石の歌う森(第3回)~星は風にそよぐ イシアス篇~
セシルは、兄の部屋のドアをそっと開けた。カーテンレールに掛けられたサンキャッチャーが、セシルを歓迎するように、朝日を受けてキラリと光った。白い壁に小さな虹がたくさん映っている。光の精霊たちが奏でる微かな微かな旋律が聞こえている。明らかに、セシルの部屋よりも精霊たちの密度が高い。
セシルは兄のベッドに腰を下ろした。兄の部屋は、セシルが旅立ったときと何も変わっていない。あのときは、精霊を感じなかったけれど。
「ここしかないな」
セシルは、精霊術の基本の鍛練を続けるための自分の場所を、兄の部屋に決めた。精霊術師であり続けようと思ったら、毎日、静かに座り五感を解放して精霊とつながる時間が必要なのだ。
「ここなら光の精霊さんがたくさんいるもんね」
と呟いて、セシルは微笑んだ。
姿勢を正して座り、深く息をしてセシルが心を開くと、光の精霊たちは喜んでセシルの中へ入ってきた。そしてセシルを理解すると出ていって、部屋の中を楽しげに踊り回った。窓を開けて風の精霊たちも迎え入れたかったが、できないことを憂いても仕方がない。この家でも精霊術の鍛練が続けられるとわかって、セシルはホッとした。
キッチンを覗くと、母が白湯を飲んでいた。
「おはよう」
セシルが母に声をかけると、母はまるで子どものような明るい笑顔で応えた。
「おはよう。セシルが帰ってきてくれて、ほんとにうれしい。朝起きたとき、夢だったのかなって、ちょっと怖くなったの。でもね、テーブルにこの紅茶の箱があって」
それを聞くと、セシルはもどかしく思った。
「昨日も言ったけど、どうして連絡してくれなかったの? 言ってくれなきゃ、帰って来なかったかもしれないじゃない」
「帰って来てくれて本当にうれしいのよ。だけど、セシルが帰って来なくても、大丈夫だったの。読書とヨガで心と身体と深く対話する毎日に、私は満ち足りていたの」
兄の思い出の中に閉じこもってしまった母がもう一度現実を生きるために自分が手伝うんだ、とセシルは気負って帰ってきたが、すでに母は現実を生きている。
一私、何のために帰ってきたんだっけ。すごい決心をして帰ってきたはずなんだけど。
そして、セシルは思い出した。ロビンと交わした会話を、コンサートでの体験を、あの神話を描いたタペストリーを。これは、第一階層をクリアしたに過ぎないのだ。次の階層へと続く真っ暗な階段が目に浮かんで、セシルは不安になった。
「森の人のところへ行ってごらん」
と、頭の中でロビンの声がする。にっこり笑うロビンのイメージを、セシルは振り払い、気を取り直して母に言った。
「朝ごはんにしましょ」
すると母は答えた。
「あのね、セシル。お母さん、ちょっと胃が痛いから、朝は白湯だけでいいわ。胃を休めてあげた方がいいみたい」
やはり急に「本当の食べ物」を入れても、内臓はうまく消化できないのだ。
「そうだよね。お母さんの身体、きっとびっくりしてるよね。私も、朝はお茶だけにしよう」
栄養剤をしまうキッチンの小さな棚に、持ち帰ってきた食料を並べると、セシルは自分の部屋に戻り、荷ほどきをした。
スーツケースを開けると、表紙にやわらかな水彩で水辺の風景が描かれた本が最初に目に入り、セシルはそれを手に取った。ステファニー先生の詩にロビンが絵をつけた詩画集だ。
同郷のふたりは、深い所でつながっている。この本を開くたびにセシルはそれを感じた。ステファニー先生がロビンのことを話しているときにも、ロビンがステファニー先生のことを話しているときにも、セシルはそれを感じた。ふたりは、師弟というより、本当の親子のようだった。
セシルは目を閉じ本を抱きしめて、ふたりに呼びかけた。ここでは風が吹かないから、風に乗せて声を届けることはできなかったけれど。
「第一階層はクリアしましたよ。これからの道を、どうか照らしてください」
先生の声が聞こえたような気がした。
「あなたに良い風が吹きますように」
「そうだ。お母さんに見せてあげなきゃ」
セシルが本を抱えてダイニングへ行くと、母はヨガを行っているところだった。
セシルがテーブルに本を置いて椅子に腰かけたのを見て、母は動作を中断しようとしたが、
「続けて。私、ここで見てる」
