シンプルで究極な「過ち」を理解する

書き言葉でまとめるにはスピードが追い付かないような自分の中の理解、気づきの光が到来していて……
noteで記事としてその内容をシェアするよりは、話してしまう方が早い! とばかりに、最近はライブ配信を集中的に行っていた(アーカイブはYouTubeで公開しているのでリンクからどうぞ)。

理解といってもほんのすれすれの近いところまで来ていたのに、まだ掴めてなかったんだ! とわかる理解で、あちら側に辿り着くための何か橋のようなものを思い浮かべるなら「最後の接続部」という感じかな。
あちら側というのは、私が望んでいる「完全に目覚めた状態」を指す。

私たちがこうも「不確定な状態」に眠り込むのには、大変驚かされる。
自分は何であるかというアイデンティティーの度合が簡単に上下し、いともたやすく創造者の座から転げ落ちて「作品内の登場人物」に入るようだ。

でも、これはやはり「本当に納得できてない、気づけてない」からなのだ。
そう、自分が何であるかを!

「気づいている状態」もしくは「その非常に近くまで来て目がだいぶ覚めている状態」のとき、私は日頃の自分が何をしているかにかなり笑わされる。
面白くなってしまうのだ!
こうも自分を「一個人」「登場人物」と思い込ませることができ、その中で何をしているか、盲目的に思考やフィーリングを発生させているのかということが。

そして、どういうときにその状態へズボッと足を引っ張られるかというと、「恐れ」があるときで、
でも逆説的だが、自分の中に「先にまず恐れがある」ということを理解していなければ、恐れはあたかも「外側に見える事象が引き金で生じたかのように」思えてしまう。

……そんなはずがない。
見ている世界、体験している世界はすべて「自分の外にあるかのように見ている、自分の意識が作っている夢」なのだから。

この、先に存在する「恐れ」というものが興味深い。
これまでも説明してきたように、その根源は、

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