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石の歌う森(第1回) ~星は風にそよぐ イシアス篇~


あらすじ 
 兄の死をきっかけに、兄が憧れた国ロータシアへ渡ったセシル。ロータシアの人々は精霊と強い絆で結ばれ、みんな生き生きと日々を暮らしていた。セシルはロータシアで精霊術を学び、さまざまな体験を重ねて母国イシアスヘ帰国する。
 原生に近い森を取り戻すため、すべての国民が3つの都市の超高層住宅に暮らし、ほとんどの時間を仮想空間で過ごす国、イシアス。ロータシアの豊かな暮らしを味わってしまったセシルには、イシアスの生活に戻ることは耐え難かった。
 イシアスの社会を離れて森で狩猟採集の生活を送る「森の人」が助けになってくれる、と精霊術の兄弟子に教えられたセシルは、自分の生きる道を探すため、森へと旅立つ。

 自動操縦の車が低空飛行に入ると、眼下は深い森。見渡す限りの木々。磁石の同じ極を近づけたときに反発する、そんな力をセシルは下から感じた。
一これがイシアスの精霊たちのエネルギーなんだ。
 イシアスを出ていくためにこの上を飛んだ2年半前、セシルにはこの押しつぶされるような高密度のエネルギーを感じ取ることができなかった。

 世界に先駆けて、イシアスは一極集中の道を選んだ。人々は3つある居住区の高層ビルに暮らし、多くの時間を「レブリー」と呼ばれる仮想空間で過ごす。稲作、畑作、酪農など環境に負荷をかける食料生産をやめて、人々はすべての栄養を錠剤でバランスよく摂取している。味覚を楽しみたければ、VR(ヴァーチャル・リアリティ)を使えば、脳への刺激によって味も食感も堪能できる。
 仮想空間「レブリー」の中で会いたい人に会うことができ、どこへでも行かれるので、人々が実際に移動することは少なくなった。それにより、エネルギー問題は解消しつつある。国土のほとんどを覆う森は原始に近づいているため、森に棲む精霊たちが本来の力を取り戻し、セシルが感じたような強いエネルギーを発散している。けれども、人は精霊とつながる機会を持たないがゆえに、そのエネルギーを感じ取ることができない。2年半前にセシルが感じられなかったのも、それが理由だ。

 遠く正面に、高層ビルの密集する居住区が見える。リンゴ飴のような夕日に照らされてビル群がピンク色に輝くさまは、火のついたろうそくの束のようだ。
「まあ、あれはあれで美しいかもね」
セシルは目を細めてつぶやいた。

一あと20分ほどで家に着く。
 兄の死をきっかけに、母は仮想世界に閉じこもり、父は家を出て、セシルは兄の憧れた国へと旅立った。
一2年半は長い。お母さん、ひとりでどうしてたんだろう。
 母が生きていることはわかっている。レブリー内でアカウントのアクションが検知されなくなると、システムから家族に連絡が来るようになっているから。
一お母さんはちゃんと生きてる。でも。
 背中にゾワゾワするものを感じて、セシルは身震いした。光とぬくもりに満ちた日々、自分だけが、優しい人たちに囲まれ、美味しいものを食べ、楽しい想いをしていた、という罪悪感が吐き気のようにセシルの胸に昇ってくる。
一だけど、あのままここにいたって、何もしてあげられなかった。
セシルはそう自分に言い聞かせた。
-今からだ。今から私は、お母さんがもう一度生きるのを手伝う。

 すでに日は落ちて地平線のきわを真紅に縁取っている。真紅の上に続くオレンジ、青、そして群青色、その上には漆黒。
 果てしなく続く森の向こうで繰り広げられるこの見事な日没を見られるのは、居住区外側のタワーに暮らす富裕層だけだ。居住区の中心が最も家賃の低いエリア、外側に向かうにつれ、家賃や住宅の価格は上がっていく。だから、セシルの家庭のような、ほとんどベーシックインカムのみで暮らしているような人々は、都市の中心部に暮らしている。

