描写⑤文章の”はやさ”
ありとあらゆるものには“はやさ”がある。止まっているものも広義の“はやさ”が働いている。例えば、布団には品質が低下する“はやさ”があるし、人を温める“はやさ”もある。
文章にも“はやさ”がある。村上春樹の文章はゆっくりで、東野圭吾の文章ははやい。この場合における文章における“はやさ”は物語の展開の“はやさ”である。
これとは別に、文章は読み手の存在を前提としているので、読み手の読む“はやさ”も文章における“はやさ”の一要素として挙げられるだろう。読点が、多い文章は、当然、ゆっくり、な、文章になる。また一人称視点の文章の方が三人称視点の文章よりはやいのではないか。それは、一人称視点は物事を俯瞰して捉えることができないために、視点の移り変わりが少ないためである。三人称視点では場面描写→心情描写→人間関係描写、のように絶え間なく視点が移り変わるので、情報を処理するのに時間がかかる。
また、視点と隣接する問題かもしれないが、接続詞のない文章の方がはやいのではないか。
例えば、三人称視点で接続詞を用いた「彼女は走った。しかしバスの出発に間に合わなかった。したがって彼女は定刻までに出社することが叶わなかった。だから彼女は現在上司に叱られている。」に対して一人称視点で接続詞を省いた「私は走った。バスは出発した。定刻までに出発することができなかった。現在私は上司に怒られている。」の方が読者はすぐに読めるのではないか。もちろん、接続詞を省いた分文字数が少ないというのは当然にある。しかし、具体的に明示しなくても文章の論理的関係性が判然としているからこそ流暢に読めるのであり、二つの文章は同様の事実を読者に伝えでいる。したがって、同じ情報を短期間で処理できるという意味で後者の一人称接続詞省略型の文章の方が“はやい”のである。
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