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Op.9-1


人は私を、無駄に退廃的だと笑うだろうか。
酔いしれた感傷だと、どれほどの人がおもしろおかしく消費するだろうか。
だとすれば、だれかを"消費"することは、どれほど乏しいことだろうと私は思う。
主人公をやりたいだけだろうと、まだ若いねと言うだろうか。
だとすれば、若さを捨てることは、どれほど恐ろしいことだろうと私は思う。


私は人間をやるのははじめてだから、そううまくはできない。
最近では、それをとくに強く感じる。
言葉はつくづくそれを助けたりはしないし、それでも、言葉に頼って生きている。



書くことで償いたい。
また戒律の罪を積み重ねた一年だった。

書くことでなぞりたい。
今の私の場所をなぞらないと、ここからどこへも向かえない。

書くことで証したい。
幼い頃に背負った重苦しさが、今の私には抱えきれない。重たい扉を自らの力で解放できる人間なのだと、わたしはわたしに証明してやらなければならない。

書くことで見つけたい。
いつもどこかに私の知らない私がいる。そいつが世にも恐ろしい顔で刮目し、追いかけてくる。言葉でそいつを見つけ、抱きしめたい。

書くことで生き延びたい。
こんなの、まるで自分を殺すために生きるような毎日だ。

書くことで捨てたい。
そんな毎日の先に、いつかすべてを捨てる必要がある。


言葉を都合のいい手立てになんかしたくない。
正直言って、言葉で"課題"解決を、戦略を、なんてクソ喰らえだ。小手先のツールみたいな言い方をするな。
そうするしかないと、そこにしがみついているんだという風に必死であればいいのに。
他にも色々できちゃいますよみたいな顔をして、そんなことを抜かす連中は正直言って許せない。なにかができるなんて言える人間なんか、どこにもいないはずなのに。
それに言葉を、頼れるものだと過信しすぎだ。そんなわけない。その脆弱性に気がついてない愚かさを、見つけられていない。
'完成の必ず訪れるジグゾーパズル'を完成させるのに夢中だ。世界を分解することを思いついていやしない。
そういう人たちはどうせ、つるっと手触りがよく頑丈なものばかりが好きなんだろう。手触りの悪く脆い自己なんかには、たぶんもう長いこと、目を背けてやがる。
完成したジグゾーパズルも、額縁に入れて飾るんだろう。



殴り書きをしていたら、憎しみを唱えることが本題みたいになってしまった。言いたいこともバラバラで汚い構成かもしれない。そんなことはどうでもいい。
ただ言いたいことは、私にとってはまさに、それに頼るしかないという類の、もっと切実なものだということだ。
言葉にした瞬間大切な何かが必ずこぼれ落ちるが、言葉を介在にすることでしか私は私を繋ぎ止めることができない。
だから私は、途方もない不全感に押し潰されながらも、言葉をつかう。

言葉は本来、とっても頼りないものだとわたしは思う。意味の付与に関して、あまりに恣意的すぎる。言葉にすることほど危険なことはないだろう。線引きも恣意的になる。
でも、強い恣意性があるからこそ、できることがある。
曖昧な言葉たちは、窮屈な私を助けてくれる。
言葉のもつ恣意性が、私の場合はかえって軽やかなのだ。
わたしの過去を、考えを、現状を、言葉で分類し、あえて解釈し、オルタナティブなストーリーで語ってみたりする、できる。
時には正面から言い表し、その苦しみに喘ぐことで、いつか自分の再分類ができるようにだってなるはずだ。
それのくりかえしが、償い、証し、見つけながら生き、最後にすべて、捨てることに繋がるんじゃないか。わたしはそこに希望の光を見たい。
達成されるのはきっと到底先の話で、半世紀以上かかるかもしれない。それでもいい。構わない、やるしかない。

だからまず手始めに、
少なくとも今日から大晦日までは
毎日なにかを書いていきたいと思う。

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