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短編小説『Voice of J~ 迷走の未来(⚠️前編)』:パンデミックに揺れる激動の転換期を、ニヒルで謎多き裏社会の哲学者Jが読み説く!

※ note 会員でない方にもご購読いただける有料記事です。前後編で各記事の半分までは無料で公開しています。尚、本作は、2012年に株式会社文芸社より出版した社会派ミステリー小説PHASE(フェーズ)の登場人物を活かしたスピンオフ作品の一つですが、本編を知らない方でも問題なくお楽しみいただける読み切り型の短編小説です。

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注:この作品はフィクションであり、実在の人物、地名、団体とは一切関係ありません。また、特定の登場人物の意見や主張が、100%そのまま作者である私の考えや価値観を反映した「作者の信念や言いたいこと」というわけではありません。


2020年4月末頃。


 事態収束の兆しがまだ見えそうで見えず、すべてが手探りの五里霧中だったこの日、自宅の窓では、無地で光沢のある分厚いブルーグレーのカーテンが、月夜を縁取る窓枠に音もなく揺らめいていた。

 宮本が暮らす都内のマンションは築8年程度の12階建てで、10階の角部屋を1DKで借りていた。彼の今いる6畳の部屋には、飾り気のないシングルのベッドがあり、機能的で幅を取らない木製のデスクが窓際に設置されている。ベッドとの間のスペースは極めて狭いが、かろうじて椅子を引くことはできる幅だ。

 しかし宮本は今、その椅子にすら腰掛けてはおらず、ただでさえ狭い部屋の片隅で、床に座り込んでうずくまっていた。今世界中を騒がせている新種のウィルスがもたらした、まさかのパンデミックと大恐慌のために失業してしまい、塞ぎ込んでいたのだ。宮本は、自分にとって人生最大の汚点とも言うべき判断ミスで、かつて危ういカルト教団と関わり合ってしまったことがあるのだが、そのことが知れて、大学卒業以来ずっと勤めていた保険会社は数年前に辞めてしまっていた。その後どうにか見つけてきた調理場の仕事にようやく慣れ、チーフの立場を任されるまでになったというのに、このザマだ。

 今は皆が同じ問題に悩まされていて、自分のような失業者も世に溢れかえっているのだが、それゆえに一層、次の仕事など見つかりそうになかった。せめてこの混乱が、この狂気が、過去に見たあの教団のように一部の限られた集団の内側だけのもので、外にはまともな世界が開けているという安心感があれば、出口を目指して抗う意欲も沸き起こるだろうに。自分の進むべき先が、未来への扉が、まるで見えない。希望がない。

 そしてついに宮本は、禁を破って『彼』を呼び出してしまった。

 かつて彼とともに推し進めた対教団の地下活動が終了し、彼が日本を発ったら、それ以降は一切の接触を断ち、決して不要な連絡を試みてはならない。そう念押しされていた。互いの身の安全のため、そしてあの活動にかかわる多くの守るべき秘密のために。

 だからその後一年半近く経った頃に、一度だけ彼の方から連絡をくれたとき、宮本は大いに驚いた。嬉しい反面意外だったのだが、話の内容から程なく納得した。彼と皆で成し遂げたあの命がけの地下活動によって、次々に法の手に捕まっていった教団関係者たちのその後の動向や、裁判の進捗状況について詳しく知りたい、とのことで、当然と言えば当然の話だった。何しろ彼は、元信者や被害者の会のメンバー、教団に命を狙われたり家族を奪われたりした人達などで構成されるあの地下グループを、束ねて指揮してきた中心人物だったのだから。問題解決に向けて本格的に動いていたのは約半年程度でも、それに必要な人材発掘と情報収集は何年も前から始まっていて、メンバーは皆、彼が一人一人自分で見出し、使える協力者へと育て上げていったのだ。

 その初期の頃からのメンバーで、教団内部から彼に必要情報を提供する重要な協力者の一人だった宮本は、今回、迷いに迷った末、たまらず彼に連絡を試みたのだった。あの教団に関することで万一何か特別な問題が起きた時にだけ、という条件で使用することを許されていた連絡先に、彼に教わった通りの方法で秘密の合図を送信して。後は、彼からの折り返しの連絡を待つのみだった。

