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そんなふうにしてこの世界を我が物にしてきた

そういえば4ヶ月ほど前、太陽の塔の中へはじめて入りました。

そこで感じたことがすべて色褪せてしまわないうちに、ここに清書と再考のつもりでまとめなおしてみることにします。


文明と自然

この建造物というか作品というかなんとも定義の曖昧なモニュメントは、岡本太郎氏が私たち人間に、自然の脅威や絶対性を見せつけるということを目的に造ったのだと私は解釈しています。

そもそも岡本太郎氏の芸術の根底にある精神性は、『自然×民俗学×キュビズム』とめちゃくちゃざっくり言ってこんな感じだと私は思っています。民俗学への傾倒やキュビズムの探求に関してはここでは趣旨とズレるので割愛します。

この太陽の塔も御多分に洩れず、自然から着想を得、自然の偉大さを芸術によって示唆したものです。
塔の外観のモチーフは地球上の生命すべてにとって絶対的不可欠な"太陽"であり、更に塔には「生命の樹」と呼ばれる、太古からの地球上の生物が原生類生物から人類に至るまでの時間の流れと共に連なる様子を再現した巨大作品が内包されています。

時は1970年、大阪で万博博覧会が開催されていました。太陽の塔はその万博に合わせてシンボルゾーンに建設されたのです。
万博博覧会は正式名称を国際博覧会といい、Wikipediaによると「公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すもの」だそうです。

万博が文明や科学の発展を象徴したものであることに対し、太陽の塔は自然を表現したものである故、両者が保持する目的や内在する性格は相容れず全く対極に位置しています。

1970年の大阪万博のテーマは『人類の進歩と調和』だったそうです。
しかし岡本太郎氏自身はこれが腑に落ちなかったのでしょう、太陽の塔が万博会場の屋根をぶち破る形で、文明に対して自然を叩きつける形で、文明による調和などクソ喰らえと言わんばかりに塔のその圧倒的な存在感をもって自然の偉大さを知らしめたのでした。


この星に生きるものはすべて、なにものでもない

そんな太陽の塔の内部に入り、生命の樹を目の当たりにしたときに私の中に沸いた感情は、「なんかちがう、なにかがただしくない。」でした。

生命の樹最下部に位置する原生類時代生物の説明書き

上の写真をみて、何かおかしさを感じはしませんか。
太陽の塔の内部にいた私は、この説明書きにある情報を、巨大な違和感をともなって思い知らされるような感覚に、たしかになりました。

その違和感は、己の傲慢さを自覚した時の罰の悪さとも反対に他人にそれをぶつけられた時の不快感とも言えました。
また、同時に世界を完全に理解することは"絶対に"無理なのだと悟ったときの、不全感や物足りなさでもありました。


結論から言えば、その"なにかがおかしい感"は、これら生命体にひとつひとつはっきりと個別の名称が与えられていたことによるものだったのです。
それもそうです、この星に存在するすべての生命は、もともと何者でもなかったはずです。
それなのにわざわざ名前なんて、必要だったのでしょうか。わざわざ名詞を与え何者かにたらしめる必要なんて、有ったのでしょうか。
私たちはすべて等しく何者でもなく、すべてが同一である可能性があり、すべてが異なっている可能性がある存在です。ただその"異なっている"状態にハッキリとした区別なんていらない。
線引きをする必要なんてないのに、私たち人間は言葉を巧みに操って、傲慢にもひとつひとつの間に境界線を引いたのでした。


名称、境界線、支配

生命体に固有の名称を与えることはすなわち、生命体のひとつひとつに境界線を与えることだと述べました。
ここでするのは少し観念的な話になりますが、境界線を与える、つまり線引きをするということは、さらに掘り下げると言葉を操る私たち人間に対象の概念をもたらし、対象に輪郭を与えることだと思います。

イメージとしては、この世界に存在するすべてのものは原初状態がスライムのようなもので、なにものでもなく、かつなにものにもなりうる。だが私たち人間はそのにゅるっとした状態では都合が悪いので(何故なのかは後述)スライムを型に取って切り分け、その境界線によって分けられたスライムは固有の形をした物質になる、みたいなかんじです。