というセシルの言葉にうなずき、また真剣な表情をして呼吸を整えた。
それは一連のポーズの流れで、見ていると、とても気持ちがよさそうだった。母のゆったりした動きと呼吸によって空気が動いて、まるでサンキャッチャーが光を集めたときのように、母のエネルギーがキラっと光るのが見えた。
同じ一連の動きを3度ほど繰り返し、最後に合掌すると、母はマットを片づけてセシルの前に座った。
「これは太陽礼拝っていうの。朝を迎えられたことを、太陽に感謝しながら行うのよ」
セシルは確信した。精霊とのつながりは絶たれていない。イシアスの居住区にいても、精霊とつながることはできるのだ。
「すごく気持ちよさそうだったね」
「そう。ほんとに気持ちいいのよ。身体がのびのびするの。動作を終えたときには、身体が軽くなって空気に溶けていきそうな気がするのよ」
ロビンが風になる方法について話してくれたのを思い出して、そんな感覚なのかな、とセシルは思った。
「ヨガと読書は似ているのよ。どちらの底にも哲学がある」
と母が言った。
「本って、それね! たくさんある!」
という興奮した母の声に、セシルは我に返った。
「うん。すごいでしょう」
と言って、セシルは詩画集を母に手渡した。
「これはね、ステファニー先生とロビンの作品なの。ステファニー先生は詩を書く人でね…。ああっ! 言い忘れてた! あのね、お兄ちゃんがノートに書き留めて大切に持ってたあのロータシアの詩は、ステファニー先生の詩だったんだよ!」
そう勢い込んで話すセシルに対して、母は申し訳なさそうに言った。
「セシルが旅立つ前に話してくれたことは、よく覚えていないんだ。ちゃんと聴いてたつもりなんだけど、聴けてなかったみたい」
「そっか。そうだよね。あのときは、何も入ってこなくなっちゃってたんだよね」
「ごめんね」
「私はね、その詩を読んで、ロータシアに行く決心をしたの」
「そうだったんだね…」
申し訳ないという表情のまま、母は恭しく詩画集のページをめくった。そして、最初の詩につけられた水彩画を眺めた。
それは、小さな家と1本の木のある風景画だった。木の下に小さな女の子が座り、花盛りの梢を見上げている。水仙なのか、辺り一面に黄色い花が咲き誇っている。
ロビンの優しい絵の雰囲気は、兄の絵に似ていた。ロビンの飄々としたキャラに似合わないような気もしたが、ロビンの芯は、この繊細な優しさなのかもしれないとセシルは思った。
母は、じっくりと絵を眺めてから、先生の詩を声に出して読んだ。
母はそっと本を閉じた。
「レイが求めた世界」
「うん」
ふたりはしばらく黙っていた。
「その本はもう擦りきれるほど読んだから、って言っても、大事に読んでるから擦りきれてはいないんだけど、お母さん、ゆっくり読んで」
セシルが言うと、母は言った。
「ありがとう。レイを想いながら読むね。あとで、レイのノートをもう一度見せてもらえる?」
それから、感嘆の声を上げたり、ため息をついたりしながら、ふたりでロータシアの家庭料理の本をめくった。
「お母さん、私ね、お料理が好きだってわかったの。自分の料理を誰かが喜んで食べてくれる幸せを、ロータシアで知ったんだ。だけど、ここではお母さんに私の腕前を見せてあげられなくて、ほんとに残念。ステファニー先生仕込みの私の養生料理、大評判だったんだから」
「それを食べられないお母さんの方が、もっと残念よ」
そして、次に手に取ったのは、ベリーズブックショップで買い求めた「シーシュポスの神話」と「森の生活」だった。
「シーシュポスの神話」は文学初心者には少し難しいかもしれない、とグレイヴィさんに言われたから、いつか読めるように目標として買ったものだった。タイトルに惹かれて手に取ったのだったが、真に重大な哲学上の問題はたった1つでそれは自殺だ、と始まるこの本は、やはり出逢うべくして出逢った本なのかもしれない。母に見せるか少し迷ったが、母はもう大丈夫だし、勝手な判断で母と本との出逢いを妨げるのはよくない、とセシルは思った。
「この2冊は、これから古典文学に親しんでいこうって決意した記念に、私が初めて本屋さんで買った本なの。オーナーのグレイヴィさんはね、毎日たくさんの本を扱ってるはずなのに、私たちが賢治の本に触れるみたいに丁寧に扱う人だったよ」
