはむずかしいだろう。
しかし、それでもぼくは、相談のアウトソーシング化に対して、思いを書き綴りたいのだ。
心理学を卒業するために必要な手続きは、
信用ではなく信頼を理解して、
あなたが手放しで信頼できる誰かをつくることから始まるのである。
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