 自動操縦でなければ林立するビルの間を飛ぶことは難しいが、この自動操縦のおかげで、たとえ眠っていても、パーキング棟の自分の駐車スペースまで安全に運んでもらえる。
 車から降りると、脚が震えていた。母に会うのが怖かった。逃げ出したかった。ロータシアに引き返したいと思った。でも、ここで逃げ出せば苦しみは増すだけだ、とセシルにはわかっていた。
 兄が命を絶ったあと、母は、セシルたち兄妹が小さな子どもだった頃の幸せな家族の風景を仮想空間の中に作り出し、そこへ閉じ籠った。あんなに仮想空間を嫌っていたのに。
 セシルは再び自分を奮い立たせた。
-お母さんを眠りから覚まさせてあげるんだ。私はそのために帰ってきたんだから。

 パーキング棟から居住棟への入り口は生体認証で解錠される。2年半も使っていなかったから登録が削除されたのではないかと心配したが、問題なく入ることができた。
 パーキング棟に人の姿はなく、病院のように真っ白な居住棟の廊下でも、清掃ロボットとすれちがっただけで、誰とも出会わなかった。やはり現実空間を動いている人は少ないのだ。

 いきなりドアを開けて母を驚かせたくなかったので、セシルはインターフォンのボタンを押した。自分の血液がドクドク流れる音が耳元で聞こえるほどの緊張を感じた数分の後、突然、勢いよくドアが開き、母が抱きついてきた。
 予想外の出来事に、セシルは言葉が出なかった。母は声を上げて泣いている。
 どれくらい、そこに立ち尽くしていただろう。母の泣き声がすすり泣きに変わった頃、セシルはようやく母の身体に手を回し、恐る恐る抱きしめた。セシルの目にも、温かい涙がじわじわと湧き上がってくる。
「お母さん…」
「セシル。セシル。もう戻ってくれないかと思った。ごめん。ごめんね」
そう言って、母はまた声を上げて泣いた。
「よかった。ほんとによかったよ。お母さんも、戻ってくれたんだね」
セシルもそう言うと、母とふたり抱き合って、おいおい泣いた。

 ふたりとも、何から話せばいいのか、わからない。話したいことは、山ほどあった。
「まずは座って。お茶、淹れるから」
母はそう言ってお湯を沸かした。それから、流しでセシルのマグカップをすすぎ、白湯を注いでセシルの前に置いた。
「私は白湯派だけど、セシルは紅茶派よね」
と言ってVRを起動しようとする母を見て、セシルは我に返り、
「そうだ、お母さん!お土産、あるの!ちょっと待って。本物の紅茶だってあるんだから」
と言った。

 壊れやすい瓶詰めはスーツケースに、紅茶やお菓子はバックパックに入れたはずだった。玄関に置いたバックパックの中を探り、セシルは美しい紙箱を2つ、取り出した。
 1つは、若草色と黒の地に金の飾り文字が美しい紅茶の箱。紅茶はなんと言っても茶葉で淹れるのがおいしいけれど、実家にはティーセットがないと聞いて、ホームステイしていたベリーヒルズのお母さん、モニカがティーバッグを選んでくれた。
 そして、もう1つの青い箱には、美しい街並みが描かれている。ベリーヒルズの建物すべてに使われているターコイズブルーの屋根瓦を模した青いチョコレートはベリーヒルズの郷土菓子で、モニカの長女、アナベルが持たせてくれたものだ。

「存在してるね。力強く存在してる」
手のひらに1つのせたチョコレートを見つめながら、母が言った。
「いつまでも手にのっけてたら、溶けちゃうよ」
セシルは、母がチョコレートを全霊で楽しんでくれているのがうれしかった。この楽しみを、こんなに早く、母と共有できるとは思っていなかった。
「あ、そっか。そうだった」
と言って、母は急いでチョコレートをかじった。母がかじった断面に、アーモンドとヘーゼルナッツのキラキラしたヌガティーヌが現れ、ナッツの香りがふっと鼻に届いた。
 そのとき、母の目からまた涙がこぼれた。
「セシル。生きてるってさ、こういうことだよね」
セシルも涙ぐんで答えた。
「うん」

