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なぜ物語には終わりがある?

 カフェインを摂っても眠気に襲われる。そういう時は早く寝て早く起きるに限ります。ふとんに潜り込みアニメ『妖怪ウォッチ』を拝見。うわあ。泣ける。うわあ。笑える。うわあ。ジバニャン可愛い。わずか20分でこのストーリーこの展開。なんと完璧なシナリオなのだろう。物語に興奮して結局は目が冴えてしまう猫目です。皆さん。こんばんは。(こんにちは!

 さて本日のテーマは『物語』です。お待たせいたしました。皆さん大好き物語のお話です。物語に終わりがあるのは何故か。問いたい。是が非でも問いたい。本テーマをくれた女性も物語がだいすき。彼女は、漫画やアニメにも詳しく、お話するといつも発見がたくさん。猫目の描く小説を読んで頂くこともしばしば。いつもお世話になっております。

 では今日も「サクッと読める文章を」「なるべく短く」綴ることを心がけていきたいと思います。それでは本題まいります!


ああ、終わってしまう。

 物語が終わる。なぜ終わるのか。それは起承転結があるからだ。と言ってしまったらそこまでです。たしかに多くの物語には構成というものがあります。起承転結をもとにして創作されています。が、しかし。

 それは創作の断片に過ぎません。作者サイドの視点であり、構成をつくる上での基盤です。それと本テーマとは見方が異なります。なぜ物語に終わりが存在するのか。できれば終わって欲しくない。

 「何ですとー! つぎで最終回ですとー!」

 次で最終回と言われてもすんなり受け止めきれない。悲しいような。切ないような。そういう、もの寂しさは誰しも感じたことがあるかと思います。

「この一週間を乗り切れば大好きなドラマの放送がある」「金曜日になれば金曜ロードショーで映画が見れる」「明日になれば推しの声を聞くことが出来る」など。物語のために、ひとは計り知れない努力をすることが可能です。それは素晴らしいことに違いない。日々の生活の原動力に欠かせない。それが、物語のもつチカラ。さまざまな歴史を歩んできた文化の集大成。物語は私たちの人生を豊かにしてくれます。

 夢中になっていた物語がついに終わりを迎える。最終回。そういう事実に私たちは喪失感にも似た空虚な感覚へと陥ります。この途方に暮れる気持ちをいったいどうしたら良いのでしょう。

終わりがあるから、真剣だ。

 ここで思考の方向性を少し変えてみます。出来ることなら物語は終わって欲しくない。永遠に続いてほしい。猫目もそういう物語にいくつも出会ってきました。では仮にそれら物語に「終わり」つまり「結末」が存在しなかったらどうなのでしょう? 永遠に続く物語はいったいどこへ着地するのでしょうか。例えば物語の創作者がこう断言したとします。

「この物語は終わりません」「このお話に最終回はありません」

 それはそれは。よだれの滴る思いで口角にっこりニヤニヤです。良かったと胸を撫でおろす気持ちで作者を拝むことでしょう。物語は終わらない。シリーズ化を繰り返し繰り返しずっとずっと続いていく・・・いつまで?

「いつまでも」

 そう断言されたら確かに心はウキウキでしょう。ルンルンでしょう。しかし私たちは変わらずその気持ちをもって居られるのでしょうか。一年後……三年後……五年……十年……三十年……五十年後。きっと同じ気持ちでいられることでしょう。『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』『ポケットモンスター』『名探偵コナン』その他いろいろたくさんの物語は世代を超えてもなお、多くの人びとに愛され続けています。小説漫画アニメ映画音楽たくさんの物語は、時代が移り変わろうと色褪せることはありません。

 しかし敢えて言わせてください。終わりがあるからこそ、前の物事に熱中できる心の動きが存在していることを。「いつか終わってしまう」からこそ私たちはこれほどにも真剣になれる。これは何も物語に限って言えることではありません。世の中のあらゆることに同じことが言えます。

終わりのないモノは無い

 すべての物語には終わりがある。むしろ終わりのない物語など現実に存在しない。それは創作だけのお話ではありません。人生におけるストーリーにも同じことが言えます。命に終わりがあることもその一つ。地球上に存在している生物は皆ことごとく「始まり」と「終わり」をもっています。

 スケールの大きなお話になってしまいますが、この世に終わりの無いモノなど存在しないのです。地球にも寿命が存在するように、私たちにも終わりが存在します。生きること。そのこと自体がひとつの物語です。壮大な物語の中に私たちは生きています。

終わるコトで価値が生まれる

 私たちが普段「価値」を感じているもの。その最大級のものは「お金」でも「名誉」でも無い。おそらく「時間」でしょう。時間とは直接的に「生命」に関わるもの。時間には限りがある。なぜなら生命には限りがあるからです。限りのある時間を大切に思うのはもちろんのこと。価値のあるものとして認識しているのは言うまでもありません。

 ここで話を物語へと戻します。もし私たちが時間や生命に価値を感じているのだとしたら、限りある(終わりのある)物語でも同じ概念が認識として適応されます。つまり、物語に限りがあることにより、さらなる価値を見出しているというわけです。

