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石の歌う森(第4回)~星は風にそよぐ イシアス篇~


 「森の生活」の著者であるソローは、イシアスが一極集中の道を選択する100年ほど前に、経済原理に取り憑かれ始めた社会の枠組みから離れ、森で生活することを実践、記録したアマリア人だ。
 これから森を目指すセシルにとって、ソローが森で暮らした目的を知ることは、とても興味深いことだった。
 彼が森で暮らしたのは、深く生きて生活の精髄を極めるためだった。彼は、生活でないものは生きたくない、と言う。また、死ぬときになって、自分が結局生きていなかったと思い知るのはご免だ、と言う。
「生きている実感」
セシルは呟いた。セシルがロータシアで得たその実感を、兄も求めていたのに違いない。だからロータシアにこだわっていたのだ。仮想世界での暮らしはソローの言う「生活」ではない。
 セシルもまた、生活でないものは生きたくなかった。となれば、自分も「森の生活」に飛び込む以外に道はなさそうだ、とセシルは思った。

 イシアスの森には、「森の人」と呼ばれる人々が、あちこちに小さなコミュニティを作って暮らしている。コミュニティの数がいくつあるのかはわかっていない。彼らは、イシアスが一極集中の道を選んだときに、それを拒んだ人々の子孫だ。居住区への移住を拒んだ人々は、農耕をしないことを条件として里山に残り、次第に再生し広がっていく森の中で狩猟採集の暮らしを送るようになった。
 森の人についての情報は少ない。彼らはイシアスの国民とは認められておらず、ベーシックインカムや栄養剤の支給はもちろん、いずれの社会保障も受けることができないし、参政権も持たない。そんな彼らは、居住区に暮らす一般のイシアス国民から、自然を搾取し森を瀆(けが)す自分勝手な民族というレッテルを貼られている。
 セシルの兄弟子ロビンは、セシルがステファニー先生に精霊術を習っている間、イシアスで森の人とともに暮らしていた。精霊術師は精霊の力を借りて自然に働きかけるが、森の人の中には自然と一体化する能力を持つ者がいる。イシアスの森でロビンはその人から風になる術を学び、ロータシアに帰ってきたのである。

 セシルは、自分の長所がフットワークの軽さと持久力にあることを知っていた。思い立ったら迅速に動き、動き出したら粘り強く動き続ける。そうやって動き続けた結果、セシルは外国人の入国を厳しく制限しているロータシアのビザを取得した。もちろん、精霊術界のトップ4、風のエレメントの長であるステファニー先生の「鶴の一声」がなければ、セシルの入国も叶わなかったに違いない。

 とにかく、動かなければ始まらない。けれども、あのときとはモチベーションが違う。ロータシアの暮らしに憧れる人は多いが、森の暮らしに憧れる人は少ない。セシルだってそうだ。ロビンは「森の人は原始人じゃない」と言ったが、電気も水道もない狩猟採集生活って、そりゃ原始人に近いじゃない、とセシルは思った。それでも、セシルの背中を強く押してくれるものがある。それは「おいしいもの」だ。「森の人のところへ行けば、おいしいものが食べられる」とロビンが言ったのだった。

 おいしいもののことを考え始めたら、セシルはお腹がすいてきた。ステファニー先生のブールは終わってしまった。でも、トミーがくれた全粒粉のクラッカーが控えている。クラッカーは、チーズにもパテにも合う。今日は、ベルナールからのお餞別、スパイスカレー缶も開けようか。だけど、スパイスカレーは、お母さんの胃にはまだ早いな。セシルの思考はくるくると忙しく働いた。食べることを考えると、ワクワクする。VRでも脳に信号を送って食べ物を味わう体験はできるのに、それを考えてワクワクしたことは1度もない。

