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さよならビターチョコレート

仕事終わり、閉店間際の百貨店へ足早に向かう。毎年この季節になると、バレンタインフェアの催事が行われる。店内は、過剰なくらいに暖房が効いていて、チョコレートが溶けてしまうんじゃないかと心配になる。人気のチョコレートはすでに売り切れていたけれど、一つだけ4個入りの小さなチョコレートボックスがこちらを見ていた。

「これ、ください」

店員さんの「ありがとうございました」に「ありがとうございました」で返して、わたしは百貨店を出て歩き始める。

あぁ、きっとさっきの店員さん、わたしが誰かにあげるために買ったと思っているんだろうな。残念ながら、これは自分へのご褒美にいただくのだ。年に一度のチョコレートの祭典は、この一年間を頑張って乗り越えた自分のための日だと思っている。

 帰り道、紙袋から小さな箱を取り出してみる。行儀が悪いけれど、一粒だけ食べてみよう。するとポロッと何かが落ちた。拾い上げるとメッセージカードのようなもので、手書きで何やら書かれていた。

お買い上げありがとうございます。
当店のチョコレートは、深いコクとほろ苦さが特徴となっています。
オトナの方にぴったりなビターな味わいをお楽しみください!

テンプレなのかもしれないけれど、手書きだとちょっぴり嬉しい気持ちになる。チョコレートなら何でも美味しいと感じるような人間のくせに、通っぽく小さな粒を半分だけかじってみるなどした。

「うん、ほろ苦さの中に、深いコクがあっておいしい」

それっぽいことを言ってみる。というか、書かれていたことをそのまま言っただけだけれど。オトナになった私は、甘いチョコレートよりもほろ苦いチョコレートが好みになっていた。昔は、とにかくスイートでマイルドなミルクチョコレートが好きだったのに。

 バレンタインの季節になると思い出すことがある。わたしが高校生の頃、好きだった人にチョコレートを渡そうとしたこと。「渡したこと」ではない。「渡そうとしたこと」だ。そう、わたしが企てたチョコレート革命は無事失敗に終わる。青春は甘酸っぱいなんていうけれど、わたしが知っている青春はもっとほろ苦い。


 きみと出会って3回目の2月。春になれば、何となく会わなくなるような気がしていた。最初は、同じクラスの男子Aだったきみのことを、次第に目で追うようになり、話しかけるたびに緊張するようになり、いつしかベッドの上で考えるようになっていた。人は、これを恋と呼ぶのだろう。真面目に授業も受けず、部活で青春を送ることもなかったわたしが、高校3年間で唯一大切にしてきたものだった。

想うだけでもよかったのに、もう会えなくなるかもしれないと考えると急に心臓がきゅっと音を立てた。これがラストチャンスだと思って、私は決心をする。バレンタインの日にチョコレートをわたそう。そして、3年間大事にしまい続けてきたこの想いを伝えよう。

 まだ2週間の猶予があると思っていた日々は、あっという間に流れていく。チョコレートのことよりも、どうやって告白するかとかどうやって呼び出すかで頭がいっぱいだった。シンプルにいこう。どうせ本番は、うまくいくとは限らない。出たとこ勝負でいってやれ。そう自分に言い聞かせる。


 当日わたしは、かばんの中に丁寧に包装した箱と手紙が入っていることを何度も確認した。結局、直接伝える勇気もなく、机の中にこっそりチョコレートとラブレターを入れておく作戦でいくことにした。いつもより早めに学校へ向かう。きみの席は、わたしの右斜め前だ。ギリギリ見えるきみの横顔が好きだった。

作戦だの何だのあれだけ考えていたのに、実際に作戦を完了してみるとだいぶ時間を持て余す。なぜか何度も教室とトイレを行ったり来たりして、トイレに行くたび前髪や服装を整えた。次第に登校してきた人たちで、席が埋められていく。そろそろきみが登校する時間。けれどきみは来なかった。

最初は寝坊したのだと思ったけれど、予鈴がなってもきみは現れなかった。今日に限って遅刻かもしれない。けれど、お昼になっても授業が終わっても、ついには放課後になってもきみは来なかった。わたしは、誰もいなくなった教室で右斜め前の机の中から、見覚えのある箱と手紙を取り出した。


 自宅近くまで瞬間移動して、ふと我に返る。どうやってここまで来たのかわからないほど、わたしはただ呆然としていたらしい。何となく家に帰る気になれなくて、わたしは近くの公園まで歩くことにした。

「はぁ」

ベンチに腰掛けて、ため息をつく。白い息が消えていくのを見て、また息を吐く。何かを考えているようで、何も頭に浮かんでこない。頭が真っ白になるってこういうことなのかもしれない。そして心が空っぽになるというのも、こういうことなのかもしれない。思い立った日から今日まで、ただ無我夢中に走り続けてきたわたしの心は、すでにガス欠になっていた。

 かばんから箱を取り出す。包装をビリビリに破いて、歪な形のチョコレートを一つ手に取った。何となく半分だけかじって、味を確かめるように舌の温度でゆっくりと溶かす。

「ほろ苦いな」

甘いのが好きなきみのために、ちゃんと甘くしたはずなのに。わたしのここらへんにじんわりと溶けていって、目の奥が熱くなっていくがわかった。その瞬間、強い風が吹いてわたしの前髪を乱した。あぁ、きっとわたしの涙を誰かに見られないように隠してくれたんだ。例年より、少し早い春の嵐だった。このまま、このよくわからない感情も何もかも、どこか遠くへ吹き飛ばしてくれたらいいのに。

 翌日、いつも通り学校へ向かう。今日もきみはいない。朝礼のときに先生から、きみが遠くへ引っ越したことを聞いた。家庭の事情というやつらしい。こっちの事情も知らないで勝手なことを言うなと、なぜか先生に心の中で八つ当たりした。


 あれから7年。わたしは、大学を出たあと東京の企業へ就職した。社会人3年目を迎えて、大人の事情というのも理解できるようになった。世の中は、理不尽で不義理だということも知った。それでも近所のおばあちゃんは優しいし、徒歩5分のところに安い居酒屋はあるし、自分の機嫌の取り方も何となくわかるようになっていた。ギリギリのところで食らいつきながら、わたしはこの街を生きている。

残りの半分を口に放り込んで、わたしは再び歩き始めた。その瞬間、あの日と同じ強い風が吹いた。手に持っていたチョコレートの箱が飛ばされて、コンクリートの地面にコトンと落ちる。

「大丈夫ですか?」

誰かが箱を拾い上げて、そう言った。

「大丈夫です、ありがとうございます」
「そうですか、風が強いので気をつけてくださいね、では」

去り際、ギリギリ見えたその人の横顔は、何だかきみに似ている気がした。


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