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喫茶店とカフェは同じDNAを持ち得るか問題について。


喫茶店/カフェの二項対立構造


「喫茶店」と「カフェ」の違いってなんだろう。
そもそも、この議題をハッキリと意識しつつ店に足を運んでいる人はどのくらいいるんだろう。
大概の人からすれば両者はそう違いがあるものでもなく、おおよそランダムに選ばれる存在なのだろう、というのが肌感としてある。

だが、筆者にとっては両者は似ても似つかぬ存在だ。
店でサーブしているもの(飲食品などの物質)それ自体が大差ないせいで、両者は同じ血筋の兄弟あるいは姉妹であると思われがちなのかもしれないが、個人的には一概にそうとは言い難い気がしている。

かと言ってその違いは例えば、店内の雰囲気がレトロかモダンかとか、使用している食器がゴージャスかシックかとか、店の内装に暖色が似合うか寒色が似合うかとか、半世紀前の価値観から創られる"洋風"がコンセプトか現代のそれか、とかいう、外側に現れる単純な要素だけで語り尽くせるものでもないと思う。

喫茶店マニアの筆者はその辺りに関して思うことがいくつかあるので、筆者の主観をつらつらと綴って行く。



喫茶店とカフェの違い①時間の流れ

[時間の流れ]という文字を見て、おいおいいきなり主観マシマシトピックかよと辟易させてしまったかもしれない。
ただ、時間の流れの違いを体感する訳を、想定できる背景や根拠をきちんと交えつつ喋るので、気の向く限りお付き合いください。


本題に入って結論から言うならば、「喫茶店」には、たしかに濃密な時間の流れがある。
筆者はこれを、その街が刻んできた時間と地続きであることの重みなのではないかと解釈している。

地域コミュニティと密接に結びついた歴史を背負っているからこそ、ある意味で空間として閉ざされ、厳かさを纏う。その地域の人間でない者が、店に入る時に少しの緊張感を覚えるのはその為だろう。

また、「喫茶店」という極めてローカルな空間は必ず誰かしらの故郷として存在しており、天井や壁のシミが『ここは誰かのホームなのだ』と想起させてくれるような感覚だ。
しかし同時に、地域の人間にとっての故郷、帰る場所であるからこそ、見知らぬ土地からやってきた人が彷徨い辿り着いたとしても、見知らぬ人にとっての居場所となってあげられるだけの懐の大きさが宿っているのではないだろうか。

その土地の人々の帰る場所であるということは、逆説的に、知らない風土の人々の居場所にもなり得るということなのだ。


対して「カフェ」は、時間の流れに濃密さをあまり感じない場所だ。
それは、その空間が喫茶店に比べて相対的に歴史性を伴わないからなのではないか。

故に空間は閉ざされることなく、非常にフラットで開かれた場所となる。
つまり、"カフェ巡り"をする若者が有象無象に存在することを根拠とするように、誰からしてもアクセスのハードルが極めて低い空間であるのだ。

この特性から、「カフェ」の用途は主に一時利用か休憩などの目的、そうでなければ"映え"を消費するために追求する場所に留まっている気がする。
そういった刹那的な使われ方をする「カフェ」は、決して誰にとっての"帰る場所"にもならないことは自明である。



喫茶店とカフェの違い②経営形態

次に書くのは、経営形態とかいうとっても実務的な話だ。

「喫茶店」は一度足を運んだことがある人なら想像に容易なように、個人経営あるいは家族経営の場合が殆どで、なおかつアルバイトは非常にレアである。
また、ひとつの資本で経営するのは1店舗というのが基本で、多くても4店舗くらいまでが限度であろう。
つまり、個人経営で店舗規模も小さくすることでプロダクトアウトしている店、それが「喫茶店」なのだ。

プロダクトアウト : 売りたいものを先に作ってから、それをどう売るかを次に考える経営の仕方。
売りたい/作りたいをベースに商品開発をする。=こだわりの全てを商品に反映することができる。


反対に、「カフェ」は個人経営も無いとは言い切れないが、基本的には規模は大小あれど企業や組織の経営で、アルバイトも決してレアではない。

また大規模チェーンカフェの場合においては、ひとつの資本で100店舗ほどの経営の可能性が生じるそうで、その為マーケットにより寄り添う形になってしまう。

つまり、大規模な経営で一層市場に迎合しているマーケットイン型の店、それが「カフェ」なのである。

マーケットイン : 作りたいもの、よりも先に何を作ることを求められているか(=客層のニーズ)を把握し、それを実現する形の商品を提供して行く形態。売る側の好みやこだわりよりも、お客様のニーズを満たすものを売ることを重視している。


