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嘘も本音を隠す事もない場所──インスタレーション芸術の空間に佇む時に。

人間は、思ってもいない事を言う生き物ですね。

好きでもないのに好きなふうを装ったり、嫌いなのに渋々付き合っていたり。
「私、信じてるからね!」って強調する時は大概、もう信じられなくなっている時です(笑)。

そうは言っても、何となくにもそういう事を積み重ねて、この集団生活やら社会生活というものを、つつがなく送ることができているわけですね。
人間とはよくできたものだと思います。

私は残念ながら幼稚園の年長組の時にこの社会生活から落伍して、小学校で何とか這い上がるも、再びすぐに真っ逆さまの登校拒否児に。以来、社会生活に一応復帰はしたものの大いに戸惑ったまま、物言わぬ虫や路傍の草木にいつも救いを求めて逃げ続けてて、考えみると今日まで、ゆるゆるとリハビリを続けている、そんなような人生です。大袈裟ではなく、本当にそんな気がしています。
そのようなわけで、本心の探り合いなどしなくて済むような、虫や植物といった人間社会以外のものは、私にとっていつでも大きな安心であり、喜びなのです。

しかしもっともっと、私を積極的に喜びの中に浸らせてくれるものがあるという事に、いつしか気が付いたのでした。しかもそれは紛れもなく人間世界のみが生み出すものです。私を落伍させたはずの、人間世界のみが。

インスタレーション芸術というものは、その空間の隅々にまで作家の意識が張り巡らせてあります。その意識の中に、鑑賞者は入っていくのです。

もし、作家側に「お前なんかにこれが分かるか」「どうだ凄いだろう」という意識があったとしたなら、それがあればあるほど、インスタレーションは成立しません。何故なら肝心の鑑賞者が入る余地が消えるからです。作家の意識と意図が満ち満ちた空間に鑑賞者が入る事ができるのは、作家が鑑賞者である私を意識しているからです。私という存在を認識してくれているからです。作品であるこの空間に私を招き入れ、しっかりと存在させてくれているからです。作家が、その作品と全く同等に私を認めて受け入れているから、なのです。
その意識という眼差しの中に、本心ではない説明や嘘は存在し得ません。もし嘘があったならば、鑑賞者は空間の中で、少なからず傷つくでしょう。理由は分からなくても、そんな寂しい気持ちになるはずです。作家の世界の中に自分が存在させてもらえなかった、という事なのですから。

作品が制作されている段階ではまだ見ぬ、作家と鑑賞者である私たち。展示がオープンして、鑑賞者が足を運んで、そこでようやく出会う私たちは、信頼によって出会うわけです。意識をゆきわらせてくれる、それを受け取ってくれる、私たちの信頼。
信頼の上で、私たちは驚き、信頼の上でエロティシズムに浸り、たまにガッカリもしたり……(笑)。 “まだ見ぬ何か” を見に行く時に、怖さはつきものかもしれません。それでも信頼があるから乗り越えて、鑑賞者は足を運ぶんですね。ですから鑑賞というのは単なる受動的な態度ではありません。こうした心の揺れを越えて、作家の誘いの場所へと勇気を持って駆けつけるわけですから。積極的な行動なのです。 


インスタレーションの中に佇んでみて、何かが……自分の中の何かと、ピッタリとフィットした。時間が止まった。そういう経験、ないですか?

展示からの帰り道に、心の中でこっそりと、

「さっきあの中で、私と作家は一つになっていたのかな。ひととき両想いになっていたのかな……」

そうなふうに考えてみて、フッと安堵した事がないですか?

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