 結局、夜の食卓には、昨日開けたヤギ肉のリエット、お昼に開けたチーズ、キュウリのピクルス、そして全粒粉のクラッカーが並んだ。
「このクラッカーはトミーから。トミーはね、クロード先生ご自慢の孫なの。数学の天才なんだよ。やさしくて、よく気がついて、お料理も上手。私が朝の瞑想から帰ると、いつもカフェオレを淹れてくれた。トミーの奥さんになる人は幸せだと思う」
「あら、セシル。そのトミーって子のこと、好きだったの?」
「えっ! トミーはまだ中学生だよ。好きって、そりゃあ好きだけど、そういう意味じゃないよ」
セシルは慌てて否定したが、
「あら、4、5歳の年齢差なんて、結婚には何の障害にもならないじゃない」
と母は笑った。

 突然、セシルが真面目な顔をして、
「お母さん、私、近いうちに、森へ行ってこようと思うの」
と言った。そしてセシルは、ベリーヒルズでロビンと交わした会話について話し始めた。勉強の一環として手伝っていた小学校で、精霊を呼び戻すためのコンサートが開かれた。その前日に、ロビンがセシルの前に現れ、森の人のことを話したのだ。
「イシアスには、お兄ちゃんのように満たされない想いを抱えて生きている人たちが、本当はたくさんいる。虚構で作り上げられたこの社会に適応できない人たち。その人たちが、虚無感を誤魔化しながら生きるんじゃなくて、自分は生きているんだって胸を張って言えるようになれたらいいな、と私は思う。ロビンは言ったの。それは私の願いだし、お母さんの願いでもあるんじゃないかな、って」
 背筋を伸ばして真剣に聞いていた母が
「私の願い…」
とつぶやくと、うなづいてセシルは続けた。
「それを実現するヒントをくれるのは森の人だ、ってロビンは言ってた。私もね、『森の生活』を読んでいてそうかもしれないと思った。だから行くの、森へ」
 セシルの話を聞いて、母が静かに話し始めた。
「セシルがいない間に、レブリー内にある『自殺を望む者たちの部屋』に入ったことがあるの。気持ちがさらに沈むだけだとわかっていたけど、彼らがどんな想いを抱えているのか知りたかった。彼らが発する言葉には、孤独や虚無感がにじんでた。生きる意味なんてないって。だから終わらせたいんだって。ほとんどの人が、治療を受けていないようだった。レブリーのクリニックに行けば、食事を楽しむのと同じように、信号を送って、脳内快楽ホルモンの分泌を高める治療をしてくれる。そうすれば楽になるのに。レイも…」
セシルが遮った。
「でもあの治療は、脳のどこかに必ず副作用を及ぼすって言われてるよね。薬品よりも依存性が高いみたいだし。お兄ちゃんは、脳への信号で食事を楽しむことすらしようとしなかったでしょう? 自分の脳が何かの干渉を受けることを嫌がってた」
「そうだね。あの部屋に来てた人たちも、みんな、そうなのかもしれないね」
「きっとそうだよ。私はね、ロータシアに行く前の私はね、この社会に適応できてた。生きにくくもなんともなかった。でも、ロータシアの生き生きとした暮らしを知ってしまったから、もう無理なの。それは、こんな世界に生きていることに意味を感じないからじゃない。私が生きるのに必要なのは、意味じゃなくて実感なんだ。自分は生きていると感じられること。だから、まずは自分のために、とにかく森へ行ってみる。千里の道も一歩から、だもん」
 思い立ったらすぐに動くセシルを、子どもの頃から、母はいつも褒めて応援してくれた。
「わかった。そうね。私が今送っているヨガと読書三昧の日々だって、意味を求めてたら続けられないかもしれない。私はヨガを通して、自分が生きていることを感じられるようになったんだと思う。セシル、私にも手伝えることが見つかったら、すぐに知らせてね」
「うん、そうする。ここからそんなに遠くないところに、ロビンの暮らしたコミュニティがあるんだ。スーワって呼ばれてるらしいんだけど、だいたいの位置はわかってるの。見てよ、この地図。ロビンが描いてくれたんだけど、海賊の宝地図みたいでしょ。こんな地図だけど、ナビゲーションシステムに読み込ませれば、きっとこの✕印近辺には連れていってもらえるはずだもんね。そしたら、上空から風に載せてメッセージを送るつもり。ロビンの師匠、カイトさんにね」

