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石の歌う森(第6回)~星は風にそよぐ イシアス篇~

「わあ、素敵なお家!」
セシルは歓声を上げた。興奮して思わず自分でもびっくりするような大きな声が出てしまい、恥ずかしくなって口を押さえた。
 視界に入るどの大樹も、広いバルコニーまで備えたツリーハウスを腕に抱いている。まるで物語の世界のようで、セシルは胸を踊らせた。
 セシルの声を聞きつけて、目の前の家の人がバルコニーへ出てきた。カイトさんがさっと右手を挙げて合図すると、その人はうなずいて家に入っていった。セシルが怪しい者ではないことを、合図で知らせてくれたのだろう。
「こっちです」
 カイトさんはまた歩きだし、集落の奥へと入っていく。あの人にちゃんと挨拶したかったなと思いながら、置いていかれないよう、セシルも急いで歩きだした。
 社会から隔絶されて生きている人たちだ。森の人のコミュニティは、ものすごく閉じた世界に違いない。人の声を聞いてすぐに出てくるのは警戒心の現れだろう。セシルは心配になってカイトさんの背中に話しかけた。
「あの、カイトさん! スーワの方々は、私が滞在することを許してくれてるんでしょうか。私、何の承諾も得ずに出てきてしまって」
 カイトさんは立ち止まり、しっかりとセシルと向かい合ってから言った。
「2日後の集会であなたを紹介します。スーワの全員がロビンからメッセージを受け取ったから、みんな、あなたのことは知ってますよ」
 ロビンの得意気な顔が目に浮かんだ。ロビンなら、風に乗せて1度にたくさんの人へのメッセージを送ることができる。ロビンのやってくれそうなことだ。ロビンはきっと、このコミュニティのみんなと仲良しになったのだろう。

 集落の真ん中辺りまで来ただろうか。ひときわ立ち姿の美しい樫(かし)の巨木が現れた。どっしりと安定感があり、バランスよく広げた枝につややかで色の濃い葉をたくさん繁らせている。その木に宿る賢者のような円熟した精霊の存在を、セシルは強く感じた。そして、その樫の木がしっかりと腕に抱いている家は、いかにも大切に守られているように見えた。

 その樫の木の根元で、カイトさんが言った。
「はしごは登れますか? 僕が上から引き上げましょうか?」
 見上げると、バルコニーに空いた穴から縄ばしごがぶら下がっている。縄ばしごなんて、生まれてこのかた登ったことはない。それでも、セシルはとっさに答えた。
「とんでもない! 自分で登ります」
 そうは言ったものの、登れる自信はない。カイトさんはまたあの温かな眼差しでセシルを見つめ、
「途中で無理だと思ったら呼んでください」
と言った。それから、縄ばしごを軽やかに登っていき、穴から顔を覗かせると、見上げているセシルに向かってうなずいた。
 遠くから見たときにはそれほどの高さには見えなかったが、こうして見上げてみるとかなり高い。セシルはもともと高層住宅に住んでいるのだし、高所恐怖症ではない。それでも、ゆらゆら揺れる長い縄ばしごを登るには覚悟が必要だった。
 セシルはまず、息を吐いた。それから胸の奥深くまで息を吸い込むと、少しずつ吐きながら2本のロープの間に渡された丈夫な木の棒を1本1本慎重に登っていった。けれども、真ん中ほどで腕が疲れてしまい、一息入れて下を見たとたん、手も足も動かなくなった。
 呼吸が速くなり、手が震えてきた。セシルは情けなくて、涙が出そうだった。自分の力で家に入ることすらできないなんて。そのとき、セシルの頬をなでていった風の精霊がささやいた。
「あなたは友」
 セシルははっとした。そして、心を込めて語りかけた。
「そう、私はあなた方の友。バルコニーへ上がりたいのです。力を貸してもらえますか?」
 すると、セシルの身体がふわりと軽くなり、何かに引っ張られるようにすいすいと登れるようになった。
 自分の力で、とは言えないが、カイトさんの力を借りずに登りきることができて、セシルはほっとした。体力も運動神経もない自分がこの森で暮らすには、これからも精霊たちの力を借りる必要がありそうだ、とセシルは思った。
 バルコニーを見回すと、広々としていてテーブルと椅子まで置いてある。ここでそよ風に吹かれながら食事をしたら、さぞ気持ちがいいだろう。それにしても、こんな重そうなテーブルをどうやってここまで上げたのか、とセシルは首をひねった。
 セシルが無事にバルコニーへ上がったのを見届けると、カイトさんは戸口を開けて、どうぞ中へ、と手で合図した。