 宮本はそこで、ふと時計に目をやった。短針長針のあるアンティークなデザインの置き時計で、21時39分を指している。ずっと見つめていると、時計の針が動く度に不安が増していくので、宮本は程なくその時計から目を離し、待機状態で真っ黒の画面になっているノートPCに視線を向け変えた。彼からの連絡は、デスクの上のその端末を通してくるはずだ。

「── わかっている。そんなことは、ちゃんとわかっている。それでも・・・・・・」

 連絡を待つ間、自分以外には誰もいない部屋の中で、宮本はひたすら自問自答を繰り返していた。

 そう。本来こんな個人的な感情を理由に、彼を煩わすべきでないことは承知していた。彼にとっては何のメリットもないどころか、ひょっとすると、宮本には想像もできないような形で、彼に何らかのリスクを負わせる行為なのかもしれない。相手はあの彼なのだから、きっとそうだ。

 教団との関わり以外には、ついぞ彼の正体 ── 職業や国籍やその他の活動の有無、普段の日常の過ごし方や交友関係など、一切何も知らないままだったが、常に敵が多く、危険と隣り合わせの道のりを歩んできた裏社会の住人だということだけは、その言動の端々から宮本にも伝わってきた。個人的な話を頑なに避けていたのも、そのためだろう。そして彼は当然、自分の帰省先、つまり今暮らしているであろう場所についても、誰にも教えずに去っていった。「日本を発つ」と表現していたからには、外国のどこかには違いないだろうけど。

 その時だった。

 開いたままにしていたノートPCの待機画面が、ふと独りでに切り替わった。そこに映し出されたのは、窓も灯りもない独房のような印象のある暗闇の中に、うっすらと輪郭だけを浮かび上がらせた人物・・・。

 ── 彼だ。

 宮本はハッと目を見開いて立ち上がると、窓際のデスクに駆け寄って、PCに顔を近づけた。画面上は暗すぎてディテールが見えなくても、かつて何度も見た彼の姿 ── 黒い髪と翡翠石のような緑色の瞳が特徴の、シンメトリックで彫りの深い東欧風の顔だちが、瞼の裏に今もはっきりと焼き付いている宮本には、記憶の中の残像を頼りに、その姿をなぞることができた。ほぼ黒一色に塗りつぶされた画面の奥から、独特のニヒルな翳を湛えたあの切れ長の眼で、真っ直ぐにこちらを見据えているのだろう。彼とは対照的にゆるい顔立ちをした、少し幼い印象のある宮本の卵型の顔を。

 ・・・・・・やっと・・・やっと会えた。あのJに。

 宮本は会話も始めないうちから、安堵で思わず泣き出しそうになっていた。前回連絡をもらったときは、声だけのやり取りで映像はなかったので、たとえ直接でなくオンラインでも、「会えた」と表現できるこの状況は、心底ありがたく、嬉しかった。

 それなのに同時に、宮本は彼を責め立てたいような、矛盾した衝動にも駆られていた。胸が詰まって、挨拶の言葉すら出てこないまま。話をしたいと合図を送ったのは、こっちの方なのに。

 宮本がなかなか切り出せないようなので、やがて彼の方から声をかけてきた。

「── 久しぶりだな。何があった?」と。

 彼は当然、教団の問題を念頭にそう問いかけたのだろうが、色んな思いが溜まりに溜まっていた宮本は、その一言を聞くなり、堰を切ったように感情を爆発させてしまった。

「『何が』じゃないですよ! わかっているじゃないですか! 今世界中で何が起きているか、人々の日常がどう変わり果ててしまったか・・・!」

 あなたの言葉とは思えない、とでも言いたげなニュアンスで、開口一番にそう突っかかってしまった宮本は、程なくハッと自分の口を手で押さえていた。

 ── なんて言い方をしてしまったんだろう。こんな・・・こんなはずでは・・・・・・。

 それこそ、自分の言葉とは思えなかった。相手は、日本を離れた後も宮本にとって長い間ずっと心の支えだったあの彼だ。本当なら、かつて人生を救ってもらったお礼を言うところから始めて、会えずにいた数年間の積もる話をするはずだった。徹底した秘密主義なので、きっと教えてくれないだろうけど、できれば何気なく彼の近況を訊いたりもして、再び言葉を交わせる喜びを噛み絞めたかった。

