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石の歌う森(第2回)~星は風にそよぐ イシアス篇~

 セシルはまた玄関に飛んでいって、バックパックの底から、止め金のついたトランク型の小さなバスケットを取り出した。それから、スーツケースを開いて床に広げ、片側全部にぎっしり並んでいる瓶詰めや缶詰めをうれしそうに眺めた。
 でも、これだって、食べ尽くしてしまう日はそんなに遠くはない。そう思うと悲しくて、セシルは顔を曇らせた。
「よし!今日はヤギのリエットを開ける!」
 悲しい気持ちを振り切るように、セシルは元気な声で宣言した。

 セシルは、ダイニングテーブルの上にバスケットを広げた。ふわっと香ばしいパンの香りが立ちのぼり、「わあ」と母が目を輝かせて感嘆の声を上げる。
 ステファニー先生がブールを詰めてくれたこのバスケットは、ロータシアの家庭にひとつは必ずあるピクニック用のバスケットだ。内側には花模様やチェック柄の布が貼ってあり、蓋の方には小さなお皿が4枚とフォーク、スプーン、バターナイフが4本ずつ、ベルトで備え付けられている。
 ステファニー先生が愛用していたバスケットは、内側がグレーの地に黄色いユリのプリント。先生と森の見回りに出かける日には、このバスケットにサンドウィッチや果物を詰めて、精霊たちと交流を深めながら、一日中ふたりで森を歩きまわった。先生との思い出も、たくさん詰まったバスケットなのだ。
 先生の焼くブールが、セシルは大好きだった。切り分けて食べる普通のサイズのブールではなくて、先生のはコロンと丸いミニサイズだった。外側のカリカリ部分が先生の好みだし、切り分けて保存すると中のしっとり感が損なわれてしまうからだという。食欲をそそる香ばしいこの匂いを嗅ぐと、セシルの胸に先生への想いが溢れてくる。
「おいしく食べられるのも明日くらいまでだから、お母さん、好きなだけ食べてね」
そう言いながら、セシルはバスケットからお皿とカトラリーを取り出した。それから、瓶詰めのピクルスのふたを開けて、にんじん、セロリ、カリフラワーをそれぞれ2つずつお皿に載せ、母に手渡す。
「ピクルスはね、ステファニー先生のお友だちで、私を見習い先生として受け入れてくれた小学校の校長先生、クロード先生から。ステファニー先生の修行を終えてからは、私、クロード先生のうちにホームステイしてたの」
 今開けたミックスピクルスをはじめ、きゅうりだけのシンプルなものや果物のピクルスなど、色とりどりのピクルスの瓶が、スーツケースにまだいくつも待機している。ありがたいことだ、とセシルは思った。
「これはヤギ肉のリエット。バターナイフでパンに載せて食べるの。パテやリエットがあると、何個でもパンを食べたくなっちゃうんだよね。おいしくておいしくて、ついガツガツ食べ過ぎちゃって、最初の頃、お腹壊した」
 瓶詰のリエットのふたを開けながらセシルが言うと、母は
「私もこれまで錠剤しか胃に入れてこなかったから、ゆっくりゆっくり食べないと、胃が痛くなるか、お腹壊しちゃうかもね」
と言って笑った。
「そう言えば、私も一番最初の食事のとき、先生に言われた。よく噛んで、ゆっくり食べるように、って。お腹いっぱいになるほど食べないように、って。あ、このパテとリエットはね、お兄さん弟子のロビンからお母さんにお土産」

「森の人のところへ行けば、またおいしいものを食べられるよ。心配ない」
と言って、ロータシアの食卓との別れを嘆き悲しむセシルに理解のなかったロビンが、町の食料雑貨の店へセシルを連れていってくれたのは、3日前のことだ。店の前で、ロビンは、あのいたずらっ子のような笑顔で言ったのだ。
「セシルのお母さんへのお土産に、何か買ってあげる」
 ふたりで話し合い、保存のきく瓶詰めのパテとリエットを1種類ずつ買うことにした。けれど、どれもおいしそうで、セシルがなかなか選べずにいるのを見て、ロビンは
「もう、全種類、買っちゃおう」
と言って、豚肉、ヤギ肉、サーモンのリエット、それから鴨肉、牛肉、鶏レバーのパテを次々かごへ入れたのだった。
 母にリエットの瓶を手渡しながら、セシルはそんなロビンの姿を思い出して、ふふふっと笑った。
「何? 思い出し笑い?」
「ロビンのこと思い出すとね、笑っちゃうの」

