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幼い恋の神格化

最近の私にはいびつな悩みがある。

単刀直入にそれを言うなら、「高校生の頃みたいな、惨めなくらい青臭かった私たちの、あの熱病のようなどうしようもなく愚かな恋こそ、世界で1番美しいのだ」という価値観から、どうしても離れられないことだ。
離れられなくて、苦しいのだ。

なんでこの悩みが"いびつ"なのかと言うと、別に私はそうじゃないからだ。
私の恋は今だって美しい。私の今の恋は青くさくもなければ愚かでもないけど、美しいのだ。まるでステンドグラスをすり抜けてシャボン玉に反射する陽の光のようだ。つまり神聖なのである。
確かに、青かったあの頃の恋は透き通ってて、でも真っ黒にドロドロしてて、軽やかに重たくて、一切の救いがないほど痛々しくて、でもその痛々しさでこの世の全てを救えそうな、そういう美しさがあったかもしれないが、別にあの頃の恋だけが美しいわけではない。今だって同じくらい、やー、もっとそれ以上に、美しいのだ。

なのにも関わらず何故か「あの頃の恋こそ…」なんてそんな大矛盾なことばっかり考えてしまうから、今、真正面を見ることができなくて、苦しくて仕方がない。これは、あの人の抱える"昔"にむかって覚えている嫉妬だ。歯の裏に、金気くさいような嫉妬の味を感じている。

人より人間関係に苦労した自覚のある私には誰にも負けないしなやかな強さがあるので、どんな苦境においても悩みなんて普段持たないタチだったはずなのに、こんなことに悩んでしまうなんて珍しい。これこそ熱病なのかもしれない。

いや、そうだ、私は熱病のような恋を確かにしているのだ。今も。あの頃とは何一つ変わってはいないのである。熱病に浮かされるほど、理屈なんかじゃなくて心で人を好きでいる温度の高い感覚が確かにある。

私は確かにそうなのだ。でも、あの人は?今これを読んでいる君は?みんなは?どうせ青い気持ちがたくさん詰まった恋が1番、尊いんじゃないのか。あまりの愚かさに忘れられない恋が、ひとつやふたつはあるんじゃないのか。どうなんだろうか。

私ももう今年で23歳になる。これまで、それなりにいくつかの恋をしてきた。青い時期の鮮烈な恋もそりゃあったけど、青さがだんだんマシになってきてからも、いくつか恋をした。その度に、向き合っていなかったわけではないのだ。むしろ真正面から向き合って、必死だった。本当に本当に、必死だった。

繰り返すけれど、私はそうなのだ。でも、私の大好きなあなたは?どうなんだろうか。わからない。人の心は覗き込めない。
大好きな人を見つめる私の眼差しはその人の過去をも見つめ、幼い恋を神格化する私はなんだかその過去に、「ああ敵わないな」と、その入り込む余地のなさが、どうしようもなく辛いのだった。


なぜこうも、誰かをちゃんと見ようとすればするほど"あの頃"を神格化し、過去を見つめることに取り憑かれてしまうのか。

この旅の途中うっすらと考えていたけれど、なんとなく帰国した今日でわかった気がした。

まずあの人のあの頃を神格化しちゃうことについては、結局、私自身が、私の過去にあった青い愚かな恋を、あの恋こそ素晴らしいものだったのだ、なんて考えてしまっているからだと思った。結局、これだ。投影に過ぎないのだった。自分の価値観がそれに支配されているなら、他人のケースにもそれを当てはめちゃうっていうのは、不自然なことじゃない。「人はいつも無意識のうちに、自分の心を通じて風景を見る」なんて言葉が何かの本に書いてあった気がするけど、そういうことだった。
さっきあれだけ、「いや、私は今だって。あの頃と何も変わってはいない美しい恋を…」みたいなことを言ったのに、結局、って話だったんだ。やっと気がついた。

最近好きになった曲に、「初恋の香りに誘われて死にたくなる夕凪」という歌詞がある。
初めて聞いた時これの感覚が痛いほど身にしみて分かり、頭がイっちゃいそうだった。

でも個人的な感覚で言えば、これは気持ちの大小や尊卑によるものじゃないことだけは確かだ。つまりどういうことかというと、あの時の"好き"を確かで特別なものに感じていて、今の"好き"を俗っぽい取るに足らないものに感じているから、とかじゃ全然ないし、今の”好き”は、冷静でいられる程度のものだから、とかいうわけでもない、ということだ。
どちらも神聖でどちらも尊く、どちらも熱烈なものだ。いや、むしろいまのそれがいちばん熱烈かもしれない。そう思うくらいに、大人になってまで恥ずかしいくらい焦がれてる。今まで知らなかった感情がたくさん湧いてきてはわたしの脳髄まで駆け抜ける毎日に慌てて仕方ない。さっき『いくつかの恋をしてきた』みたいなことを言ったけど、いくつかの恋のなかのひとつ、みたいな感じが全然してこない。あとにもさきにも、今この瞬間が特別で特別で仕方ないのだ。
この感覚をわかる人は一体どれくらいいるんだろうか。