 しかし、今はあまりにも状況がひどすぎる。

 感染症による脅威は、健康問題だけに止まらなかった。今や世界中の経済が麻痺してしまい、各国が、グローバル化の反動とも言える鎖国状態に陥っている。人々は必要に駆られて自宅に閉じこもりがちになり、互いに他人を避けて暮らす毎日。あちこちで都市封鎖や外出制限などの対策が取られ、何かと対応の遅れがちなここ日本でさえ、緊急事態宣言が発令される騒ぎになった。

 強硬策に出がちな諸外国とは違い、いかにも日本らしく拘束力のない宣言だったが、結果として、逸脱した行動を取る者がいないかどうか、隣人同士、国民同士で行動を監視し合い、行きすぎた正義感から他人に制裁を加えようとする一般人まで出てくる始末。自由意思など、もはや存在の余地をなくしたも同然。さながら監視国家か何かの思想矯正のようだった。例のカルト教団の中で起きていた、集団ヒステリーに共通する構図さえ見て取れる。

 予想だにしなかったまさかの事態だ。周りを取り巻く環境が短期間でガラッと様変わりし、世界中がすっかり『有事』のモードになってしまったのだから。

 そんな中、リモートワークやテレワークへの切り替えどころか完全に失業してしまったため、仕事仲間とのやり取りすらなくなっていた宮本は、ここ何日も誰とも言葉を交わしていなかった。一人で考え事に耽ることぐらいしかできることがなく、不安ばかりが膨れ上がっていくこんな時に、感情的になるなと言う方が無理だった。

 でも今のは、完全にただの八つ当たり・・・・・・甘えの裏返しだ。

 そんな宮本を前に、彼の方はというと、ほぼ全人類が同じ問題に直面しているはずのこの状況でも、かつてのままの変わらぬ落ち着きように見えた。暗さで表情までは読み取れなくても、画面越しに伝わってくる凛とした空気と、辛うじて目に見えているシルエットがそう物語っていた。画面の向こう側の彼は微動だにせず静止したまま、無生物的なまでに落ち着き払っている。宮本の知る以前の彼そのままに。

 ・・・・・・いや、ひょっとすると内心は、さすがの彼でも動揺しているのかもしれない。でもそれをいきなり表に出したり、他人にぶつけたりはしない冷徹なまでの理性と品格、慎重さが備わっている。そういう人だ。

 どんな時でも決して取り乱した姿を見せない彼の、どこか懐かしみのある沈着さを受けて、宮本はようやく本来の調子を取り戻していった。

「── す、すみません。こんなことを言うつもりじゃあ・・・。まさかあなたに当たるなんて・・・・・・」

 宮本がやっとのことでそう言うと、不意にフッと空気の漏れるような音がして、暗闇に浮かび上がる彼の輪郭の、ちょうど口があると思われるあたりが、僅かに動いたように見えた。

 それから彼は一言、こう加えた。
「とりあえずは、無事で良かった」と。

 聞く者をヒヤリとさせる低い声は相変わらずなのだが、その中にも、不思議と清涼感や包容力のようなニュアンスが含まれていて、宮本を大いに安心させてくれた。やはり彼はさっき、静かに笑いかけてくれたのだろう。表情の変化が表れにくいあの鋭い眼の下で、持ち前の薄い唇を微かに動かして。

 そんな彼に対して申し訳ないとは思うのだが、近況報告で前置きをするような話の流れをすっかり作り損ねてしまった宮本は、この際、単刀直入に本題に入ることにした。目の前の大きな問題だけに焦点を絞って。

「── J、あなたはかつて、こんな話をしてくれましたよね。物事は見方次第。どんな相・どんな状態も、広い視野で多角的に見れば、優も劣もなくただ違うだけ。あとはそれを解釈する人たちそれぞれの都合や、合うか合わないかの問題だけだ、と。そして、この世界はそれなりにバランスが取れているもので、プラス・マイマスを言うなら絶対値はゼロになる、とも」

 宮本のその言葉を受けて、彼は慎重に言葉を選ぼうとしてか、少し間をおいてから答えた。
「確かに、そんな話をしたこともあったな」と。

「だからどうしても、聞きたかったんです、あなたの口から。今の状況において、あるいは、ウィルスとともに暮らさねばならないこれからの世界において、僕達にとっての『プラス』とは何なのか。僕達人類は、一体どこへ向かおうとしているのかを」

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