 中へ入ると、そこは居間のようだった。居間のようではあるが、窓辺にはベッドもあった。椅子に腰かけて弓の手入れをしていたおじいさんが、入ってきたセシルににっこりと笑いかけた。カイトさんによく似たやさしい目をしている。やはり作務衣のような麻の服を着ている。カイトさんのは深い藍色、おじいさんのはウグイス色だった。
「セシルです。みなさんにご迷惑をおかけしないよう、いろいろ頑張ります。どうぞよろしくお願いします」
そう言って、セシルはまた深々と頭を下げた。
 セシルの声が聞こえたのか、奥の台所から、セシルと同じ年頃の少女が飛び出してきた。セシルを見ると、少女は顔を輝かせて走り寄り、セシルの手を取って言った。
「あなたをずっと待っていたのよ」
 茜色の作務衣を着たその少女の手を、セシルもしっかりと握りしめて言った。
「ミオね。ロビンから聞いて、私もあなたを知ってる。会えてとってもうれしい」
 台所から、小柄なおばあさんが出てきた。おばあさんの作務衣は山吹色だ。
「慣れないところへ来て、疲れたでしょう? さあさあ、少し早いけれど、お夕飯にしましょ」
 それを聞いたセシルのお腹がキュルルと鳴り、全員がぷっと吹き出した。
「ロビンの言ってた通りね。お料理を運ぶの手伝ってくれる? 今日はセシルのために、いろいろ用意したのよ」
ミオはそう言いながら、固くつないだ手のまま、セシルを台所へ引っ張っていった。

 台所の作業台に並んだ料理を見て、またしてもセシルは自分でもびっくりするような声で歓声を上げてしまった。
「すごーい!」
 ミオがクスクス笑う。それから、誇らしげにお料理の解説をしてくれた。
「これはどんぐり粉のパン、これは鴨の燻製肉、こっちは茹でたウズラの卵よ」
 パンはかごに山と盛られ、真っ白な脂身とピンク色の赤身が美しい鴨の燻製も、可愛らしいウズラのゆで卵もどっさりある。セシルは思わず手をたたいた。
 ミオがまたクスクス笑いながら解説を続ける。
「今日のスープはウサギ肉ときのこ、ゆり根のスープ。デザートは、ご覧の通り、ブルーベリー。この時期が一番たくさん採れて、一番甘くておいしいの」
 おばあさんが、ひとりひとりの木のお椀にスープを注いでくれている間に、ミオとセシルはお料理をバルコニーへ運んだ。

