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淀屋橋OLが社交ダンス講師になるまでの話

大学2年の春。

快晴の空の下、
マンションの中という有り得ない場所に
突っ込んでいった列車を前に、
私は友の死を悼んでいた。

友人たちはみな、私と同じ、19だった。

これから何にでも、
なれた春だ。

たまたま、
自分は乗らなかった時間帯の電車に乗って。

二度と帰らなくなった。

永遠に19の友を置いて、
わたしは一体、
何になればいいんだろう。

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悩んだり、
迷ったり、
立ち止まったり。

あれから、15年の月日が流れた。

いくつかの人生の選択をしたと思う。
価値観も、変わった。
いや、増えたのだと思う。
大切にしたいと思えるものが。

10代、20代の頃、価値観というものは、
変わったらなんだか恥ずかしい事のように
思っていた。

この二本の腕の中に、
ひとつしか抱けないような、
信念のようなもので。
貫いてこそカッコがつくような。

でも、人が何に価値を感じるかは自由だし、
歳を重ねて人生経験が豊かになった分、

大切にしたいと思えるものは
きっと、増えてもいいのだ。

30代の自分は、
そう思うようになった。

私は今
社交ダンサー、そして講師という人生を
生きている。

この、コロナ禍の世界。

この先どういう未来が待っているかなど、
きっと、誰にもわからない。

私の中にある、
ダンサー「以外」で培った
在りとあらゆる経験値や、価値観も
総動員しなければ乗り越えられないような
そんな予感がしている。

ダンサーとして、
この先も在りたいが為に。


だから、例えばこんな風に。

「私自身」を言葉にのせること、
静かに眺めてみることを、
この1ページから、
始めてみようと思っている。

これは、私の小さなチャレンジだ。
誰の為でも無く、自分の為に。

自分の中にある
可能性を
探し続けるために。

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忘れ得ぬ2005年4月25日に

葬儀を三軒、梯子した。
居酒屋のように言いたくない。
でもそれがわたしのリアルだ。

先生になるんだと言って教育大を選んだ、
サッカー少年だった彼も。

机を並べて受験勉強していた、
野球部だった彼も。

最期の挨拶は
遺体の損傷が激しいからと、
閉じた瞳が漸く覗く程の、
小さな窓越しにしか会えなかった。


今はもう、当時の情景は
随分薄い色彩で。

けれど、瞬く間に、私を哀しみの時間へと引き戻すものもある。

お別れの日に、
繰り返し繰り返し、流れていた歌。

なんで音楽って、あんなに
不思議な力があるんだろうね。


「じゃあ、私が決める!さんちゃんね!」

私の人生に、新たなあだ名を
生み出してくれた女の子がいた。

私は割と、色々なあだ名で呼ばれるのが
好きだ。
だって、誰かと自分との関係に、
同じなんてない。
その人の前でだけ、現れる自分がいてもいい。それは私にとって、いつも楽しい発見だ。

明るくて、面倒見が良くて。
手足の長い、色白美人。

弟の柔道部の先輩を、やってくれていたことなんかを思い出す。

ガラスの棺越しに、
埋もれる程の花に囲まれて

唇に紅を引き
眠るように美しかった、
最期の思い出。


お気に入りの曲だったんだってさ。

熱が出たりすると 気付くんだ
僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると 解るんだ
今まで呼吸をしていた事                                        

BUMP OF CHICKENの、
supernovaという曲を、
私はその時まで知らなかった。

とても人気だったらしい。
今も昔も、流行りに疎いのだ。

あれからもう
幾度も巡って来た4月25日は、
いつも私の中で
同じメロディが流れている。

君の存在だって 何度も確かめはするけど
本当の大事さは 居なくなってから知るんだ


ねえ、
世の中には星の数程、歌があるのに


君を忘れた後で 思い出すんだ
君との歴史を持っていた事
君を失くした後で 見つけ出すんだ
君との出会いがあった事

その曲じゃなくてもいいんじゃない?


毎回泣けてしまうよ。


ふくちゃんはさ、
大人になったら何になりたかった?

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揺れる電車の中で

プラットホームに佇み、電車を待つ。
この一歩を踏み出さなければ、
大学に辿り着かない。

大学への通学は、電車に揺られ片道2時間。
結構、いや、かなり遠い。

事故現場横をすり抜けてゆくその路。
私は通学路が、嫌いになった。

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就職活動を目前にした、大学3年生。
電車に揺られていた、いつものある日。

目に飛び込んできた
車内の吊り広告の文字から、
目が離せなくなった。

保険には
ダイヤモンドの輝きもなければ、
パソコンの便利さもありません。
けれど目に見えぬこの商品には、
人間の血が通っています。

告別式、快晴の空の下で。

人間の未来への
切ない望みがこめられています。

あんなにも

無力感に打ち拉がれた日は無かった。

愛情を
お金であがなうことはできません。
けれどお金に、
愛情をこめることはできます、
生命をふきこむことはできます。


ああ、
わたしは


もし、愛する人のために、
お金が使われるなら


保険に関わる仕事がしてみたい。


ダンス、もうしないの?