「始まる」ために「終わる」

 何かが終われば、何かが始まる。どこかで聞いたことのあるセリフです。「終わる → 始まる → 終わる → 始まる」こういう循環は物語の外枠としておおきく動いています。イメージとして一つの物語は終わるも、次の物語へと転換または紡がれる感覚です。つぎの物語のために「終わり」を迎え、新しい物語が「始まる」といった循環のもと、物語は繰り返されています。

 日常で考えてみるとこれらは至って「ふつう」のことです。何かを終わらせて新しい何かを始める。始めるからにはいつかは終わる。終わらなければ始まることもない。また、始まらなくては何も終わらない。そういう循環の渦中に「物語」は存在しているのだと思います。なので終わることは必ずしも「悲しい」ことでない。悲劇では無いのです。

その実なにも終わっていない

 物語は終わっても実はその「世界」は終わっていない。物語の世界は続いています。結末へ向かう。最終回を迎える。シリーズが終わる。しかしこれは大枠の中のひとつのシーン(場面)が終わりを迎えたに過ぎません。物語の世界は今もなお、私たちの中に継続しています。

 先ほど上記でお話した「人生」についても同じです。実は誰ひとりとして完全に終わりを迎えてはいません。それは他者へ記憶として残るからです。

 猫目には、大切な大切な、宇宙でいちばん大好きなポメラニアンが居ました。ポメラニアンが死んでしまったとき。猫目は「終わりだ」と本気でそう思いました。「自分も終わってしまおう」とも考えました。だけど止めました。かれと「小説を書く人生を送る」ことを約束したからです。「小説の中でまた会おう」と約束したから。だから今も、こうして書き続けています。

 猫目が終わればポメラニアンも終わってしまう。存在そのものが消えてしまう。記憶は失われ、何も残らなくなってしまう。しかし猫目が人生を続け、物語を綴り続けている限り、ポメラニアンは今もここに居ます。かれが完全に終わることはない。猫目の中にちゃんと居ます。残っています。

キャラクラーは今この瞬間も生きている

 傑作といわれる作品のキャラクラーは、その形成がしっかり骨組まれています。あなたの前に一度姿を現したキャラクラーは「こちら側」の物語が終わっても「あちら側(彼ら側)」の世界で生きています。

 物語の中のひとつの場面が終わりを見せただけのことで、彼らには彼らの世界が存在しています。あちらの世界で彼らたちは今日も息をして生活を送っているのです。作品を生み出した作者の頭の中にいつも彼らが存在しているように。彼らと出会った私たちの中でもちゃんと生き続けています。

あちらの世界に時間は動く

 完成度の高い物語というのは「時間の軸」がしっかり築かれています。世界を構築するには「時間」と「人物(キャラクラー)」が必要不可欠です。他にもいろいろと世界観があるかと思います。が、それらはこうした2つの要素によって成り立ちます。物語には世界が存在している。

 それは時間と人物により構築された「あちら側」の世界です。あちらの世界が存在している限り、向こうに時間は流れ続けています。たとえ物語それ自体が終わりを迎えたとしても、人物を取り巻く時間(あるいは人物が存在しているからこそ創り出される時間)は不滅の存在です。

 結局のところ物語における、あちらの世界の時間を止めてしまうのは私たち自身です。あちらの世界の住人は時間を止めていない。私たちの概念(「この物語は終わってしまった」)が自ずと時間を止めてしまうことはあれど、あちらの世界の時間は動き続けています。

ちいさな連結

 世の中のあらゆる「終わり」には大枠小枠があります。そこから更に分岐された「終わり」の存在があります。マトリョーシカのように、いくつもの終わりの枠によって人生はつくられている。つまり何が言いたいのか。

 「終わり」というものは物語の中でいくつも起こっている、ということです。私たちの人生の中でも数え切れないほどの「終わり」と「始まり」が繰り返されています。世界にはこうした小さな終わりの瞬間が連なっている。そういう無数の小枠の「終わり」のまわりを大枠の「終わり」が包みこんでいる。そういうイメージなのだと思います。その意味では「終わり」は決して完成を指すものでもない。ましては一つの場面が終わったに過ぎません。

 物語は終わることなく続いている。物語を終わらせているのはこちら側の概念に過ぎない。よくできた物語には時間の軸がしっかり形成されており、そういう世界にキャラクラーは今もなお生きている。
 終わりというのは無数の連結である。終わりがあり、始まりがあるという循環のもと、ひとつの場面は終結を迎える。
 しかしそれらは完全に終わったことを示すものではない。

2022年06月11日

ウォルト・ディズニー(実業家・エンターテイナー)

『 ディズニーランドが完成することはない。この世に想像力がある限り、進化し続けるだろう。 』

宮崎駿(映画監督・アニメーター)

『 僕は自分たちの仕事をクリエイティブな仕事というよりも、リレーのように考えています。僕らは子どもの時に、誰かからバトンを貰ったんです。
 そのバトンをそのまま渡すんじゃなくて、自分の身体の中を一度通して、それを次の子どもたちに渡すんだという。 』


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