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【ショートショート】写経のススメ

 僕の彼女は多趣味である。

 とはまあ、かなり良く言ったもので。実際のところはまさにミーハー。しかも熱しやすく冷めやすいの超典型。熱しやすく冷めやすい人の教科書、なんてものがあれば掲載間違いなしだ。
 だがそのミーハーな多趣味も、自分の稼ぎの範囲内で行っているし、僕に強要する事もない。あくまで、自分が今したい事を出来る範囲でしているだけなので、別段文句をつける必要もない。しかも彼女は綺麗好きで不用品はすぐに片付ける為、物で家がごった返す事もなく本当に文句をつける必要がない。

 そしてそんな彼女が最近始めたのが写経だ。元々はボールペン字講座を受ける予定だったらしい。「字を綺麗に書きたい」と言っていたのはよく覚えている。今も十二分に綺麗なのにとコーヒーを飲みながら思ったのをよく覚えている。
 だが僕がどう言おうと、彼女は自分が納得出来ないと梃子でも動かない。こうと決めたらその道を突き進んで、その先はそれから考えるのだ。彼女のそんな性格を優柔不断な僕は羨ましいと思うが同時に、難儀な性格だとも思う。今ダイニングテーブルで僕の目の前で本を開き、手本を見ながら筆ペンをゆっくりと動かす彼女を見て、思う。

「始めると意外と楽しいね」
「僕にはただ字を書いてるだけにしか見えないけど」
「そう。書いてるだけなんだけど、無心になれるって意味で楽しい」

 果たしてそれは楽しいと言うのか? そう湧いてきた感想は呑み込んでおく。様々なものに関心を向ける彼女には、無心になれると言うのもひとつの楽しさなのだろう。僕には分からないが。

 ちっちっちっと時計の針の音と、筆ペンが紙の上を滑る微かな音。そして僕がコーヒーを飲む音。そんなテレビも動画もない静かな部屋で目の前で、すらりすらりと綺麗な般若心経が出来上がっていく。
 一区切りがついたらしくペン先を紙から離し蓋を閉めた彼女は、「さすがに手本みたいにはいかないなあ」と呟いた。その言葉に合わせて紙を覗き込むも、僕の目には手本のような般若心経しか見えず、「めっちゃ綺麗じゃん」と思ったままの感想をこぼす。彼女はペンでこつこつと「摩」の字をさした。

「ここ、無駄に反ってる。普段の手癖が出ちゃってるんだよ」
「うーん、まあそう言われればそうだけど別にバランスは取れてるしいいんじゃないの?」
「ダーメ。それが手癖なの」

 どうやら彼女は手癖が出てしまうのが許せないらしい。紙の隙間に再三「摩」の字を書いては眉間に皺を作る。あまり人に自慢出来る事でもないが字が汚い僕からすれば、彼女の手が書き出す「摩」は全部綺麗に見える。
 「んー」と低く唸った彼女は椅子から立ち上がり、「一回コーヒー飲も」とキッチンに向かった。すぐさま聞こえるそこそこの勢いがある水道の音。それがケトルに注がれる水の音。かちっとボタンを押す音。食器棚からマグカップを取り出す音。さらさらとインスタントコーヒーの粉末をマグカップに入れる音。
 そしてぱたっと冷蔵庫のドアを開ける音と、彼女の、「あっ」と言う嬉しそうにこぼれた声。

「ねぇ、チーズもらったの忘れてた!食べる?」
「うん。食べる」
「OK~。ふふっ、会社の今永さんにもらったの忘れてた。何かアメリカ土産の高級なやつらしいよ」
「へぇ」

 食器棚から皿とフォークを取り出す音と、彼女の鼻歌。かちっとお湯が沸いた事を知らせるケトルの音。ゆっくりとマグカップに注がれるお湯の音と、熱が加わって広がるコーヒーの匂い。
 ぺたぺたとスリッパの音を鳴らして、彼女がテーブルに戻ってきた。右手にはマグカップ。左手にはパンの祭りでゲットした白い皿。ことっとテーブルを陣取ったそれらを見ながら、皿に添えられていたフォークに手を伸ばす。
 並べられたチーズに突き刺してそのまま一口。うん。うまい。うまいが普通のチーズとの違いは僕には分からない。

「そう言えばさ、何で写経なの?ボールペン字講座受けたいって言ってたじゃん」
「どうせ書くなら有難みがある方が良くない?」


写経、始めました。


下記に今まで書いた小説をまとめてますので、お暇な時にでも是非。

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