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酔いどれ雑記 32 サウダーデ、聖と俗

リスボン、世界で一番好きな街。3か月前はオレンジ色の街灯が濡れた坂道の石畳を照らしていたけれど、6月の空は青くどこまでも広がって、テージョ川は変わらず大西洋へと流れていた。

ポンパル侯爵広場に面したホテルから歩いて行く......私は極度の方向音痴だけれど、ここをずっと下ってゆくときっと港に着くだろう。なにしろ私は港町生まれ、こんな時だけは体内の方位磁針が動き出し、潮の薫りも手伝って正しい道へと導いてくれる。

フィゲイラ広場。扇風機とスーツケースを両手いっぱいに抱えて売りにやってくる男、宝くじ売りの威勢のよい声。私はベレン行きの路面電車を待つ列に並ぶ。あ、靴磨きの親父さんが前と同じ場所にいる......本当に戻ってきたんだ、リスボンに。路面電車はすぐにやって来たけど、ああ、君には用はない......キットカットの広告がラッピングされた新型車両なんて御免だ......赤いトラムはウィーンで今朝乗ったばかりだし、私がリスボンで乗りたいのは黄色いあいつだ。私はキットカットを2度ほど見送った。

黄色い路面電車はガタゴトと川沿いを走る。ロリポップをくわえている運転手、鈴をポケットから取り出して鳴らしながら調子っぱずれに歌いだす爺さん、はやし立てる学校帰りの小学生たち......ああ、ここはリスボンだ。

ジェロニモス修道院の前で降りて、向かいの広場、インペリオという名だとあとで知ったがーーそこのベンチで煙草を吸いながらテージョ川の向こうをボーっと見つめてウィーンでの出来事を思い出していた。飛行機の中ですでに時計を1時間遅らせておいたけれど......なんだかウィーンを発ったのが1週間くらい前の出来事のように思える。

ジェロニモス修道院の礼拝堂。3か月前とは違って随分静かじゃないか。人はまばら。まぁたまたまだろう。ねぇ、ヴァスコ・ダ・ガマさん(やぁ、またお会いしましたね)。私は真ん中あたりの席に座って、スペインの思想家、ミゲル・デ・ウナムノの「寺院がいちばん聖なるゆえんは、そこが人々の共通して泣くところだからである」という言葉を思い出して、少し泣いた。

3か月前には入らなかった回廊へ。3ユーロ払って進むとさらに人の気配はない。静かな場所はどうも苦手だ......人がいるところがいい。雑多な人々がいる賑やかなところがいい。よそ者その1、その2、そのn......として紛れ込みたいーーこれは都会育ちの憂鬱か、変わり者の安堵か。

ベレンの塔まで足を延ばそうと思ったけれど、なんだか今日のところはもう満足してしまって、黄色い路面電車でフィゲイラ広場に戻る。生き返ったような気分だ。ホテルに戻ろうと歩き始めると
「セニョーラ、煙草一本くれる?」と10代と思しき青年が声を掛けてきた。箱から一本取り出して渡すと彼はフィルターをちぎって捨て、短くなったハイライトに火をつけた。そしてニヤニヤしながら、手にしていた茶色い塊をポーンと軽く真上に投げ、手のひらで受けて、また上げて......を繰り返している。おい、それ、ハシシじゃないかい......?白昼堂々と売る奴なんて初めて見た。こんなところで面倒に巻き込まれたくはない。興味ない、I'm not interested、Não, obrigada(と、いうことにしておこう)。とりあえずこの場を離れよう。近くの商店に入ってしまえ......目についたのは靴屋だった。靴は何足あってもいい......黒いサンダルを買った。奴がいないかどうか確かめてから店を出たけれども、奴はまだ近くにいたーー他の誰かに営業中のようだったのでこちらには気付いていなかったけれど。

部屋で少し休んでからホテルの中のバーに行った。2階の目立たないところにある小さなバー。まだ宵の口でもないからか、私のほかは誰もいなかった。私はカウンター席に座り、ジョニーウォーカーを注文したーー酒には弱いが、旅行中はなぜかスコッチが飲みたくなる。「どこから来たんだい?」「日本です」どうやらポルトガル人ってのはこちらが日本人だと知るや「我々は日本に来た初めてのヨーロッパ人だ」という話をするのが好きらしい。あちらさんもきっと、日本人って奴は天ぷらだの、ザビエルだのが好きだと思っているに違いない。

「今日、今さっきウィーンから着いたばかりで......」
「ウィーン!俺はシューベルトが好きで、いつも行き帰りの車で聴いてるんだよ」バーマンのマヌエルは一人称が「俺」でも「僕」でもない雰囲気の男だ。「私」もなんだか違う。けれど俺、ということにしておこう。マヌエルにウィーンでオペラを観たこと、つい三月ほど前にもポルトガルへ来て今回は2度目だと話すと
「へぇ、君はポルトガルがそんなに好きかい」と満面の笑みで握手を求め、自分のグラスになにか酒を注ぎ、ポルトガル煙草、SGの赤箱を吸い始めたので
「赤いのもあるのは知らなかった、紺色のと銀のは吸ったことあるけど」と言うと、吸う?と一本差し出したのでハイライトと交換した。
「随分きついのを吸ってるねぇ、いい味だけども」
「強い女には強い煙草が必要なのよ、お分かり?」
「ははは、その通りだ」