 気づくと、母の表情から輝きが失われているように見えた。今朝、帰ってきてくれてうれしいと子どものような笑顔で母は言ってくれた。その母を自分はまた置いて行こうとしている。セシルの胸に締めつけられるような想いが拡がった。
「帰ってきたばかりなのにごめんなさい」
セシルはうつむいて言った。それ以外の言葉が出てこない。
 しょんぼりするセシルに、母は穏やかな笑顔を向けて言った。
「今朝も言ったでしょ。セシルが帰ってこなかったとしても、私は大丈夫だったんだって。それより、ロータシアから長い距離を乗って帰ってきたんだから、出発する前に車は点検に出しなさいね。ほら、貴重な資源ゴミが出たじゃない。それも持って行ったらいいよ」
 高性能のソーラーシステムにより、フライングカーの燃料はほとんど必要がなくなっているが、アルミやスチールをサービスステーションに持って行けば燃料に変えてくれるので、それを補助エネルギーとして使うことができる。
「それで、いつ発つの?」
「できるだけ早く発とうと思うけど、まずは車を点検に出すね」

 その晩、お風呂に浸かったセシルは驚いた。水の精霊たちに柔らかく包まれ、そのままお湯に溶けていきそうな気持ちになった。これは朝、母が言っていた感覚? ヨガをしたあとは身体が軽くなって空気に溶けていきそうになる、と母は言った。セシルは今、そんな気持ちだった。
 ロータシアにいたときは、いつもすぐそばにあるのが当たり前だった精霊の存在が、ここでは当たり前でないだけに、その存在に触れたとき、存在の受け手はより強く影響を受けるのかもしれない。そして、精霊たちも人とのつながりを求めているようにセシルは感じた。
 翌朝、目覚めてすぐ白湯を喉に通したときにも、同じ感覚があった。精霊たちは私たちに手を差し伸べてくれている、セシルはそう思った。

 兄の部屋で、集まる光を見つめながら静かに座ったあと、セシルは車を点検に出すためにサービスステーションへ向かった。窓を開け、思う存分、風を楽しんだ。
 店頭にいたAIロボットに点検を申し込み、資源ゴミを渡して
「車はいつ使えるようになりますか?」
とセシルが尋ねると、
「修理箇所がなければ、明日お渡しできます。修理すべき箇所が見つかった場合には、さらに1日ほどかかります。結果は今日のうちにご連絡いたします」
という答えが返ってきた。
 サービスステーションも無人だったので、セシルはがっかりした。お客さんでもいいから誰かと会いたかった。ロータシアで日々たくさんの人と直接触れ合ってきたセシルは、どうにも人恋しくなってきてしまっていたのだ。
 イシアスでは、というより、この世界の大多数の人々は労働をしていない。仕事をしているのは、国の政治やシステムを動かしている人たちと少数の大企業に関わる人たちだけだ。彼ら富裕層と庶民の格差はあまりにも大きいが、国民の健康で文化的な最低限度の生活は確実に保障されている。保障されているというより、強制されていると言っていい。国は常にレブリーを通じて国民を見守っていて、健康で文化的な最低限度の生活ができていないとみなされた人には、申請などしなくても必要なサービスが提供される。

