さめの脳内手帳。忍耐弱くて続かなくて飽きっぽいので気の向いた時にちんたら書いてます。

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そんなふうにしてこの世界を我が物にしてきた

そういえば4ヶ月ほど前、太陽の塔の中へはじめて入りました。 そこで感じたことがすべて色褪せてしまわないうちに、ここに清書と再考のつもりでまとめなおしてみることにします。 文明と自然この建造物というか作品というかなんとも定義の曖昧なモニュメントは、岡本太郎氏が私たち人間に、自然の脅威や絶対性を見せつけるということを目的に造ったのだと私は解釈しています。 そもそも岡本太郎氏の芸術の根底にある精神性は、『自然×民俗学×キュビズム』とめちゃくちゃざっくり言ってこんな感じだと私は

    • 大晦日のメモ②後半(年が明けてしまったので元旦のメモ)

      明けましたね、みなさま本年もよろしくお願いします。 煙草を吸って、お笑いを見て、一息ついていましたが 後半の執筆をします。 先の投稿では、私のお気に入り帳と母についてを綴った。 だがどうだろう、幼い子供なんて、親が全てだ。己のもつ世界が非常に限られているからこそ、相対的に家族との世界観は大きなものになる。だから親の作り出した規律に従うことを最優先にして生きてしまう。 とくに私のケースのように、接触回数やその質でかなりの距離の近さをつくりだされている場合は、完全に精神性すら

      • 大晦日のメモ①前半

        1日1本書くつもりだなんていいながら、プライベートで色々あり、あまりに傷ついていて出力することが全くできていなかった。 こんなことがあると私は創作が魂の根底にある人間ではなくて、全ての環境が整ってはじめて創作に手をつけられるというような類の人間だと、叩きつけられる。 つくらずにはいられない、そんな人には憧れを通り越した羨望があり、もはや卑屈にすらなっている。 でもそれもいい。醜くなんかない。卑屈になれるのは、私の魂がありのままな証拠だ。 そんな私だが、今年を振り返ろうか

        • Op.9-1

          人は私を、無駄に退廃的だと笑うだろうか。 酔いしれた感傷だと、どれほどの人がおもしろおかしく消費するだろうか。 だとすれば、だれかを"消費"することは、どれほど乏しいことだろうと私は思う。 主人公をやりたいだけだろうと、まだ若いねと言うだろうか。 だとすれば、若さを捨てることは、どれほど恐ろしいことだろうと私は思う。 私は人間をやるのははじめてだから、そううまくはできない。 最近では、それをとくに強く感じる。 言葉はつくづくそれを助けたりはしないし、それでも、言葉に頼って生

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        そんなふうにしてこの世界を我が物にしてきた

          改行

          もう冬か。 さっき大阪梅田駅に、サンタクロースが歩いていた。 とってつけたような、一目で贋物だと気がつくような見てくれのサンタクロースが。 こわばった微笑みを配りながら。 それでやっと、いまの季節が冬だということに気がつく。 四季が豊かなはずのこの極東の国に生きながら、人と人とシステムと構造に止めどなくおしながされ、ついていけるはずもない。 単純でいたいが、間に合わない。 ふとそんなことを考えるうちに、私はある重大なことに気がつきはじめる。 彼は通りすぎるカップルに

          悩める殿方 -過去、というアイデンティティ-

          ところで最近、ナンセンスな殿方が多い。 男とか女とか、主語を大きく括って語るのが憚られる場合があることは重々承知なのだが、あえて『ナンセンスな殿方』と男性のみを指して言いたい。 私が過去に恋愛の相手として対峙してきたのは、皆男性だからである。 例えばナンセンスな殿くん①の話でいうと、未だに私の話を吹聴するらしい。種類は様々で、悪口であったり、私が悪人という前提のもと、あくまで彼は善人の顔をして、カギカッコツキの忠告を周囲へ施すような素振りであったり、私とどのような関係性を

          悩める殿方 -過去、というアイデンティティ-

          新古今愛憎アンソロジー

          なにかと理由をつけて散々サボってしまった車校の埋め合わせをするために、キャンセル待ち乗車を図る朝。 早朝はスクールのバスがないから、いつもみたいに下高井戸駅から明大前へ出て、下北沢で乗り換える。 ICカードの残高が足りずに改札で足止めをくらった。チャージをしようと財布を開いたけど、見開きすぐにあるカード入れのスペースは、がらんどうな印象だ。 「ああ」と声に出して呟いて、「そうか、もう学生証がないんだな」の部分は心で呟く。 ここまで書いたところで確か誰かに話しかけられて、一度

          新古今愛憎アンソロジー

          ドライブのお誘い

          ドライブにいこうよって言ってくれた人がいた。まあ私には門限があるので、あいにくいけなかったんだけど。 でもわたしはドライブが好きだ。 車のスピードに任せて、すべてを置き去りにしていける感覚がある。 だからなにかをしょいこみすぎているときにはドライブは最良の薬だ。 誘いにのって今ごろ首都高を飛ばしてもらえてればよかった。 それに、走る車の中から都市を感じることで、自分の小ささを思い知る。 夜走るほうが好きだけど、それは通り過ぎる街並みのビルに灯りがついているからだと思う

