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石の歌う森(第5回)~星は風にそよぐ イシアス篇~

「で、セシルは旨いものを求めて、森に入るってわけだな」
ロータシアで過ごした2年半のことをひと通り話し終え、目下直面している問題を語ったセシルに父が言った。
「まあ、そうとも言えるね」
そうセシルが応じると、父と母は顔を見合わせて笑った。
「あっ、そうだ!」
セシルが言った。
「ロータシアで書いた日記があるよ。ステファニー先生に言われて、リリーアイランドを出てから書き始めたの。コンサートの頃までしか書いてないんだけど」
「えっ! それ読みたい!」
父が興奮して立ち上がったので、今度はセシルと母が顔を見合わせて笑った。

「森の人か。俺も取材についていきたいなあ」
「はいはい。だけど、それは私と森の人たちとの間に信頼関係ができてから。それまで待ってて」
すると母が慌てて言う。
「そのときは私も連れていってね」
「はい、約束します」
 昨日は母を置いていくという罪悪感に苛まれながら話した同じ話題を、父がいれば、こんなにたわいなく笑いながら話すことができる。セシルは父に感謝した。

「長居させてもらった。貴重なものをいろいろご馳走さま。そろそろ帰るよ」
すっかり日の落ちた窓の外に目をやり、父が立ち上がった。
「え!? 帰る?」
セシルは驚いて目を丸くした。
「お父さん、帰ってきたんじゃないの?」
 すると父はセシルの頭に優しく手を載せて言った。
「俺は今、修行中。どうしてもひとりでいなきゃならない」
 そうだ、父には父の事情がある。自分がまた出ていくからといって、父に残れと無理を言うわけにはいかない。でも、今日の母の輝くようなエネルギーを見ていたら、セシルはやはりいたたまれなかった。
「ねえ、でもときどきはお母さんに会いに来るよね」
「いや。作品を書き上げるまでは会わない」
「そんな…。お父さん、私たちはさ、自分の生の期限がいつまでか知ってるロータシアの人たちとは違うんだよ。明日が来るかどうかなんてわからない。お父さん、さっき話してたよね。大切な人と触れ合える喜びのこと。それを疎かにしたら後悔するよ。ねえ、お母さんも何とか言って」
 このやり取りを黙って聞いていた母が口を開いた。
「今日は来てくれてありがとう。また会えたらもちろんうれしいけど、邪魔にはなりたくないの。サトシにとって、作品がどれだけ大切なものかわかってるから。ふたりには自由に動いてほしい。それが私にとって一番なの」
 父は母の瞳の奥をのぞきこんだ。父を見つめ返す母のまっすぐな瞳は、無理して言っているのではないことを証明していた。それでも父は言った。
「会いに来るよ。セシルの言う通りだ。会いたいのに、しかも会えるのに会わないなんて、もったいないよな。さすがだ、セシル。俺の娘は人生経験の厚みが違う。教えてくれてありがとう」
 母の表情がぱっと明るくなった。
「それに。エマは最高の読者だ。エマの書いてくれるコメントで、これまでもいろいろとヒントをもらったんだ。これからは会いに来て、直接感想を聞くよ」

