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表現するということは、まるで毎日のお料理のようなもの

わたしにとって書くということは、まるで毎日のお料理のようなもの。頭と心という冷蔵庫の中からいろんな材料を取り出して、切ったり煮たり、ときに揚げたり生で食べてみたりして、その日の自分にしかできない「今日の言葉」を作るような─そんな感覚。最高に美味しいものが出来上がる日もイマイチな仕上がりになる日もあるけれど、そんなサプライズ的要素もひっくるめて書くということが好きだ。両親曰くわたしは物心ついた時から本の虫で、ノートにびっしり物語を綴っては「将来の夢は小説家」とのたまう子どもであったらしい。それほど「書く」という行為が自分にとって大切な意味を持つことを、小さいながらに感じ取っていたのかもしれないと今では思う。

そう、今でこそ心からそう言えるけれど…ほんの数年前までわたしは、書くということに猛烈な苦手意識を持ち、自分には文章なんて書けないと本気で思い込んでいた。きっかけは高校時代の小論文の授業だった。

「〇〇について800字程度で意見を述べよ」といったごく普通の小論文。単なる練習でテストですらなかったから、適当に原稿用紙を埋めればよかった。でも、その時の私は書けなかった。書くことがまったく思い浮かばなかった。書いては消しを繰り返しどんどん過ぎていく時間、みんなが鉛筆を動かすカリカリという音…冷や汗をかき、お腹が痛くなった。どうしよう、何も浮かばない、何も書けない─そうして静かにパニックを起こしているうちにチャイムが鳴り、私は青ざめた顔でほぼ白紙の原稿用紙を提出することになったのだった。

「私は文章が下手だ」「意見を言葉にする力なんてない」「何も知らないんだ」「頭がカラッポなんだ」その思いが強迫観念となり、いつも心について回った。記述式のテストで満点が取れても、「感想文」「レポート」の類を見るたびにキリキリと胃が痛んだ。苦手意識というものの力は恐ろしい。できないと思い込んでいると本当にできなくなるのだ。そしてできないとわかっているから、その対象を遠ざけるようになる─こうして私は、書くということを極度に恐れ避けるようになった。

そんな私が、こんな風に自分の想いを自発的に綴るようになったのはいつからだろう?はっきりとは思い出せない。おそらく、それには具体的なきっかけや明確な時期がないからだと思う。私のトラウマは、まるで降り積もった雪が春の太陽に溶かされていくように、ゆっくりと時間をかけてほどけていったのだけれど、それを可能にしてくれたのが心から信頼できる友人や恋人たちとの出会いだった。

彼らとの絆は、本当に多くのよろこびを与えてくれた。そこにはいつも愛にあふれたやりとりがあり、自分の想いを言葉にのせ伝えれば、相手からもあたたかい愛の言葉が返ってきた。受け入れ、受け入れられる場所があった。そうしているうちに、だんだん私は気づいたのだと思う─書くって怖いことじゃないんだ。上手いも下手もないんだ。だって書くという行為の本質には「自分を表現することで相手を理解したいという愛」があるのだから。そうして私はまた、人生の原点に─書くということに戻ってくることが出来た。

私たちはみんな、大切なものを「好きだ」と叫ぶことも、それを自分に禁じて封印してしまうこともできてしまう存在だ。上手いとか下手だとか合格だとか不合格だとか、そんな評価のフィルターを振りかざされれば誰だって怖気づくだろう。書くということを禁じ封印していた時代、私が何よりも恐れていたのは書くという行為そのものではなく、「誰にも受け入れてもらえないかもしれない」という恐怖が現実になることだったのだと思う。

じゃあ今は怖くないの?と聞かれれば、もちろんそんなことはない。誰にも見せないノートに自分だけの物語をつづり満足していた子ども時代にも戻れない。けれど、それでいいのだと思う。私は分かったのだ─どんな言葉を綴ろうと、受け取ってくれる人はいる。愛を返してくれる人はいる。プロと名乗る資格などなくても、100万人に読んでもらえなくても、届く人には必ず届くだろうし、届かなくたっていい。だって結局、書くことだって歌うことだって撮ることだって、表現というのはすべて自分のためにある毎日のお料理なのだ。誰かに「美味しいね」って言ってもらえるのはもちろんうれしい。でもたとえ自分以外テーブルに誰もいなくても、私が笑顔になれる栄養いっぱいの料理ができればそれでいい。書くって、本当はそれくらいがちょうどいいんじゃないかなと思うのだ。表現って、本当はもっと自由で愛に溢れたものに違いないのだ。

Kana










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