倫理に則ることを選ぶ


倫理にまつわる「なぜ」はたくさんある。

「なぜ人を殺してはいけないのか。」
「なぜゴミを道端に捨ててはいけないのか。」
「なぜ環境破壊をしてはいけないのか。」

それに対して、色々な答えが用意されている。

「人が悲しむから。」
「自分がやられたら嫌なことだから。」
「自分が痛い目に合うから。」

だが、それではきっと腑に落ちない人がいる。

なぜなら、
「なぜ人を悲しませたらいけないのか」
「なぜ自分がされて嫌な事を人にしてはいけないのか」
「なぜ痛い目に合ってはいけないのか」
といった問いに答えられていないからだ。

たとえば、あと数十億年すれば太陽の寿命にともない地球上の生物は滅んでしまうのだし、どうせ最後はみんな滅ぶんだから何したっていい、とも言えなくはない。

ただし、このようなマクロな見方・相対化はあまり良くない。なぜなら、私たち一人一人は億年スケールではなく数十~百年スケールで生きているからだ。

多くの人が人を殺したりしない理由はそれだけではない。

「しない」のではなく「できないようになっている」。最初からある程度そうなっていたり、社会を生きていく中でできないようになっていったりするのだ。

にもかかわらず、「なぜ人を殺してはいけないのか」等に疑問を抱くようになった人がいるということは、その事に関してはその人を取り囲んできた社会の負けということだ。(先天的な要素が強ければその限りではない?)

本人の意志「だけ」でそういった倫理観を育むのは不可能だ。だから、「社会の」負けだと表現する。

それでは、個人の意志は無力なのだろうか?

いや、そんなことはないはずだ。社会の影響はとてつもなく大きいけれど、それでも、意志を発揮できる余地は必ず残されている。

倫理というルールに則ってこの世を生きる事を「選ぶ」ことができる。どの倫理に則るかも「選べる」。ほんの1mmの余地かもしれないけれど、それでも。
理由などなくても、人を殺さず、ゴミを道端に捨てず、地球に配慮する、そういう人間になることを「選ぶ」ことができる。

だから、倫理を守るべきか、なぜ守らなくてはいけないのかが分からなくなったら、「自分はどう生きたいのか」「どういう人間でいたいのか」とじっくり問うてみてほしい。「選ぶ」余地がそこにはまだあるはず。


最終更新:2020/4

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