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本が届いた。

メルカリの包装ってさ、丁寧で、何なら『ありがとうございます』みたいな類いのこと書いたお手紙とか付いてるものよりも、明らかに見合わない大きさの紙袋とかに適当に詰められて、シワだらけで、ホチキスとかで、それも斜めに最低限に止められてたりするものの方が、よっぽど私の心には訴えかけてくれるんだよ。
誰かが垣間見せてくれた隙や生活感や怠惰の痕跡は、温度があって愛おしい。
とっても可愛い.

だからこの本は買う前にそう思っていた以上に、大切でありがたいものとして読もうって思った。



でもこれって、なんで可愛らしいって感じるんだろう? 可愛いって人が思うとき、心の内部には何が作用してるんだろう?
区切り線前の段落までnoteを書いて満足していた昨日から1日が経った今、この疑問が沸々と湧いてきて、その成分をもうちょっと分解してみたくなった。
だから、ノートにとりとめもなく浮かんだことを書いて思考を整理しつつ、この感情の奥の方へ向かってみる。


可愛いのは、ただ雑だからじゃない。
むしろ人間の持ち合わせる単純な快/不快の感覚から冷静に判断すれば、雑なものを見たときは不快の側のセンサーが働くほうが自然だと思う。
だとしたら、その自然さを飛び越えてまで雑さに愛を感じる理由は、雑さを見せるほどに送り主が私に心を許してくれているからなんだろう。
いや、正確には、私に心を許してくれているからなんだろうという風に、「こちら側が勝手に解釈する」からなんだろう。

送り主は私の寛大さに賭けてくれたのだ、その勇気を讃えようではないか。もしくは、雑さ(つまり不完全さという脆さ)を見せるという一つの接近コミュニケーショ方法によって、私との距離を「ただ荷物を送り合うだけの他人」という枠から一歩だけ縮めてくれたのだ。そのアプローチを喜んで受けようではないか、そんな具合だ。
いずれにせよ、送り主は私に何かしらの親しみを込めて雑さを披露した、と、私が恣意的に解釈を加えている。

このように愛おしさを分解すると、私の勝手な視点によって生まれた感情にすぎないということが見えてきた。
だからこそ反対に、この雑さを届け先への不遜だとか冒涜だとか捉える一派がいてもそれは間違いじゃないだろうし、雑な包装が届いて苛立ちを覚えるのも反応の一つとして当たり前にあるとおもう。

ただ、例えば本が届いて包みが雑だったことについて、解釈が人によって異なる。今目の前に同じことが起きているのに、抱く感情や表すリアクションが別のものになる。目の前の事柄の表象だけを単なる切り取られた"刺激"としてだけ捉え本能的な反応をするにとどめず深層やコンテクストを見出そうと"解釈"してしまう、物事の"関係"を前提として立体的に思考してしまう、その後にはじめて自分のリアクションを決める、これが私たち人間の最大の特徴のような気がする。

これは当たり前のようで、改めて不思議なことだ。


同じことが動物に起きうるだろうか。

そもそも動物には、"解釈する"ということなどが出来るのだろうか。

答えは「いいえ」だと思う。

動物のように、刺激と反応レベルで生きているだけではこんな感情は生まれないのだと思う。

猫を飼っていて思う。彼らは自分たちの周りの環境世界にあまりに密着しすぎている。刺激Aに対して反応Aを起こす、その刺激とそれに反応した自己を"捉える"という作業は一切無し、次に刺激Bが来れば反応B、だからAのフェーズはもう忘れている。
だから概念的世界を構築できない。世界に一義的に拘束されたままである、つまり世界との関係は視覚的/本能的な結びつきのみである。そこに一切の解釈は存在していない。
非常に無世界的な生き様なのだ。
世界の存在を知らない。世界の広がりも知らないし、かといって自らの存在への自認もない。全てはいま、いま、いまの繰り返し。だから「吾輩は猫である。名前はまだない。」は諧謔心に溢れすぎた台詞だ。(吾輩の存在をまず認めている、その上でそれが猫だと認識している、そして名前が"まだ"ないと言っている点で直線的な時間概念を有しているから。)
そもそも世界と距離を取れない彼らは何かを解釈する必要もないので、言葉や時間すら持ち合わせない。

でも人間はちがう。今目の前のことを判断して陳述する、命題とする。それを繰り返して法則を見出す、そのまた繰り返しで"世界"の全体像をどうにか把握しようとする。それが仮のものだとしても、そのようにして兎に角世界と距離をとり得るのだ。それが解釈である。
いま、いま、いま、が分断され、過去、現在、未来という鎖として繋がれる。人間が世界と距離をとりうるのは、時間概念を持ち合わせることとも関係しているような気がするし、それゆえに言葉が生まれたような気もする。
さらに言ってしまえば、そのような仕方で世界と関わる人間にとっては、解釈のうちに構築された世界しか存在しない。「一才は解釈だ。」とニーチェはよく言ったものだ。

ともかく距離をとることにおいて、動物の場合には密着していた世界が、人間の場合は距離を開く=世界を拓く(解釈する)ために、世界として世界が現れるのだ。
つまり、人間は世界を拓く存在者だと言える。


おっと、しかしこれは人間中心主義的な発想になっていて少し危険だ。
私は世界を拓くことのできる人間様だけが偉いと言いたい訳ではない。
むしろ、他のnote記事にも書くつもりだが、人間以外の存在、つまり絶対的な自然やそれに覆われた世界を、拓くことでしか生きていくことの出来ない人間は、とても脆くて弱くて臆病者だと思っている。
私の偉いところは、そういう冷静さを持ち合わせ、常に俯瞰し、正しく考えることが出来るところだ。(ここは嘲笑するところです)

いや、でも正しく考えるとはそもそもなにか?
精神と対象、対象と表象の一致を図ることだろうか?それとも単純に、主観と客観の一致がとれていることだろうか。
いずれにしても、こういう問いを発することが出来るのは世界と距離を置く人間だけであり、動物が問いを発しないことだけは、どちらが優れているという観点とは別に、確かである。



可愛いの成分を分解してみたら、私の恣意的な解釈による愛おしさだってことが分かったのはいいが、そこからどんどん派生して人間/動物の世界との関わり方を論じた挙句、他にも湧いてくる疑問を散らかすことになってしまった。
収拾がつかなくなったので今日のところは一度閉じる。
私の良くない論点ずらし癖がまた出てしまった気がするけど、所詮noteは頭の中の独り言の殴り書きに過ぎないので、許してください。


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