 玄関を開けると、男性用の黒い革靴が目に入った。それが誰の靴だか、セシルにはすぐわかった。自分の靴を脱ぎ棄て体当たりするようにセシルがダイニングの扉を開けると、突然の大きな音に、父が立ち上がった。セシルは入口に立ち尽くし、父の姿をとらえた瞳から涙があふれた。
 父はゆっくりとセシルの方へ歩いてきて、大きな身体でセシルを包んでくれた。
「ふたりを置いて行ったこと、許してほしい」
 セシルの身体から力が抜けていった。兄の死以来、ずっと自分がしっかりしなければいけないと思っていた。その緊張感からようやく解放されたような気がした。
 セシルは父を責める気持ちなど少しもなかった。ロータシアへの入国がもっと早くに許されていれば、自分がふたりを置いて出ていくことになったはずだ。それよりも何よりも、今、こうして家族がまた一緒になれたことが、うれしくてたまらなかった。

 3人は、クラッカー、鴨肉のパテ、チーズ、パプリカのピクルスの並んだ食卓についた。
「ダイニングテーブルってのは、本来、こうやって使うモノだったんだよな」
父がしみじみと言った。
「お父さん、ゆっくり食べなきゃ駄目だよ。よく噛んで、少しずつね」
とセシルが言うと、
「ゆっくり少しずつ食べたけど、私は胃が痛くなったから、気をつけて」
と母も念を押した。
「食べるなんてアクションは毎日VRで経験してるんだから、言われなくてもがっついたりしないよ。じゃ、いただきます」
そう言って、父はパテの載ったクラッカーを口へ運んだ。
 父はゆっくりと丁寧に顎を動かし、食べ物を噛んだ。VRでも、噛むという動作とともに味の信号が脳に送られ、その食感と味を感知できるようになっている。でも、やはり違う。味が舌に染み渡っていくスピード、鼻からではなく口から鼻へと通っていく香り、ほんのりと残る後味、そういう繊細なニュアンスをVRは再現できていないのだ。
 セシルと母は、父が何か感想を言うだろうと待っていたのだが、父は無言でもう1枚クラッカーを取りチーズを載せ口に入れた。目を閉じ、また時間をかけて咀嚼する。そして、大きなため息をついて、今度はピクルスに手を伸ばした。セシルと母は目を見合わせて笑い、自分たちも食べ始めた。
 相変わらず黙々と味わっている父に、セシルがいたずらっぽく声をかける。
「ロータシアの家族の食卓では、楽しい会話もご馳走のうちなの」
 セシルの声が耳に届き、父ははっと我に返って苦笑いした。
「つい夢中になってしまった」
「食べ過ぎに注意してね」
母がクスクス笑いながら言うと
「はい」
父は恥ずかしそうに母に頭を下げた。それから至福の表情を浮かべて言った。
「これで書ける。俺は、食べることを書けるようになったよ。ありがとう、セシル」
 父の目は潤んでいるようだった。AI小説が主流になって、セシルが物心つく前に書くのをやめてしまった父。書けることをこんなに喜んでいる父がよく書かずにいられたな、とセシルは思った。そして、今日父が来るとわかっていたら、昨日のうちに父の新しい作品を読んでおいたのに、とうらめしく母を見た。母は無邪気にニコニコしている。
「お父さん、今、歴史小説を書いてるんだってね」
とセシルが言うと
「ああ、そうなんだ。完成したら、セシルも読んでくれ」
と父は言う。
「完成したら?」
「セシルには、俺が自分で納得できたものを読んでほしい。今日、俺は本当に食べるっていう経験をした。家族で食卓を囲むっていう経験も。大切な人に触れられるっていうことの素晴らしさも改めて味わった。そして、実際にそこで暮らしてきたセシルからロータシアの話を聴ける。作品は最初から書き直す」
 それから父は、ロータシアでの生活についてセシルに根掘り葉掘り訊いた。母が途中で紅茶を淹れ、ベリーヒルズの瓦屋根を模した青いチョコレートを出してくれた。そのとき、母のまとうエネルギーの色がとても明るくなっていることに、セシルは気がついた。








 
 
 
 

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