では何故、にゅるっとしていては都合が悪いのか。何故わざわざ概念を作りだし、なにものでもないはずのものに明確な輪郭を持たせようとするのか。

それは、あらゆる対象を人間の支配の範疇に置くためだと思います。これはなんというか、論理的に考えたというよりは、様々な形から連なって進化を遂げてきた生命たちを目の前にした時に直観した、という方が正しいです。
まず、生命体同士に境目は本来一切ないこと。「わたしたち」なんていう概念は、わたしたちが生み出してしまったものであるということ。
ただ、「わたしたち」とでも思わないと、つまり境界線のある生物たちの中で自分たちを最上位に置かないと、わたしたち人間はやってこれなかったのだということ。
名前のない、得体の知れない何かは正体のわからなさゆえ恐ろしすぎて従えることができないということ。
にゅるっとしていては掴みどころがないから、支配できないのだということ。
でも、名前をつけて呼ぶことができるのなら、輪郭を与えることができるなら、名付けた私たちは名付けた対象をしっかりと掴み、支配することができるということ…

直観的にわかったと言いましたが、ロジックで説明することもできます。
例えば私たちがペットを"飼う"(≒支配する)ときはいつも、名前をつけます。その必要性が必ずしもあるわけではないのに、名前をつけることで主従関係を生むのです。
他にも、りんごをりんごと呼び、にんじんをにんじんと呼ぶからこそ、私たちはあれらを認識することができ、料理本の必要材料リストにも共通の概念として掲載することができます。つまり、名称を与えるからこそ、あれらを"使用する"ことができようになったのです。
あとは、トトロのまっくろくろすけなんかは良い例だと思います。丸くて黒くてとげとげしたものが、もぞもぞ動いてたら普通、怖くて仕方ないじゃないですか。だけどそれを"怖くない"ように、"お友達になる"(≒対等もしくはそれ以下に去勢)ために、メイちゃんは『まっくろくろすけ』と名前をつけます。これで"得体の知れない何か"は"まっくろくろすけ"になり、人間より下等な存在になったわけなのです。


そんな風にして世界を拓いてきた人間たち

ここで行われていた表象としての"名付ける行動"は深層構造を持っており、その深層構造とはつまり、支配-被支配の関係性の付与でした。

人間はいつだってあらゆる対象を名付けて飼い慣らすことで去勢し、支配下に置くという行為の繰り返しによって世界を切り拓いてきました。

ただ、これはどんなに脆いことでしょうか。
わたしたちは言語という限られた枠の中で、名称という道具を使って、なんとなく私たちの外にあるものを内に取り込み、支配した気になっているだけなのではないでしょうか。

人間は臆病だから、小さな叡智をつかって大きな世界をどうにか私たちの取り扱い可能な範疇に収めようとしているのです。

これは特定の世界観のもとでは成り立っているかもしれません。現に今日では人間が世界を支配しているように一見感ぜられます。しかしあらゆるものの境目は本来なく、人為的な主従関係などハリボテであるという事実は不変です。むしろ角度によれば自然や他の生命体たちは人間を遥かに凌駕するものになり得ます。

日本の哲学者、中島義道さんが「後悔と自責の哲学」という書籍で記したこの言葉に私の述べたすべては収斂されると思います。『言葉を学ぶとは、恐るべき多様な差異を同一の観念へとまとめあげる仕方を学ぶことであり、いったん言葉を学んでしまうと、もう世界はそういうさまざまな「同一のもの」の繰り返しとして見えてきてしまいます。』
この、「同一のもの」の繰り返しとして世界が出現すること自体が錯覚であり、とても危険な見方であるのです。

この生命の樹では構造として進化過程の頂点に君臨していた人間でしたが、それすら疑うべきことであるとハッキリ言えると思います。


アートのちから

これほどに、私たちが日頃おいている重心は偏っているというのに、私たちはそれを問題視するどころか、全くそれらに無関心で過ごすことに抵抗がない生き物のようです。しあわせですね。

ただ、そんな私たちに気づきを与えてくれるのが、アートです。

今回のわたしがこのひとつの作品を見てこれだけの発見があったように、芸術は常に私たちの固まった視点をほぐし、本質を問いかけてくれるものだと思います。
だからわたしは芸術が好きです。
しっかり鋭く切り込んで、傷をつけることで何かに気がつかせてくれる。

あまりに人間中心主義的な生命の樹をあえて打ち立てることも、岡本太郎氏の作戦だったのかも知れません。
本当に、「文明なんてクソ喰らえ」です。

自然の凄みを叩きつける腕力を持つ岡本太郎氏に、甚大な畏敬の念を。



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