 セシルの希望した通り、バルコニーでの夕食となった。セシルが希望しなくても、この森では晴れた夏の日にはみんなバルコニーで夕食をとるのだと、セシルは後から知った。
 席に着くと、4人は目を閉じ頭を下げた。色違いのさらりとした作務衣を身につけ、揃って頭(こうべ)を垂れる彼らは、どこか神々しかった。簡素なものが持つ本質的な美しさがあった。「聖家族」という言葉がふとセシルの頭に浮かんだ。あの作務衣は草木染めなのだろう。なんてやわらかな色合い。植物の精霊たちのエネルギーを強く放っている。そんなことを考えながら、セシルも頭を下げ目を閉じた。
 おじいさんが祈りの言葉を唱えた。
「神々よ、恵みに感謝します。何度でも我らの元へ戻ってくださりますよう。他の命に生かされるこの身を、必ずやいつの日か捧げん」
 祈りの言葉が終わり、セシルが目を上げると、みんなまだ静かにうつむいていたので、慌ててまたセシルも頭を下げ、それから1分ほど、辺りに響くカエルと虫の歌声を聞いていた。
「セシルさん、さあどうぞ。たくさんお上がりなさい」
 おばあさんの声に、セシルはそっと頭を上げた。
「私のために、こんなご馳走をありがとうございます。感謝していただきます」
セシルがそう言うと、ミオが
「おいしいものを食べに来たんでしょう? 期待に応えられるといいんだけど」
と言った。
「あの。否定はしませんけど、私がここへ来たのはそれだけじゃないんです。これから自分がどう生きればいいのか、知りたかったからです」
 深刻な表情のセシルを見て、おじいさんが言った。
「食べながら、ゆっくり話を聴くとしましょう。まずはお上がりなさい。スープが冷めないうちにね」
「はい!」
 深刻な顔から一瞬にして満面の笑顔になって元気よくセシルが答えると、みんながまた笑った。
 セシルは両手で木のお椀を包んで、スープの香りを嗅いだ。きのこの香りが食欲をそそる。
「それ、ロビンが使っていたお椀よ」
ミオが言った。
「これは何ですか? 小ネギでしょうか」
浮いている刻んだ葉物を指して、セシルが尋ねた。
「それはノビル。食べられる草のことなら、私が教えてあげるからね」
とミオ。
「よろしくお願いします」
と頭を下げ、セシルはスープを木のスプーンで口に運ぶ。ウサギの肉を食べるのは初めてだった。鶏肉に似ているが、とても柔らかくて上品な味わいだ。そして、このノビルが薬味としての役割をしっかりと果たしている。木の匙の口当たりもやさしい。セシルは、ロータシアで手伝っていたベリーヒルズの小学校を思い出した。あそこでも、木の食器を使っていた。
「おじいさんはね、鴨を仕留める名人なんですよ。鴨は素早く動くから、弓で仕留めるのは難しいのだけど」
 おばあさんがそう言って、燻製の載ったお皿をセシルへ差し出した。セシルは取り皿に2切れ取り、1切をゆっくり丁寧に口に入れた。
 舌にしっとりと冷たい感触。噛むと弾むような歯応え。
「すごくプリっとしてます!」
 セシルはおじいさんを見、それからおばあさんを見た。セシルの視線を受けて、おばあさんが言う。
「仕留めてすぐきれいに処理すると、くさみなく弾力を保ったお肉に仕上がるの。どれだけ素早く下ごしらえできるかにかかっているんですよ。おじいさんの手さばきはそれは見事です。是非見せてもらいなさいな」
おじいさんも口を開いた。
「セシルさんはそういうことを勉強しに来たのかい? あんたの住む世界では、そんなこと、役に立たないだろうに」
 セシルは言葉を探した。自分は何を勉強しに来たのか。森の人の暮らしすべてを見て、体験したいと思った。そこから生きるヒントを見つけたかった。でも、おじいさんの言う通り、自分の属するあの世界で実践することは不可能だ。
「ロータシアで暮らしてから、私はもうイシアスの居住区や仮想空間で生きることができなくなってしまいました。新しい生き方のために何を学んだらいいのかは、私にもわかりません。だから何でも勉強するつもりです。勉強したことが何につながるのか、そういうことは考えず、何でも見て、感じて、考えようと思います」
「わしの祖父母たちが立った地点に立とうというのだね」
 そうか、そんな風には考えていなかった。そのときセシルは、自分と森の人とを隔てていたカーテンの内側に、一歩足を踏み入れられたような気持ちになった。カイトさんが精霊のように美しく自分が醜く感じられたけれど、森の人たちも自分と同じ人間。卑屈になることはないんだ。
 おじいさんが続けた。
「祖父母たちは大変な苦労をした。突如、電気もガスも水道も諦め、貨幣経済からも切り離されたのだからな。パイオニアというのは大変な苦労をするものだ。彼らはすべてを自分たちの手でなさねばならなくなったわけだが、原始時代に戻ったわけではない。さまざまな道具もあったし、生き残るための知識が詰まった本もあった」
「森には図書館もある、ってロビンが言ってましたけど、そういう本が保存されているんですか」
セシルが尋ねると
「いや、歴史や暮らしの本だけではないよ。文学や科学、芸術に関する本もある。小さな図書館だから、すべて揃っているというわけにはいかないが」
「ぜひ見せていただきたいです」
「古い本ばかりだよ。だが、見たいというなら、ミオに連れていってもらいなさい」
 セシルが隣に座っているミオを見ると、
「任せて」
と言って、ミオはセシルの肩に手を置いた。
 おじいさんがにっこりして、話を続ける。
「祖父母たちをパイオニアと言ったが、彼らのやるべきことは過去に戻ることだった。自分たちが持っているものでちょうど生きていけるような過去にな。パイオニアとは逆のことをしたと言えるだろう。だが、戻ること、後退することは、悪いことではない。勇気がいることだ。パイオニアでないとすれば、彼らは勇者だ。書物から過去に生きた人々の技術を必死で学び取り、工夫し、実践していった」
 こんな話、お父さんも聴きたかったろうな、とセシルは思った。
「私は、電気や水道が使えた方がよかったな」
ミオがポツリと言った。
 おじいさんがミオにやさしい眼差しを向けた。
「そうだな。料理をしてくれるミオやおばあさんは、電気やガスや水道があったらさぞかし楽になるだろうな。木の家で暮らし始めたのはわしの代からだからな。それまでは水の確保もまだ楽だった」
「私、森の人は始めから木のお家に住んでいたのかと思ってました」
「誰もが、始めから森の人だったわけではない。人間がいなくなると、森は待ってましたとばかり、驚くほどの勢いで広がり始めた。100年ほどで町や村は森に飲み込まれ、地上に人が住むスペースはなくなっていったのだよ」
「じゃあ本当に、居住区とは時間が逆向きに進んでいるような感じですね。居住区以外の土地は、人間にとっては、どんどん厳しく不便になっていく」
セシルがそう言うと、ミオが言った。
「セシルが居住区に住んでいたくない気持ちもわからなくはないよ。居住区の生活は味気ないでしょうね。だけど、何より便利で、清潔で、何の危険もない暮らし。ねえセシル、だからさ、真ん中をとるのが一番いいんだよね。ロータシアがユートピアなんだよ。私も、ロータシアに行きたかった」
 しばしの沈黙が通りすぎると、おばあさんが立ち上がり、セシルのお皿にパンを載せてくれた。
「ありがとうございます」
セシルはまた満面の笑みを浮かべて、パンを頬張った。
「あっ、セシル! パンはちぎって食べるものでしょ」

