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我々はどこに行くのか①

最近また、この考えが頭をもたげてきた。

これに捕まるといつも、寝ても覚めても頭が重く心も晴れず、生きた心地がしない。

これについては高校生から今まで割とずっと頭の中で考えていることだから、その問いと向き合い直す意味合いでも、頭の中を書き出してみようと思う。

とても長くなりそうだから、何回かに分ける予定だ。


「我々はどこへ行くのか」。

私たちの1世紀前を生きたゴーギャンもこの文言がタイトルの一部に使われている絵を描いたくらいだから、どの時代に生きる人も誰もが一度は向き合う、人間の存在においての非常に根源的な問いなのだろう。

そもそも、最古のゾロアスター教に始まる世界中の様々な宗教も、宗教の次に誕生したタレスや老子に起源を遡る哲学も、その哲学から生み出された自然科学も、こういう根源的な問いに答えるために生み出され、発展してきたのだと思う。

それくらいたくさんの人々がこの問いと向き合い、そして唯一の正解と言えるような答えは未だに特定されず、時が流れ続けている難問というわけだ。

この根源的な問いは、梶井基次郎の『檸檬』みたいに得体の知れない不吉な塊として私を苛むのだ。そして物語と同じように、以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくさせてしまうのだった。

以前、この問いととことん睨めっこしたのは高校生の時だった。その時は、ふいに感じた「なんのために"大人"になるんだろう」からはじまった。

大人になる前に死んでやろうと本気で思っていた。

幼い私にとって大人になることは「社会に出る」ことを意味していて、その「社会」とやらの虚構っぽさを作る側の人間(="大人")になっていくことへの違和感が抑えられなかったのだろうと思う。


この資本主義社会において、高校生という、「社会」に対し何も生み出しておらず享受することにとどまっている"はじかれた存在"であったからこそ、それまで「社会」の作り手になることを意識したことはなかった。

けれど、目の前ににある"今"の積み重ねのような刹那の繰り返し的・動物的時間観念ではなく、もっと直線上に則った眺望的・人間的時間観念があることに気がついた時に、自分の向かう先であろう「社会」が不意にわからなくなり、生きていく意味も同時にわからなくなったというわけだ。(時間の見方変えるの遅すぎって話)

あ、社会が虚構っぽいって言ったのは、結局すべて人間が作り上げたものに過ぎないって意味で。価値もシステムも地位も権力もすべてだ。秩序がなければ?道徳がひっくり返ったら?神がいなければ?そう考えた時、今目の前で繰り広げられている政治もビジネスもそびえ立つビル街もそこに群がる人間の暮らしも家族という幻想も、何もかもがゼンマイ仕掛けのおもちゃのように見えてしまったのだった。私は何事からも影響を受けやすいタイプだから、当時読んでいたドストエフスキーや森鴎外の『かのように』に若干当てられていたのかもしれない。


話は戻って、そもそも、「社会に出る」この言い回しは気に食わない、そんなことも考えていた気がする。社会に出る、なんて言ったら、どこかよくわからない敵地に攻め込んで行くみたいで、覚悟のニュアンスが込められているみたいじゃないか。これは日本語特有であって、欧米では社会ってのはもっと、自分達が所属するコミュニティのような、ホームな捉えられ方や言い表し方がされていると(個人的には)思っていた。

それに加えて幼い私は、そんなニュアンスをもつ「社会」に出る存在としての"大人"になることと、妥協することの何が違うのか、全く分からなかった。

得体の知れない虚構的な「社会」とやらに出陣しなければならないというのに、出陣したらしたでとことん呑みこまれていく、つまり作り物に付き物の不条理や軋轢を背負わなければならなくなる。だってその証拠に、「社会」とやらの中で、好き放題だけをやっている人を私は見たことがないのだ。好き放題だけやれば、お金がなくなったり、人がついてこなくなったり、場合によっては犯罪者になってしまったりと、さまざまな弊害が必ず起こる。この、メリットが一つもない非常に合理性の低い状態に対し、妥協をしてまで無理して大人になる=「社会に出る」意味が本気で分からなかった。

この問いについては意識的に考えようとしてた訳ではなくて、何かの拍子にふと気が付き、普通に生きていられなくなったのだった。

とは言えこの問いを度外視して、考えないようにと平気な顔をしながら目の前の生活をこなすこともできなかった。
だから当時は寝ても覚めても答えを出そう出そうと、ずっと「どう生きるかではなくなぜ生きるか」ばかり考えていた。

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