大学生活が始まった頃、
何か全く新しいことを、
それも大学でしか、出来なさそうな事を
探していた。

ラクロスや、ヨットにも乗ってみたが、
社交ダンスを始めた。
正確には、競技ダンスだ。
試合もあって、人と競う。

特に、音感があるわけでもなく。
ダンスなんて、今までほとんど無縁の人生。
でも、だからこそ、
全く見たことのない自分に会えそう、なんて
そんな風に思ったのだ。

4年間、無我夢中で打ち込んだ。

社交ダンスの経験者なんてほぼいないから、
みんな一斉に大学から
よーいどん、な筈なのに。

友人がみな上手く見えて
比べてばかりの自分は
向いていないように思ってもいた。

よく笑ったし、よく泣いた。

1人では完結しない、
2人でしか完成しないペアダンスは
楽しかったし、苦しかった。

それでも振り返ればあっという間の、
二度と戻らない
宝物のような4年間の終わりに、
5つ上の先輩から電話がかかってきた。

社交ダンスで生きている、
卒部後プロになった先輩だ。

競技会に出場し、ショーを行い、
ダンスを教えて、生計を立てている。

「もう、ダンスしないの?」

同僚にパートナーを探しているプロが、いるんだけどさ。

晴れて、行きたかった保険会社に
就職が決まっていた。

もうすぐ社会人、
大学最後の冬のこと。

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私の中の、間違いに気が付いた日

私、社会人になるんですけど
保険の仕事、全力でやりたいんですけど
それでもいいですか?

そうやって、先輩に引き合わせてもらい、
出会ったプロの先生は、私より6つ年上の
男の人だった。

あまり口数が多いほうではなく。
なんで、ダンスのプロになったんですか
と聞くと、
「やりたい事を、やれずに死にたくないから」
と言った。

とても尊敬の出来る人だった。

まさか自分自身にプロになれるような
ダンスの才能があると
思っていた訳じゃない。

ただ、努力は好きだ。

踊る事が、好きだ。

何かしらの能力を求められれば、
自分の持てる全てで返さなければと
思っていた。

バカみたいに生真面目な所があったと思う。
いや、期待されてガッカリされるのが、
極端に怖かったのだ。

長い間、人からの評価で、
自分の価値が決まってしまうような
そんな気がしていたから。

昼間は淀屋橋のビルで、
ひたすら診断書を前に
支払いの事務に明け暮れた。
アンダーライターという査定業務だ。

夜はダンスの競技会に向けて、
遅くまで踊り込んでいた。
プロの中で戦うのだと思えば、
練習日は、週1が週2となり、3となり、
気付けば日課となっていった。

二足の草鞋を履く、絵に描いたような生活。

実家の周りに何もなく、何かと便利だろうと
卒業と同時に取った免許は、
社会人になっても活躍の場を見出す間も無く。

家はただ、寝に帰るだけの場所になった。


そうして社会人4年目、
新しい部署で、いつの間にかデスクの上に、
異動になる先輩方3人分の引き継ぎ資料が
山となっていた頃。

C級からA級へ昇級していった競技会、
素晴らしいプロダンサーが
凌ぎを削るフロアの上で、
ダンサーとして相応しいのか自問自答している自分に気付いた時に。

緊張の糸が切れてしまったように、
身体と頭が、動いてくれなくなった。

終わりの見えない仕事に頭がいっぱいになり、練習に行く気力も湧かず、なかなか寝付けなかった。

やる事は山積みなのに何も手につかず、
迷惑をかけている周りに
申し訳なさが募るばかりで。

練習にも行けずに帰宅する日が続き、
寝られもしないのに、ぼおっと天井を見ながら仰向けになっていた。


静かだった。

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静か過ぎて、ふいに
気が付いた。

なんだか、
いつも自分を見張っているような
湧き上がっては消える
自分自身の、心の声に。

精一杯やれているか。
自分の能力は足りているのか。

懸命に生きているか

生きられなかった、ひともいるのに

あぁ、
私は心の何処かで

無意識に
誰かの分まで、と
思っていなかなったか。自分勝手に。

誰かになどなれない。
当たり前だ。

人は、誰にも取って代われない。

だから
かけがえが無いのだ。

だから
なくした時にはつらいのだ。



あぁそうか

だから

自分だって
かけがえのない一人の人間なんだな、と。

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自分自身を生きるということ

それから程なくして

保険の仕事を辞めた。

結婚をした。

先輩が紹介してくれたその日から、
ずっとそばで支え続けてくれた
ダンスパートナーと。

健やかなる時も、病める時もなんて、
神さまの前でマジメな顔して誓ったけれど、
結婚する前から
とっくに苦楽を共にして生きていた。
戦友で、同志で、かけがえのない私の相方だ。

感謝しかないと、常々思っている。
声を大にして言いたい。
隣を共に歩いてくれて、本当にありがとうと。

意識して、
自分を大切にしようと、思うようになった。

なんだかダラけるようで、
甘やかすようで、
悪い事のように思っていた過去の自分より。

なんと。
ささやかにも
出来るようになった事が増えた。

落ち込んでいる日の自分を、
許せるようになった。

頼まれゴトを断ることが、
出来るようになった。

小さくとも新しい一歩を踏み出すことが増え、YouTubeなんかを、始める勇気が持てた。


誰かに褒められたから、
私にはこういう価値があるではなくて。

誰かに貶されたから、
私はここがダメなのではなくて。

他人任せにしないでいよう。

自分はどんな人間か、
自分で見つめる努力をし続けよう。


真っ白い紙の上に
自分で、自分の輪郭を描いていく。


カップルを組んでおよそ12年。
一カ月弱と期間を決め
武者修行に飛び出した海外で、職業欄に

Dancerと書いた。

あの瞬間を
これからも忘れないだろう。


私は今
自分で、自分の人生を
生きている。

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