セシルは、本を袋に入れてくれたグレイヴィさんの手つきを思い出しながら、そう言った。
「リアル本屋さんで本を買うなんて、夢みたいな話ね。お母さん、若い頃にカミュの『ペスト』や『異邦人』を読んで、すごく心を打たれた。実はセシルが旅立ってすぐぐらいの時期に『シーシュポスの神話』も読んだのよ。レイが逝ってしまった訳を知りたくて。自分を責めるのを終わりにしたくて。そしてね、レイはただ自分に忠実だったんだ、ってわかったの」
「この本には、そんなことが書いてあるんだ。実はね、私、まだ読んでないの。いろんな文学作品が引合いに出されているみたいだし。もっと本を読むことに熟達してから読もうと思って」
「セシルがまだ読まないなら、貸してもらってもいいかな。手に取って、自分でページをめくって、もう一度読んでみたいの」
「もちろん、いいよ。私は『森の生活』の方を読まなきゃいけない気がする。私の次のステージは、森みたいだから」
「森? 次のステージが?」
「信じられないでしょ? これは話すと長いんだ。今度、ゆっくり話すね。私、お腹空いてきたから、パンとチーズ食べるけど、お母さんはどうする?」
「せっかくだから、少しだけ食べようかな」
セシルは、キッチンからステファニー先生のバスケットを取ってきた。残りのブール4つと立派な箱が3つ入っている。箱の中身は、ベリーヒルズ産カマンベールチーズの缶詰めだ。缶詰めのチーズは発酵が止まっているので、風味は落ちるけれど保存がきく。
セシルは、ピクニックセットのナイフでチーズを6等分に切り分け、パンとチーズを1つずつお皿に載せて、母に差し出した。
「チーズはお友だちのジャーナリスト、クリスからのお餞別。クリスはね、リリーアイランドからベリーヒルズに向かう船で知り合ったの。私より一足先にリリーアイランドに帰っちゃったから、会った回数で言ったらほんの数回なんだけど、ずうっと前から親友のような、うーん、親友というよりお姉さんかな、そんな気がして。このチーズはね、クリスがベリーヒルズ産のものを取り寄せて、私の送別会に持ってきてくれたんだ」
食事をしながら、セシルは、苺と乳製品が特産のベリーヒルズについて、母に話した。苺の段々畑と牛のいる牧草地、そこから港町と海が見渡せる。
セシルも母も、チーズをちびちびと大事に食べた。チーズというのは、ノスタルジックな香りがする。気持ちのいい塩味を残して、舌に溶けていく。
ステファニー先生のブールもこれでおしまい、と思うとセシルの胸はきゅっとした。食料はまだまだあるが、できるだけ早く食料問題に取り組まなければならない。母は
「遠慮なくセシルも栄養剤を飲んでね」
と言う。
栄養剤は国からの支給である。出国の手続きと同時にセシルへの支給は止まっている。再び支給を受けるためには、居住区に住む国民であることを証明する手続きをしなければならない。手続きは面倒だが、セシルが母の分を飲んでしまったら、母の摂取量が足りなくなってしまう。
「森の人のところへ行けば、おいしいものが食べられるよ」
またセシルの頭の中で、ロビンがニコニコしながらそう言っている。
昼食の後、セシルは自分の部屋で「森の生活」を開いた。
こうしてボリュームのある本にじっくりと向き合うのは、セシルにとって初めてのことだった。最初は読みにくかった。油断すると何の話だったかわからなくなり、何度も戻って読み返した。でも、そのうちに彼の語りに慣れてきて、セシルは本の中へと引き込まれていき、気付けば4時になっていた。
セシルは、あの神話、「眠りの村」のことを考えていた。こんな神話である。
精霊の力が弱まってしまった森へ精霊を呼び戻すために開いたコンサートで、セシルはこの神話の少女と同じ体験をし、イシアスに戻ることを決意した。そして、美術館で「眠りの村」のタペストリーに織られた水の精霊がロビンにそっくりだったのを見て、セシルは自分の使命を覚悟したのだ。ロビンは
「使命ではなく、心の願いだ」
と言ったけれども。
セシルがこの神話を思い出していたのは、「森の生活」の中に、こんな一節があったからだ。
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