 セシルと母は、玄関まで父を見送りに出た。あのピカピカの革靴が目に入り、セシルは言った。
「この靴を見て、お父さんが来てるってすぐわかったよ。でもおかしいね。こんな革靴、お父さんが履いてるのなんて見たことないのに」
「人が訪ねてくるなんてこと、ない世の中だからな、ロータシアと違って」
「そっか。革靴もそうだけど、お父さんの服! ずいぶんお洒落してきたんだね。私、お父さんのスウェット姿しか記憶にないんだけど」
「俺はくつろぎ重視だからな。だけど、今日は3年振りに愛する妻と娘に会うんだ、って気合い入れてきたんだ。スウェットじゃ、緊張感なさすぎるだろ」
「とっても似合ってる」
母が恥ずかしそうにそう言うと、父はそっと母を抱きしめた。
 そんな父母を見てセシルは、まるで少女漫画のようだな、と微笑んだ。父の前で母は、終始顔をほんのり赤くし、まとうエネルギーは明るく揺れている。共に暮らすのが当たり前で、お互いが空気のような存在だったあの頃、「父」や「母」という役割を負っていたあの頃とは、あきらかに違う。家族が離れて暮らすことはいいことなのかもしれない、とセシルは思った。
「日記、ありがとう。楽しみだ」
そう言って父が、今度はセシルをぎゅっと抱き締めた。
「気をつけて行ってこい。取材の約束、忘れるなよ」
 ドアが閉まってふたりになると、セシルは母に言った。
「お母さん、恋する女の子みたいよ」
すると母が言った。
「だって、通ってきてもらえるなんて、ときめくじゃない。源氏物語みたいで」

 胸がいっぱいで食事が入りそうにないから夜は錠剤にする、と母が言うので、セシルは自分だけならと、母の胃には刺激が強いであろうスパイスカレー缶を開けた。これは、ホームステイ先のお父さん、ベルナールからのお餞別で、スパイスの「マイベストブレンド」を長年に渡り追求してきた彼が厳選してくれたスパイスカレー缶だ。クラッカーはカレーに浸してもまたおいしい。
 夕食のテーブルでセシルは母に言った。
「お父さんも訪ねてくれることだし、私、今勉強している『森の生活』を読み終わったら、出かけようと思う」
母は笑顔でうなづいた。
「迎えに来てくれるのを楽しみに待ってるから」

 ソローの「森の生活」には「読書」という章がある。セシルはベッドに入ると「森の生活」を開き、その章を読み始めた。ソローは古典を読むことを賛美する。かのアレキサンダー大王も「イリアス」を宝石箱に入れて肌身離さず持っていたという。母が箱に入れて大切にしまってある童話集のことが思い浮かび、多くの古典文学に親しんできた母のことを、なんだか誇らしく思った。
 「読書」の章を読んだら寝ようと思っていたのに、次の章が気になって少しだけ読み進めると、本にばかり閉じこもっていてはだめだ、とソローが言い出した。ソローはセシルに問う。お前がなりたいのは単なる本好きの勉強家か、それとも真(まこと)が見える者か、と。そしてこう言うのだ。まずは自分の運命を読み取り、目の前にあるものを直視して、未来へ踏み出せ、と。
 セシルは本を閉じ、心を決めた。明日、旅立とう。

 翌朝、兄の部屋で静かに座ったあと、セシルは風を捕まえるために、マンションを出た。森の人のコミュニティに突然押し掛けるのは迷惑じゃないか、と思い始めたのだ。こんな当日になってからじゃなく、もっと早くにメッセージを送っておくべきだった。せめてカイトさんに一言伝えておこう。セシルはそう思った。
「カイトさん、私はロータシアの精霊術師、ロビンの知り合い、セシルです。森の人のお知恵を借りたくて、今日の夕方頃、そちらに伺うつもりです。突然で本当にごめんなさい。コミュニティに近づきましたら、またメッセージを送ります。どうかご案内をお願いします」
残暑の残る生暖かい風に、歌うようにやさしく、セシルは声を乗せた。