氷が融けて薄くなったジョニーウォーカーを飲み干すと、ポルトガルにまた来ることができて本当に良かったとしみじみ感じ喉の奥と頭が熱くなった。そしてEinmal ist keinmal.ーー一度は数に入らないというドイツの諺をまた思い出す。リスボンには2度来れたーーもうあと1度来ればきっとそれは揺るがないだろう。一夜の陶酔も美しいが、行けば必ず見知った何かや誰かがいるという安心感に代えられるものなどないのではなかろうか......?ジョニーウォーカーをもう一杯注いでもらう。

「ヴィアナ・ド・カステロに行ったことはあるかい?」
「残念ながらないの。写真で見て綺麗だったから行きたいと思っているのだけれど。でも何故?」
「俺はそこで生まれたんだよ」
「そうだったの、やっぱりいいところなんでしょうねぇ?」
「そうだね、リスボンみたいに大きな街じゃないけどね」
「私は、田舎より都会が断然好きなんだけれど、ポルトガルは小さい田舎町も好きなの。ノスタルジックで......それでもってどこかメランコリックな場所が好きで。それは田舎だけじゃなくてリスボンでも、ほかの国の大都市でも感じられることだけども......でもポルトガルは......」
「ファティマには行ったことあるかい?」私の言葉を遮るようにマヌエルが言った。
「Sim、3か月前に。ちょっと寄ったことがあるだけだけど」
「そうか、それはよかった。もう何年も前のことだけども、古い知り合いの爺さんががんになって......きっと爺さんはじきに死ぬって分かってたんだろうなぁ、この世に別れを告げるためにファティマに行ったんだが......」

話は2人組の男女がバーに入ってきたところで中断された。私の席から1つ空けてカウンター席に座ったのはスイスから来たという熟年の夫婦で目が合うと笑顔を見せた。私はスイスへはまだ行ったことがないーー多分行くとしてもかなり後回しになることだろう。マヌエルと夫妻はスイスの山の話をしている。ユングフラウだの、登山電車だの。時たま私に話が振られるが、当たり障りのないことしか話せない。私は大自然より、ひとの創り出したものが好きだ。ひとの情念が感じられるものやひとが生きている場所、ひとが生きていたと判る場所が。

それからリスボンを離れるまで、毎晩バーに行ったけれど、ファティマに行った爺さんの話は聞けずじまいだった。こっちから訊くのも何となく躊躇われたし、あれからいつ行ってもバーにはマヌエルと話している人たちがいたから。

リスボンに到着した3日後に、また黄色い路面電車でベレンに行った。三月前には閉まっていて外観だけ見たベレンの塔の中に入ってみたくて。ジェロニモス修道院に近づいたところで急に用を足したくなり、途中下車して修道院のトイレを借りることにした。確かトイレは回廊の中にあったはず。回廊の入り口で拝観料の3ユーロを支払おうとすると
「君、3日前にも来てくれたよね?どうぞ入って、拝観料は要らないよ」と係の人が歓迎してくれたのでポケットに硬貨を突っ込んだーーああ、私がトイレを借りるために来ただなんて彼は露ほども思っていないだろう。罪悪感で一杯。私はキリスト教徒ではないけれど回廊の2階にある大きな磔刑像を直視できなかったし、とにかく後ろめたい思いに押しつぶされそうだ......トイレに入る前に磔刑像やマリア像のある部屋に行ったことで余計に自分が嫌になったけれど、結局、用を足してしばらくしてから外に出た自分はやはり汚れた人間だ。

6月の空は変わらず青くどこまでも広がっている。またインペリオ広場で一服しようと思ったその時、初老と思しき男性が修道院の前に座り込んでいるのが目に入った。ポケットから3ユーロを取り出し空き缶に入れたーーObrigado,senhora......ああ、私は何をしているんだ......有難うだなんて言ってもらえるような人間じゃないんだ、私は......ああ、違う、私はどんなに自分は嫌な奴なんだろうと思うことで救われようとしている偽善者ではなかろうか?自分はなんてナルシシスティックなんだーー己の卑しさに気づいているだけまともだと思いたい......今晩はジョニーウォーカーをダブルで飲もう。

マヌエルが話していた、ファティマに行った爺さんは天国に行かれただろうか。話の続きが聞きたい。ベレンの塔に行くのも忘れ、いつの間にか黄色い路面電車に乗ってフィゲイラ広場に戻っていた。トラムを待つ人々の群れ、宝くじ屋の声、靴磨きの親父さん......何もかもがいとおしい。カフェにでも入って、一服、二服して、濃く舌が焼けるほど熱いビッカ(ポルトガルのエスプレッソ)を飲もうと歩き出すと、見知った顔が......例のハシシ青年だった。ああ、ここは俗の世界だ、妙にホッとした......まさかあんたに救われるとは思ってもみなかったよーーMuito obrigada. 彼もまた、生きているんだ、リスボンで。




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