 時間はいくらでもある。ふたりは慌てず、ゆっくりとお互いのことを尋ね合った。
「ねえ、お母さん。いつ、戻ったの?」
「すぐよ。セシルが旅立ってすぐ」
 それを聞いて、セシルの顔から血の気がひいた。ショックだった。あと少し待ってあげていたら、母は自分で目を覚ましたのだ。
 セシルの表情を見て、母が慌てて言った。
「違うの。独りになったから、目が覚めたの」「お母さん…」
「私には家族がすべてだった。レイをなくして、家族が欠けてしまったことを、私は受け入れられなかった。だから虚像の中に逃げ込んだの。そこでは痛みを感じなかった。幸せだった頃の家族に囲まれて満たされている、そう思ってた。でも、満たされていると錯覚できたのは、そばにあなたやお父さんがいてくれたからだったの。あなたたちの存在の熱が私を温めてくれていたの。独りになって、私はようやくそれに気づいた。あなたが旅立ってしばらくすると、私の身体が震えだした。春だったのに寒くて寒くて、暖房をつけたけど、身体の芯が全然温まらないの。それから押し寄せてきた耳鳴りがするほどの孤独感。世界に自分しかいないような気がした。レイが言ってたでしょ、『真空にいるみたいに孤独だ』って。これなのか、って思った。この先の道が闇に包まれて、恐怖に押し潰されそうになった」
「お母さん、ごめんなさい」
「違うのよ。謝らないで。独りにならなかったら、あのまま温かい夢の中でまどろんだままだった。結局、あなたたちに甘えていたの」
「目覚めたんなら、連絡してくれたらよかったのに。モバイルはときどきチェックしてたんだよ」
「邪魔したくなかったの。私のことなんか気にせずに、とことんやりたいようにやってほしかったのよ。でも、それが裏目に出ちゃったのかな。私が心配で帰ってきたんでしょう?」
「私はね、ときが来たから、帰ってきたの」
「ありがとう。ありがとうね、セシル」
母は、テーブルに置いていたセシルの手に、自分の手を重ねた。
「お母さん、どうしてたの、この世界で。ひとりきりで」
「VRって便利よね。改めて感心しちゃった。何でもできちゃうのね。レブリーには、人も、うじゃうじゃいるし。だからね、やることはたくさんあった。順を追って話すとね、まずは恐怖に打ち克たなきゃいけない、って思ったの。依存からの脱却。レイのいる私じゃなく、セシルのいる私じゃなく、お父さんのいる私じゃなく、ひとりの私を生きなくちゃいけない。ひとりの私、はどう生きる? そう思ったんだよね」
溌剌と話す母に、セシルはただ驚いていた。そうだ、そうだった。母はこういう人だった。信じて、深刻になりすぎずに、待っていたらよかったんだ、とセシルは思った。
「自分を生きるとき、私は何をしたい?って考え抜いたんだ。で、何だったかわかる?」
「読書」
「わ!速答。さすが、セシル。わかっちゃうんだ。私はね、自分の中を深く覗いて探ってみなければ、もうわからなくなってたの。でも、辿り着けた。それで私は手に取った。おばあさんから受け継いだあの本をね。我が家に唯一残っている紙の本。缶のに入れて引き出しにしまってた、あの宮沢賢治の童話集よ」
 劣化を防ぐために、その本は、湿気とりと一緒に缶に入れてあった。時折、母が缶の蓋を開けてセシルと兄に本を見せてくれたことを、セシルはよく覚えている。
「ほとんど触らせてもらえなかったけど、その代わり、お母さん、あの中からたくさんお話を聴かせてくれたよね」
「ふふ。セシルも覚えていてくれて、うれしい。それでね、本を開いたとき、見つけたのよ」
「何を?」
「レイからの手紙」
 母はそう言って立ち上がると、自分の寝室から2つに折り畳まれた小さな紙を持ってきて、セシルに手渡した。それは、セシルが兄の形見として持っているメモ帳から切り取られた紙のようだった。生前、兄が、憧れの地ロータシアのスケッチを描きためていたそのメモ帳は、セシルがロータシアに旅立つきっかけを作った。