 部屋に戻ってモバイルをチェックすると、サービスステーションから連絡が来ていた。不具合はなく、いくつか軽い劣化が見られたものを念のため交換してくれたということだった。いつでも取りに来ていいそうだ。午前中に荷造りを済ませれば、午後には出発できる。
 セシルは、荷解きをして引き出しにしまったばかりの着替えを少し、読みかけの「森の生活」、ロビンの描いてくれた地図をバックパックに詰めた。キッチンの戸棚からは、クラッカーを1箱、パテとピクルスを1瓶ずつ、チーズとカレーの缶詰を1つずつ。それから、お湯を沸かして紅茶を淹れると、保温ボトルに注いだ。
 荷造りをするセシルを見てすべてを察した母が、「これもね」と言って青いチョコレートの箱を差し出す。
「お母さん、できるだけ早く迎えに来るからね。存在全部で体験しなければわからないことが、きっといっぱいあるんだと思う」
 セシルは箱を受け取り、そこからチョコレートを何枚か取り出してピクニックセットのお皿に並べてから、バックパックに入れた。
「お母さんとゆっくりランチを楽しんで、それから、出かけるよ」
 ふたりは、前日の父の訪問を話題におしゃべりに花を咲かせ、たくさん笑った。

 パーキングまで見送りに来てくれた母にセシルは言った。
「キッチンにある食べ物は遠慮なく食べてね。紅茶も。お父さんが来たときに出してあげたらいいよ。お父さん、喜ぶから」
 代車でサービスステーションまで行き、車を受け取ると、モバイルでスキャンした地図をナビゲーションシステムにダウンロードした。この地図は大まかにしか描かれていないが、森の人が持っていた昔の地図をロビンが写し取ったものなので縮尺は正確だ。コミュニティは「流れ星の湖」と呼ばれる大きな湖のほとりにある。居住区を出たら、連なる山を越えて北西の方角へ飛ぶ。ナビゲーションシステムによると、2時間弱で湖の上空に着けるという。

 居住区から離れるにつれ、精霊たちのエネルギー密度が高まる。しばらく飛ぶと、セシルはまたあの圧迫されるようなエネルギーを感じ始めた。左手遠方には、イシアスを守る霊峰、アカツキ山が鎮座している。この道中ずっとセシルを見守ってくれるはずだ。
 再び眼下に広がる森を眺めながら、セシルは、森の人についてロビンが話してくれたことを復習した。夏は木の上の家に暮らし、冬は土をかぶせた穴の家で暮らしていること。狩猟採集の生活といっても、原始的というわけではなく、居住区への移住を拒んだ150年前から進歩をやめただけで、読み書きもするし、小さな図書館すら持っていること。万物に宿る神を敬い、その神と一体になる力を持つ人もいること。その1人であるカイトさんからロビンは風になる術(すべ)を学んだこと。
 カイトさんってどんな人なのだろう、とセシルは思った。ロビンの師であり、親友でもあるカイトさん。無口な人だとロビンは言っていたが、セシルには、ロビンが無口な人と心を通わせている図をうまく想像できなかった。
 今朝送ったメッセージを、カイトさんは受け取ってくれただろうか、という心配が心をよぎる。でも、もし届いていなかったとしても、湖の上からまた送ればカイトさんの耳にすぐ届くだろう。

 セシルはバックパックに入れてきた「森の生活」を開き、少し読んで驚いた。

 実に気持ちのいい夕暮れだ。全身が一つの感覚となって、ありとあらゆる毛穴から歓喜を吸い込んでいる。ぼくは「自然」の中を、その一部と化して、異様なほど伸び伸びと歩きまわる。

注1

 まるで精霊術師の訓練だ。そして、自然の一部になって生きる、それが森の人だ。ベリーヒルズの本屋さんでこの本を選んだのは、森で暮らすステファニー先生を懐かしく想ってのことで、そのときは自分が森の人のもとへ行くなど思いもよらなかった。
 「書かれて」いたんだな、とセシルは思った。自分の人生の物語が書かれている本「レディ」を持つロータシアの人々だけではないのだ。私たちの物語も書かれている。ただ、読むことができないだけで。
 ロータスを信仰する人々は、レディに書かれていることすべてを神の恩寵として受け取っている。でも本当は、書かれていることすべてに神さまが意味を持たせているわけではない。ロビンはそう言っていた。意味があることもたまにはあるが、ほとんどは神さまの気まぐれなのだ、と。
 レディを持たない私たちは、持たないだけにかえって、意味を、大いなるものの意思を、確信する瞬間がある。シンクロニシティによって。そして安心する。この道でいいのだと。