ここまでの話を踏まえてまた一度主観マシマシな意見を更に言うと、冒頭部分に『店の内装には暖色が似合うか寒色が似合うか』みたいなことを書いた気がするけれど、この印象みたいな話って意外とこういう実務的要素に起因しちゃってるんじゃないか、なんて思う。
私からすれば、こだわりとか好みってとても温度感のあるもので。反対に、ニーズを満たすことで利益を出すぞ!みたいなビジネス的発想は、ある意味本質的ではないし冷たい印象を受ける。
そういった、"売ること"に対する向き合い方の方向性みたいなものが、意外と店の雰囲気とかに表れてしまっていたりするんじゃないの、と、密かに思っています。




喫茶店とカフェの違い③提供物がホールドしている意味


先にも述べたように、「喫茶店」はプロダクトアウト型のため、店を出す側のこだわりを必然的に最大限詰め込めることになっている。
だからこそ客に対してもおそらく、それを良いと気に入ってくれる人が少しで居ればそれで十分、そういう人たちの憩いの場でありたい、というのがスタンスなのではないか。

つまり、そういう人たちの憩いの場であることを望んでいる=同じ"いいな"の感性を核にして集う人々の、ご縁を提供することを望んでいる店ということなのだ。

この文脈において、「喫茶店」が提供するものはであり、ひとつの小さな社会である。

喫茶店でサーブされるものは珈琲やケーキ、その他簡単な加熱調理品かもしれないが、それはあくまで表象に過ぎず、本当に提供しているものはその深層の意味にあるのだ。

一方で「カフェ」の場合はマーケットイン型であるため、それ程こだわりを詰めることばかりやってられない。なので店側がマーケットニーズに応える作業をすることになる。
というより、ニーズに応えることがこだわりになってしまう、と言う方がいいだろうか。

ボリュームゾーンのニーズは美味しい、キレイ、映える、大概がこのラインにおさまっているため、それにとことん迎合したものをお出しする。その他を気にかけている暇は正直言ってない。
他を気にかける気力は全てニーズ迎合に注ぐのだ。
つまり、美味しい食事と小綺麗でオシャレな空間のみを全力で提供している、ということになる。

この文脈において「カフェ」が提供しているのは、単なる"場所"にとどまっている。


またここで主観マシマシ観点を差し込んでおくと、喫茶店はそこ自体が目的地になる感覚が芽生えるのに対し、カフェは「そこでなにする?お喋り?勉強?読書?」感が芽生えるのは上記したようなことが理由なんじゃなかろうか。
喫茶店の場合は、場所に込められたご縁や場所を核にした社会を提供しているからこそ、そこに行くこと自体に意味がある
しかしカフェは、単なる場所と単なる食事を提供しているに過ぎないからこそ、行った先で自ら付加価値的な(勉強、お喋りなどの)意味付けをしなければならない



まとめ

ここまで筆者の思う違いとやらをつらつら綴ったが、「喫茶店」と「カフェ」は同じDNAを持ち得ない、と私が結論づけるのは自明のことだろう。
ただおそらく、いや確実に、議論の余地がある点はもっと沢山存在しているはずだ。
これを読んだ人の感じる"違い"にも出来るだけたくさん触れてみたい。

それに、喫茶店/カフェの二項対立構造を通じて書いたというものの、もちろんどちらが優れているとか、どちらを好むべきだなんてことは一切ない。

ひとつひとつの物事に湿り気のある感性を抱き、没入して味わうことに価値を見出してしまう私の性格では、喫茶店のあたたかさが心地よかった、くらいの話だ。

こんなことを最後のくくりで綴っていて思うのは、『事実はなく、解釈のみがある。』ということ。

だから私が愛してやまない喫茶店への解釈をここにぶつけたように、カフェ派の人も、同じ喫茶店派の人も、そもそもどっちも違いなんてないよ派の人も、機会があれば解釈をぶつけにきてください。


書き終えた今が朝の9時半とちょうどいいので、今日は三丁目の猫のいる喫茶店にでも行こうかな。
行ったことのない喫茶店に行くのは私にとってドキドキする愛おしいイベントだから、ちゃんとお化粧をして新しいワンピースを下ろそうか、なんて考えて胸が躍っています。🌹

それでは、最後までお読み頂きありがとうございました。☕️


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