 夕闇が落ちてくるとテーブルの上のろうそくに火が灯され、セシルは自分のこと、家族のことを話した。
 ミオがこの時期に一番甘くなると言った野生のブルーベリーは、ベリーヒルズの洗練された大粒のものより甘みは少なかったが、口にすると活力が湧いてくるような味がした。

 夕食が済むと、セシルはお皿洗いを手伝った。洗い場は台所の真下、木の根元にあった。台所の床にある扉を開けると、そこにも縄ばしごが下がっていて、洗い場に降りていける。台の上に水の入った大きな樽(たる)が載っていて、栓を開けると、そこから水が出てくる仕組みだ。この樽は台所にもあり、そちらは料理や飲み水に使われる。
 カイトさんが川から水を汲んできて、いつも樽を満水にしておいてくれるのだと、皿洗いをしながらミオが教えてくれた。台所で使う水は、窓辺の屋根に取り付けられた釣瓶(つるべ)で引き上げる。やはり大変な生活。ミオが水道のある暮らしを望むのは当然だ。明日から誠心誠意お手伝いをしよう、とセシルは思った。

 居間にあるベッドは、おじいさんとおばあさんのものだった。カイトさんとミオには、とても小さいけれども、それぞれの自室がある。
 セシルはバックパックの上にベルトで固定していた寝袋を外して、ミオの寝床の横に広げた。森の人は、干した草の上にシーツをかけて寝床にしている。
「この上で一緒に寝てもいいんだよ」
「大丈夫。ミオが手足を伸ばして寝られないなんて、申し訳ないもん」
「そんなこと、気にしなくていいのに。私ね、こうやってベッドの中でセシルとおしゃべりするのを、楽しみにしてたんだ。ねえ、ロータシアの話を聴かせてくれない?」
「ミオ、夕食のとき、言ってたね。ロータシアに行きたかった、って」
「私、ロビンに頼んだんだよ。一緒に連れていってほしい、って。だけど、連れていってもらえなかった」







 




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