          ドライブのお誘い

          リュックひとつで海外行くなら

          タイトルを『バックパッカーするなら』とかにしなかったのは、この2週間を振り返って、私がしたことは「旅」というより「旅行」だなーと感じるからだ。笑 旅っていう言葉は、その土地の風土に触れたり人々と交わったりして文化を感じることを意味するのにあてがわれるべきだとおもう。 対して私は、いわゆるシティに赴いて綺麗なものを見て英語のメニューが置いてあるお店に入ってある程度の形式的な会話を現地の人としていたから、これは観光だ。 バックパッカーっていう響きはもっとさすらっている感じがするか

          リュックひとつで海外行くなら

          幼い恋の神格化

          最近の私にはいびつな悩みがある。 単刀直入にそれを言うなら、「高校生の頃みたいな、惨めなくらい青臭かった私たちの、あの熱病のようなどうしようもなく愚かな恋こそ、世界で1番美しいのだ」という価値観から、どうしても離れられないことだ。 離れられなくて、苦しいのだ。 なんでこの悩みが"いびつ"なのかと言うと、別に私はそうじゃないからだ。 私の恋は今だって美しい。私の今の恋は青くさくもなければ愚かでもないけど、美しいのだ。まるでステンドグラスをすり抜けてシャボン玉に反射する陽の光

          幼い恋の神格化

          本が届いた。

          メルカリの包装ってさ、丁寧で、何なら『ありがとうございます』みたいな類いのこと書いたお手紙とか付いてるものよりも、明らかに見合わない大きさの紙袋とかに適当に詰められて、シワだらけで、ホチキスとかで、それも斜めに最低限に止められてたりするものの方が、よっぽど私の心には訴えかけてくれるんだよ。 誰かが垣間見せてくれた隙や生活感や怠惰の痕跡は、温度があって愛おしい。 とっても可愛い. だからこの本は買う前にそう思っていた以上に、大切でありがたいものとして読もうって思った。 でも

          本が届いた。

          我々はどこに行くのか①

          最近また、この考えが頭をもたげてきた。 これに捕まるといつも、寝ても覚めても頭が重く心も晴れず、生きた心地がしない。 これについては高校生から今まで割とずっと頭の中で考えていることだから、その問いと向き合い直す意味合いでも、頭の中を書き出してみようと思う。 とても長くなりそうだから、何回かに分ける予定だ。 「我々はどこへ行くのか」。 私たちの1世紀前を生きたゴーギャンもこの文言がタイトルの一部に使われている絵を描いたくらいだから、どの時代に生きる人も誰もが一度は向き

          我々はどこに行くのか①

          ハヌマーン『アパルトの中の恋人達』の歌詞を読み解いてみた

          2004-2012年に活動をしていた、カテゴライズするならばオルタナティブロックバンドであろうハヌマーン。 "ハヌマーン"は確か、叙事詩『ラーマーヤナ』に出てくる神の名前だったんじゃなかろうか。 私の場合、散歩中は常時Apple Musicと AirPodsで私の耳の中の空気を振動させまくっているのだが、ハヌマーンに関しては、そんな時不意にアプリ内のレコメンド機能によってランダムに出てきたそのバンドが持つ名前のインパクトから、興味本位で曲を聴くようになった。 もちろん、

          ハヌマーン『アパルトの中の恋人達』の歌詞を読み解いてみた

          2022年8月 大阪市立美術館での鑑賞体験を踏まえて

          今回のnoteはボヤキみたいな愚痴みたいな思いつきみたいな、本当にどうしようもないものだ。 美術館は、鑑賞においてその位置を限定されない。つまり、鑑賞者の積極的移動そのものが鑑賞体験に内包される。 鑑賞者が辿る動線の全てが通路たりうる3次元的空間であり、映画や芝居のように限定された1つの地点から享受するということはあり得ない。 よって、鑑賞者の歩くスピード、辿る順路による鑑賞の順番、凝視する作品とほぼ素通りする作品の選別、作品へ向ける視点の作為的で多様な角度の創出等々を含め

          2022年8月 大阪市立美術館での鑑賞体験を踏まえて

          喫茶店とカフェは同じDNAを持ち得るか問題について。

          喫茶店/カフェの二項対立構造 「喫茶店」と「カフェ」の違いってなんだろう。 そもそも、この議題をハッキリと意識しつつ店に足を運んでいる人はどのくらいいるんだろう。 大概の人からすれば両者はそう違いがあるものでもなく、おおよそランダムに選ばれる存在なのだろう、というのが肌感としてある。 だが、筆者にとっては両者は似ても似つかぬ存在だ。 店でサーブしているもの(飲食品などの物質)それ自体が大差ないせいで、両者は同じ血筋の兄弟あるいは姉妹であると思われがちなのかもしれないが、個

          喫茶店とカフェは同じDNAを持ち得るか問題について。

          どうしてアメリカのハンバーガーはあんなに大きいのだろう。

          私は映画が好きだ。中でも特にインディース感のある、生活感の滲む、そんな映画が。 え?タイトルにあるハンバーガーのサイズ問題と全然関係ねえじゃん。そんな風に思った人も、その謎が解けるまでに3分足らずなので、最後まで読んでみて欲しい。 物語=フィクションに求めるもの 冒頭に、私は映画が好きと書いた。1ヶ月に平均して2、3回は、劇場に一人で赴く。本当はもっと行きたいくらいだが、金銭上の問題もあるので。 映画の好きなところは、しっかりと私たちを傷つけてくれるところだ。 私たちが芸

          どうしてアメリカのハンバーガーはあんなに大きいのだろう。