 リエットを載せたパンを口にした瞬間、母の胸は懐かしさでいっぱいになった。初めての体験だというのに。前世の記憶なのか、集合意識というものなのか。味わいは口の中に広がり、地面に落ちた淡雪のようにとけてゆく。やはり違う。VRとは似て明らかに非なるものだ。なぜ人々はこの喜びを手放すことができたのだろう。
 母は2個、セシルは5個もパンを食べた。ふたりは、エネルギーを持って確かに存在する食べ物を、感謝しながらゆっくり味わった。夕食をとりながらお互いの報告を続けるつもりだったのが、結局、食事中は食べることに夢中になって、ほとんど会話にならなかった。

 満ち足りて「ごちそうさま」と手を合わせたときには、すでに10時を過ぎていたけれど、なんだか寝るのがもったいなくて、ふたりは食後のお茶を楽しみながら、またおしゃべりを再開することにした。
 モニカが選んでくれた紅茶は、茶葉にオレンジピールと矢車菊の青い花びらがブレンドされたフレーバーティーだった。
「ねえ、お父さんとは、連絡取れてるの?」
柑橘のさわやかな香りを、目を閉じて深く吸い込んでから、セシルが切り出した。
「お父さんが新作を公開しているところで、メッセージのやり取りはしてる。レブリーの中で待ち合わせて、会うこともあるんだ」
「へえ! カフェとか?」
「そうね。カフェが多いかな」
「帰ってこないの?」
セシルがそう尋ねると、母はマグカップの中の赤いきらめきを見つめながら言った。
「ひとりで心の奥の奥まで潜り込んでみて、もう一度、自分の表現を探してみたいんだって。セシルがいない間、お父さんとお母さん、おんなじようなこと、してたんだよね。ひとりになって自分を生きる、ってこと」
 私たち家族はもう歩き始めていたんだな、とセシルは思った。
「お父さんが今書いてるのって、どんなの?」
「うーん。そうねえ。歴史小説っていうのかな。この星の砂漠化が急速に進んで、それぞれの国が、個人が、大きな決断をしたあの時代の」

 この星で、ある時期、人類は必要以上を際限なく生産し廃棄する活動を続けた。モノの生産もそうだったし、食料もそうだった。生産を増やすために無理に土を肥やし、水や空気を汚し、浪費し、地下水を枯渇させた。その結果、世界各地で湖の水位が下がり、植物が枯れ始め、バイオテクノロジーによる砂漠の緑化も間に合わない速さで、砂漠がひろがった。
 豊かな自然をなんとか守っていたのは、自然と調和した伝統的な暮らしを続ける少数民族の住む地域と、宗教上の教義により精霊とのつながりを第一とするロータシアの周辺地域に限られた。それでも、同じ星のこと。ロータシアの精霊術師たちがどんなに精霊を癒そうと力を尽くしても、その影響は免れない。ロータシアも少数民族の住む土地も少しずつ荒れていった。
 そして今から150年前、これまで話し合いを重ねてきた国際環境再生会議において、イシアスは、あらゆる食料生産をやめ、いくつかの都市を除いて国土をすべて森へ還すという宣言をした。そんなことが可能だったのは、人間に必要な全栄養素を錠剤に濃縮する技術と、バーチャルリアリティと仮想空間「レブリー」の飛躍的な進歩による。
 農業をやめ、人々が超高層都市に移り住んでからの森の再生は、目覚ましかった。その驚くべき効果を見て他の国々もイシアスに続き、30年でおよそ80パーセントの森が再生した。
 国際環境再生会議において、イシアスが一極集中の道を宣言したのに対し、ロータシアは「種を守る」ことを宣言した。この星でまた食料を生産できるようになる時代のために。
「この星が再生し、あなた方が古き良き時代に戻れるときが来たなら、そのとき、ロータシアは種子を提供します」
と。
 ロータシアはノアの方舟だった。

 かくして、この星の自然は回復しつつある。けれども「古き良き時代」に戻ろうとする動きはなく、人々と自然とのつながりは絶たれて久しい。仮想空間での暮らしを便利で快適だと感じ、適応している人がほとんどだったからだ。だが、そんな社会の中で、心に冷たい虚無を感じながら生きる人たちもいた。たとえ生まれたときからその環境にあった世代の人間だったとしても。
 イシアスがこの道を選ばなかったら、もしもロータシアのような国だったら、兄は喜んでこの世にとどまっただろう。

 父は、作品を書くことを通してあの選択のときを生きることで、兄の死についても考えようとしているのかもしれない。
「それは絶対、読んでみたい」
セシルも考えたかった。世界のとった選択について、そしてこれからどこへ向かえばいいのかについて。
「セシルのモバイルに送っておくから、ゆっくり読んだらいいよ」
「うん。お願いね」