「目的地上空まであと5分です」
というAIの音声に、セシルは我に返った。いよいよだ。なんだか緊張する。
 前方に小さな青い水盤が見えてきた。近づくにつれ湖は少しずつ色を変え、目前に迫った今は、木々を映してエメラルドに輝いている。
 セシルは操縦を手動に切り替え、木立ちの少し上辺りまで降下して、湖畔に車を静止させた。湖の周囲はびっしりと樹木に囲まれていて、とても集落があるようには見えない。
 セシルは窓を開けた。開けたとたん、苔のような匂いと騒がしいほどの蛙の声が流れ込んできた。
 セシルは湿った空気を思い切り吸い込む。ああ、この感じだ。シャインウッドの森でステファニー先生と暮らした日々が一瞬にして甦る。なんだか勇気が湧いてきた。
「よし」
セシルは背筋を伸ばして覚悟を決め、窓から顔を出して風にささやく。
「カイトさん、セシルです。流れ星の湖に着きました」

 それから何分たっただろうか。いきなり強風が窓から吹き込んできて、セシルは目をつむった。
「あなたが来ることは、ロビンから聞いていました」
 思いがけず近くから声がして、セシルは飛び上がった。助手席に男の人が座っている。
「よ、よろしくお願いします!」
セシルは深々と頭を下げた。
 セシルが顔を上げてみると、長い髪を後ろで1つに束ねたカイトさんが、柔らかな笑顔でセシルを見つめていた。
 なんてやさしい目で人を見るんだろう。セシルは胸がきゅっとした。慌てて目をそらし、
「どこへ降りたらいいでしょうか」
と尋ねた。
「草地へ。あっちです」
 カイトさんが指差す方へ向かう。しばらく飛ぶと、木々に囲まれた小さな広場のようなところが見えてきた。その広場の真上に停止し、そのまま垂直に降りる。

 カイトさんが「草地」と呼んだそこは、一面に小さな草花の咲く美しい場所だった。セシルはそんな場所に車を置かなければならないことが心苦しかった。車というものの存在が、あまりに似つかわしくなかった。自分も風になって飛んでこられたなら、どんなによかったろう。
 車を降りて、セシルはさらにショックを受けた。紫露草がタイヤの下敷きになっている。セシルは、露草の精霊の苛立ちを感じ取った。ベルベットのようにつややかに咲いている紺色の花が、このままではしおれて枯れてしまう。けれど、車を動かしたところで、別の花をつぶしてしまうだけだ。セシルは悲しい気持ちでカイトさんを見た。
 作務衣に似た軽やかなインディゴブルーの服に身を包んだカイトさんは、その場所にふさわしくとても美しかった。風の精霊が人の姿になったらまさしくこのような姿に違いない、とセシルは思った。そして、こんなに大きくて重い車などというもので移動せざるを得ない自分が、とても醜い生き物に思えた。
 泣きそうな顔でタイヤの下を見ていたセシルの様子から察したのだろう。
「露草は強い。踏まれて枯れても、根がすぐに新しい芽を生やします」
 カイトさんはそう言って歩き出した。セシルはできるだけ花を踏まないように歩いた。リンドウやコスモスに似た花も咲いている。
 森へ入っても、セシルはやはり足元を見ながら歩かなければならなかった。森歩きは慣れているはずなのに、シャインウッドよりも大樹が多いからか、よじ登るようにして越えなければならない大きな根ばかりで、とても歩きづらい。カイトさんは音をたてず、飛ぶように進む。ときどき、はっとして後ろを振り返り、セシルを待っていてくれた。
 ようやくカイトさんに追いついて、セシルが顔を上げると、そこが集落だった。


注1
「ウォールデン 森で生きる」ヘンリー・D・ソロー著 酒本雅之訳 ちくま学芸文庫 P.197より引用しています。




 

 



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