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海を飛ぶ夢

(この記事は今年2月頃に書いたものです)

映画『海を飛ぶ夢』をDVDで観始めるも、途中で頓挫。

スペインの実話が元になっていて、邦題は海を飛ぶ夢であるけれども原題と英題は共に訳すと『内なる海』となるらしい。
この映画とは宮地尚子著『傷を愛せるか』で出合った。

尊厳死や、愛や、情や、欲望や。
自分にとって重要なテーマでぜひ観たかったのだが、どうも今の自分のキャパに入るスペースが足りない。

映画一本も観られないなんて!俺よ、あぁ。と思いながら深呼吸とストレッチをして、その横になったまま考える。何について、ということもなく、何かについてとりとめもなく考える。

自分は時々「考えても仕方のないことを考えていても時間の無駄だから動いた方がいいよ」と言われる。そうだろうか?自分はそうは思わない。
この無駄な考える時間が自分には必要に違いない。少なくとも…(良くも悪くも)…行動的な人々との差を作っているのはこうして“止まる時間”の長さにあったように思う。

そうして、置いて行かれながら、留まって、後ろを見ながら考えて、時々前を向けば眩しくて目を背け、後ろに伸びた影を見てまた考える。それが自分の生きてきた道であった。選択肢はたくさんあったはずだが、少々無理をしてでも進むということが出来なかった。後ろに伸びた影の、その輪郭の、意味や性質や何かわからない何かを理解して許してやれなければ心地悪い。心地悪くたってみんな生きているのだろうが、自分はそれを許容することも我慢することも耐えがたい。 「死」というテーマは物心ついた頃から側にあったように思う。何故なのかはわからないが長く逞しく生きる大人を見ながら自分がそうなることが想像できないで、今もまた同じように想像できないでいる。現実には大人ということに成っているのだけれど、“追い付けないでいる何か”が自分を此処に留まらせる。 「海」に憧れを抱くのは山梨県民だからというだけではない、その、水平線だとか地平線だとか、ずっと遠く続いていそうな景色が好きだ。吸い込まれてしまいたいと思う。

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