 活字中毒と言えるほど読書を愛する母の娘でありながら、ロータシアへ行くまで、セシルは読書に興味がなかった。子どもの頃、母に毎晩お話を聴かせてもらうのは大好きだったのだけれど。
 そんなわけで、セシルは父の作品を読んだことがなかった。読んであげなくて父はさみしかったかもしれない、とセシルは思った。思えば、自分のことばかりで、家族のことを本気で知ろうとしていなかった。父のことも、母のことも、兄のことも…。今は、知りたいと思う。
 父の作品を読めば、自分の知らない父にきっと出逢える。そう思うと、セシルは楽しみだった。

「お母さん、私がいない間、読書してたって、どんなの読んでたの? たくさん読んだんだろうねえ。あれは? VRで本の世界を体験できるのは、やってみた? 私はあればっかりだったけど」
「やってみたよ。でも、つまらなかった。あれは読書じゃないもんね。アトラクションだもの。賢治の作品もいろいろあったけど、やっぱり自分の想像力を使うってことが、読書の醍醐味でしょう? それにね、文字を追う行為そのものが、喜びなんだよね」
「それも有料版では実現できちゃってるらしいね。脳波を読み取る機能のあるVR機を着ければ、その人が文字を読んで想像したままの世界が現れるんだって。すごいよね。でもね、私もロータシアで、存在を持った「本」の素晴らしさを知ったんだ。だから、お母さんの言ってること、わかるよ! ステファニー先生のうちには本の部屋があってね、神話や歴史の本がぎっしり詰まってた。本棚から1冊ずつ取り出して、ページをめくっていく。ここまで読んだ、っていうところにしおりをはさむ。そして、ああ、ここまでの物語が私の中に入ったんだなあ、なんて思う。その充実感。それにね、ホームステイ先のお母さん、モニカは図書館の司書さんで、お母さんに負けないくらい本好きだったの。キッチンにまで本が溢れてたよ。だから、読書環境にはとっても恵まれてて、これからモニカに教わりながら、たくさん名作を読んでいこう!って意気込んでたんだけど」
「あら、ほんと? 私もいわゆる名作と謳われている文学作品でまだ読んでいなかったものを、手当たり次第読んでたのよ。時代も国も関係なく。時間はいくらでもあったから」
「私たち、似たもの親子だね」
「それにしても、紙の本に囲まれて暮らしてたなんて、うらやましくて涙が出そう。でもね、部屋にこもったままあらゆる本を読める電子書籍だって、すぐれものよ。イシアスには絶対に必要だもの」
そのとき、またセシルが「あっ!」と声を上げた。
「そうだ! お母さんに本を見せてあげなきゃ。ステファニー先生は詩を書く人でね、ロビンは絵を描く人だから、ふたりで作った詩画集をプレゼントしてくれたの。あとは本屋さんで買った文学の本2冊、お料理のレシピが1冊。ちょっと取って来る!」
 セシルが立ち上がると、母が慌てて言った。
「そりゃあ見たくてたまらないけど、明日ゆっくり見せて。もうこんな時間だもの。長旅で疲れてるのに、おしゃべりに夢中になっちゃってごめんね。今日は寝ましょう。セシルの部屋のクローゼットに、シーツもタオルケットもあるからね」

 久しぶりの自分の部屋。けれども、なつかしさに浸る間もなく、目をつむったとたん、セシルは眠りに落ちた。

 目覚めると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。それは、ロータシアと変わらない朝の光だった。セシルはベッドに横になったまま、心を込めて光を見つめた。光の粒ひとつひとつが笑いさざめいている。
「おはよう。ようこそ、私の部屋へ」
セシルは光の精霊たちに語りかけた。
 精霊とのつながりは、絶たれてなどいない。精霊たちはここにもいる。人々が、繋がり方を忘れてしまっただけなのだ。

「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらい持たないでも、きれいにすきとおった風を食べ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます」
母の大切に持っているあの童話集に書かれていた一節が、母の声で蘇った。

 セシルは起き上がって窓辺へ行くと、カーテンを少しだけ開け、外を見た。隣接するマンションが見えるだけで、お日さまの姿は見えない。空は、とても小さく切り取られている。セシルは遮光カーテンをタッセルでまとめ、できるだけ部屋の中に日光を入れようとした。レースのカーテンは、閉めておかないと外から中が丸見えになってしまう。飛んでいる車の数は少ないが、いつ通るかわからない。窓を開けて風も入れたかったけれど、危険なので窓は開けられないようになっている。
 そのとき、セシルはふと、兄の部屋の窓辺にサンキャッチャーが吊るしてあったことを思い出した。そうか、とセシルは思った。兄は少しでも多く光を、ぬくもりを、集めようとしていたんだ。


 

 



 
 

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