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2022年8月 大阪市立美術館での鑑賞体験を踏まえて

今回のnoteはボヤキみたいな愚痴みたいな思いつきみたいな、本当にどうしようもないものだ。



美術館は、鑑賞においてその位置を限定されない。つまり、鑑賞者の積極的移動そのものが鑑賞体験に内包される。
鑑賞者が辿る動線の全てが通路たりうる3次元的空間であり、映画や芝居のように限定された1つの地点から享受するということはあり得ない。
よって、鑑賞者の歩くスピード、辿る順路による鑑賞の順番、凝視する作品とほぼ素通りする作品の選別、作品へ向ける視点の作為的で多様な角度の創出等々を含めた全てが、美術館で作品を鑑賞することの醍醐味なのだ。

しかし、今日の鑑賞体験はどうだ。
フェルメール作品の数百年越しの本来の姿を見るべく、あまりに数多の人々が押し寄せすぎていた。ここはコロナ前の竹下通りかと錯覚するくらいの人の数だった。
飾られていた作品はどれも素晴らしいものに違いなかったが、そのあまりの人の多さから、絵画が目の前に提示する厚みのある空間を相殺してしまうほどの猥雑な空気感に支配され、空間そのものの質が成り下がっていた。

これではまるで江戸時代の見世物小屋だった。

惹かれた作品に没入すべく歩みを止めたり、近づいて見たり斜めから見たり、はたまた心を揺さぶってくれない作品の前は少し早歩きをしたりと、そんな、"他の誰かによって二度と繰り返されることのないただ一つの" 鑑賞体験を生み出すことは、不可能に近かった。
人の群れが自然に "皆が守らなければならない歩行速度" を生み出し、それを守れない者は人並みに押し潰される。

物珍しいものを飾り、とにかく鑑賞者の各個体の特性は無視して、皆を同じ "物珍しさの消費者"という身分に均一化された存在と見做し、大量に人を入れ込んでは流れるように押し出していく、まさに見世物小屋だ。
事前にチケット予約制にして人数を制限するだとか、もっと他にやり方はないものかと思った。

それに、鑑賞料もあまりに高い。
この要素もまた商業的達成が目的の見世物小屋を彷彿とさせた。
見世物小屋は、とにかく利益を上げたいだけだから、物珍しさにかこつけてやたらと高い鑑賞料を取り立てる。

とは言え料金に関しては、これほど貴重な作品を諸外国からコレクションして来たのだから致し方ないのだろう、とも思う。
輸送費や、なんせ保険料がとても嵩む。
さらには日本において美術鑑賞は文化や風習として根ざしているほど身近なことではないし、一部の人の贅沢な営みのような位置づけになってしまっている。
故に見込める集客数を無責任に多く見積もる訳にはいかないので、何かしらの展示会を開く際には多かれ少なかれ鑑賞料を取り立てることは不可避なのかもしれない。

そんなことがまた一般的な日本人から美術鑑賞を遠ざける要因となり…と悪循環を繰り返しているのだろうが。

日本という国で伝統的作品を鑑賞することにおいて、改善の余地の残された問題点はあまりに多すぎるだろう。

展示されていた作品が確かな価値を持つものだっただけに、本当に残念だった。

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