だけど、幼い時の恋と今のとで決定的な違いは、私の「自我」にある。もっと言えば、その自我の有無が恋の神格化と関係している。
というのは、今は自我のはっきりと芽生えた状態の"私"というれっきとした人物が、自ら「この人が好き」と意志を強く持って選びとっている。
だけどかつての幼い恋は、当然幼い私がしていたものなので、自我もクソもなく、わけもわからず隣にいたし、わけもわからずまあとにかく"なんか好き"だったのだ。

当然これは今考えると、「なんであの人のこと好きだったんだろう?」状態である。全然わからない。(もちろんそうじゃないケースもある。そんな人には、感謝してる。)なんなら、何も思い出せないくらいだ。私があと2歳若ければ何かしら思い出せただろうし、なんなら引きずっていたかもわからないけど、今はどうでもいい。今もう一度好きになれと言われても、本当に難しい。
だけどそれに関して気をつけなきゃいけないのは、自我が芽生えてない時期に好きだった誰かなんて、まっすぐみれていたはずがないことだ。私が彼に都合のいい像を勝手に与えて、きっと虚像を夢見ていたんだろうという気がする。だから今「なんであの人のこと好きだったのかわからん」状態になるのは、相手に非があるのではなく、こちらに非がある。

けれどその、自我が出現しきった今はもう取り戻すことの出来ない、”わけわからんけどなんか好き状態”に私はどうやらロマンを感じている。今はよくわからんけど、幼く道理がわからないあの頃はめちゃくちゃすきだったことだけはわかる。それってオーロラの観測くらい奇跡的で美しいものじゃない!?みたいなかんじだ。今は自我を獲得しちゃってるから、私がどんな人であるかも、目の前の人がどんな人であるかも、もう少しまっすぐ見れるので、「わけわからん」ではなく「多少わけわかる」。

幼さゆえに愛だの恋だの自分だの他人だのなにもわかってないけどたしかに"好き"、なのは冷静に考えればちょっとおかしいが、その逆説的な構造に美学を見出してしまう性分らしい。
道理が皆無なので理屈の入り込む余地がなく、本能レベル∞なかんじが尊くて眩しい感じを与えるんだろうか。

なんだかなあ。



二つ目は、『過去に誰かを愛した証は今も自分の中に残っている』という価値観の"檻"のせいだった。そしてまたこれもおなじように、「投影」だ。

私は、仮に今その人を好きな気持ちを全然思い出せなくっても、過去に必死に向き合い愛したのならその痕跡は必ず今でも私に残っている、と思っている。逆も然り。誰かが私を愛してくれた痕跡は私の中に強く刻まれて、私の一部になっている。その人がくれた言葉、つけてくれた傷、見せてくれた世界、ぜんぶだ。

これを私自身が強く感じているからこそ、他の誰かもきっとそうなんだろうと思う。だから大好きな人を見つめる眼差しは、その人の過去をも同時に見つめてしまうのだった。

自分で自分を価値観の檻の中に閉じ込めて中から鍵をしているみたいな状態で苦しいけど、これは同時に受け止めるべきであり感謝するべき事実なんだろうとも思う。

めぞん一刻で五代くんは、響子さんの過去ごと全てを愛する、みたいなことを言った。私もはやく、五代くんみたいになりたいな。


三つ目は、つまらない独占欲だ。つまり、愛がおかしな方向へ行っている。独占欲なんて歪で正常じゃないものが発露したのは、まるで初めてかもしれない。やっぱりこの恋は、熱病なんだろう。



こんなふうに原因がわかったって、苦しいものは苦しい。なんか仏教の八苦って概念で、求不得苦みたいなのがなかったかしら。仏教思想をもう少し勉強すれば、私はこの苦しみから解き放たれるのだろうかな。



こんな感情的に書き殴っていたら論理のスイッチが全解除されちゃって、文章の終わらせ方が、わからなくなりました。

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