 セシルは深呼吸をひとつして、丁寧に手紙を開いて読んだ。

母さん、
ぼくは母さんに感謝しています。
ここに書かれているお話は、みんな、ぼくの中に入っています。あちらの世界はあまりに魅力的で、ぼくは向こうへ行ってみたくて仕方がありません。仮想世界でも現実世界でもないあの世界へ。母さん、本当の世界を見せてくれてありがとう。
でも、ぼくはまだあちらへは行かない。
ここに大切な人たちがいるから。
繋ぎ止めてくれてありがとう。
レイ

 セシルの思った通りだった。兄は行ってしまうつもりはなかった。衝動だったんだ。呼び声に抗えなかったんだ。
 セシルはそっと手紙を畳み、母に返した。受け取りながら、母は言った。
「やっぱり、私のせいだな、って思ったよ。お父さんがよく言ってた。そんな風に育てたら、この世界で生きていけない、って。でもね、レイは感謝してくれてた。本当の世界を見せてくれた、って。」
「私もだよ、お母さん。感謝してる」
「後悔は、拭い去れない。あのときこうしていれば繋ぎ止られたんじゃないか、とかね。でも、自分を責めるのだけはやめたの。レイが喜ぶわけないもんね。そのかわり、自分がしっかり生きよう、って思えたの」
「お兄ちゃん、きっと喜んでるよ」
「それでね、VRを存分に活用させてもらったのよ。ロータシアにもよく行った。レイの履歴が残ってたからね。ときどきは泊まりがけで観光したり、おいしいものもたくさん食べた。きっとセシルよりいろんな所を訪れたんじゃないかな。ロータシア、本当に素晴らしいところね。ああ、ここでセシルは頑張ってるんだ、って思ったら、うれしかった」
「わあ、そうなんだ! そうなんだあ!」
「それからね、電子書籍もたくさん読んだよ。AI小説が主流になってから書かなくなってたお父さんも、今、作品を公開してるの。それがね、なかなかいいのよ」
「えー! 私も読みたい!」
「でしょう? あとで、教えてあげる。でもね、ずっと仮想空間にいてはいけない、ってわかったの。きちんと戻ってこないといけない、自分に。バランスが大切なのね。仮想と現実の。戻ってきて自分を取り戻すためには、ヨガが役に立った。ゆっくり呼吸して身体を動かしながら、自分の存在全部を確認するの。それから、もうひとつ。賢治の本を手に取って、ページを繰りながらじっくり味わうときも、完全に私でいられた」
「わかる! 紙の本の力、私もロータシアで感じたもん。読んでいるときに感じる熱が全然違うんだよね。紙の本も5冊、持って帰ってきたよ!」
「ほんと? わあ、貸してね。うれしい! さあ、今度はセシルの番。聴かせて、ロータシアの話」

 セシルは、ロータシアに渡りステファニー先生に習った精霊術について、先生が守るシャインウッドの森での暮らしについて、話し始めた。そして、ステファニー先生が焼いてくれたパンが本当においしかった、という話になったとき、突然、立ち上がって大声を上げた。
「パンがあった! 先生のブール!」
 帰国の朝、先生は自慢のブールをたくさん焼いて、バスケットに詰めてセシルに持たせてくれたのだった。車の中で、セシルがいくつか食べたけれど、まだたくさんあったはずだ。
「ね、お腹空いたよね。夕食にしようよ。チーズも瓶詰めのパテもあるんだ」
 チーズは、やはり旅立ちの朝に、リリーアイランド・ニュースのライターである友人、クリスが買ってきてくれた。瓶詰めのパテやリエットは、兄弟子のロビンから。
 帰国を決めてからというもの、「イシアスに帰ったらもうおいしいものを食べられなくなっちゃう」と言って、ことあるごとに涙しているセシルを心配して、みんなは、餞別に可能な限り食料を持たせてくれたのだった。




 

 


 





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