自分にぴったりは存在する! 道具やライフスタイルの快適さ

こだわりを持ちすぎるとその人自身を窮屈にすることがあるけれど、すでにある違和感を無視したり、あきらめから「そういうものなんだ」と自分を納得させたりすることもやっぱり不自然である。
何かに対して「私が平気になればいい、受け入れればいい」という姿勢は、役に立つことも、立たないこともある。湧いてきた違和感や、不満を覚えたこと自体をネガティブに捉えた上で「耐える」なら、そんなことはやめた方がよく、それよりもあなたの望みを明確にしてストレートに叶える方向へと焦点を移した方がいいのだ。

「できない」と思っているとき、つまり自分の望みを実現する代わりに不満に浸っているときの気持ちを掘り下げると、「世の中そんなもんだ」とか「望みすぎてはいけない」とか、さらには「自分にぴったりの物事など存在しない」などの観念(思い込み)が出てくる。
その根底には「苦しみや困難があって当然だ」「何かを得れば何かを失う」「この世界に完璧はなく、必ず何かに耐えなければならない」などの人生観が潜んでいることもある。

すると、信じているその通りのことを経験し、さらにその思いを深めていく。それはまぎれもなく現実であるということを「自己確認」するのだ。

私は最近、自分にとっての過剰をなくし、必要なものや心惹かれるものだけを残すということに意識が向いていた。あたかも物質的な選択の行為や物理的要因に見える日常生活の物事も、自分の心のあらわれだということを再び実感していた。

その中で今回、具体的に取り上げるのは日常生活の道具「スマホ」で、長年ガラケー愛用者だった私がスマホ(iPhone)に変えてから1年半以上が経つが、やはりスマホは自分には要らないのではないかと思い始めている。
料金を抑えたいなどの経済的観点からではなく、私には使わない機能ばかりな一方で、使いたい機能の使い勝手は特に良くないと感じているからだ。

しかし同時にこの話題は道具やライフスタイルのことのみならず、人生全般に言えることを語っている。どんなことであれ、あなた自身の心当たる事象を思い浮かべてこの記事を読んでほしい。

時代の流れだと自分を納得させつつ持ったスマホ、不要であることを実感

私がスマホに変えた背景は、使用していたキャリアの3G携帯サービスが近い将来終了するため「そのときまでに機種変更をしてください」という知らせが度々届き続けており、ずっと使い続ける選択はもうないんだなと意識していた最中に愛用していた携帯電話の本体が思いがけず劣化、かろうじて機能面は問題なかったのだが、操作に差し支えが出ていたことからだった。
型が古いので部品がなく、修理は無理だとわかった。中古で状態の良い同じ機種を購入しての機種変更すら実行したのだが、その商品は壊れていて頓挫した。
2020年1月の記事◇「ガラケー家族がスマホにしたら。スピリチュアル視点をまじえて語る【1】 【2】 【3】」という連載で、そのいきさつや当時の私が感じていたことを読むことができる。

後継機としてフィーチャーフォンと呼ばれるスマホでない携帯電話を選択するなら、現状、新規購入できるのは「ガラホ」と呼ばれるタイプのものだけだった。見かけはかつての携帯電話と似ているが中身はスマホに近く、料金プランもスマホを使うのと変わらないか割高になるくらい。あえてガラホを選ぶことにメリットは感じられず、それならばスマホでいいだろうと思ったのだが、上記リンク先の過去記事で語った通り、「欲しい」と自分が思えるスマホはなかなか見当たらず(それはそうだ、自発的にスマホが欲しかったのとは違うから)、積極的な買い物とは言い難かった。

けれども購入した後は、私にもスマホの魅力がやがてわかるのだろうと期待した。便利さや、スマホならではの良かった点が発見できるだろうと。

――けれども。無かったのだ。
私が主に使うのは(使用頻度が少ないものもあるがかろうじて入れると)、メッセージ、電話、メモ機能、メール、目覚ましか。

なにせパソコンを毎日使うので、ほとんどの用事はパソコンで済んでしまう。そしてパソコンの方が使い勝手がずっと良い。
(ちなみにパソコンは2020年の6月末◆「新PCを手放し、別のPCを購入した話【今の自分のエネルギーに揃えること】」そして◆「予想外の満足に心を開こう!」の2つの記事で綴った通り、レッツノートの14インチに買い換えたらとても使いやすくて、今も満足している。私のニーズにぴったりだったようだ。ノートパソコンの中では大きめな方なのに軽いから、持ち運びも苦にならない。ますますスマホが要らなくなる……という感想!)

私がスマホでネットを閲覧して驚いたのは、広告の多さだ。リーダー表示にするなど可能な対策はあっても、そうすると表示できなくなるサイトもあるので全部に適用とはいかない。パソコンで開けばそんなことはないサイトにも、スマホだと広告が主役? と言いたくなるくらい目立つ広告が躍り出てくる。気が散って煩わしく、内容を読み進めても中身が入ってこなくなるほどだ。YouTubeの動画にも同様の感想を抱いた。

はじめの頃こそ、せっかくスマホを持っているのだからと寝る前にわざわざ横になりながらネットを閲覧してみたりもしたが、ちらつく広告に見づらい思いをしながらなぜ、こんなちまちました画面で見ているのだろう……PCもあるのにと腑に落ちず、結局スマホでネットを見ることはしなくなった。
せいぜい外出時に、電車の乗り換えの時刻情報を見ることがあるくらいだ。

スマホ使用が欠かせないライフスタイルや仕事の仕方もあることを理解している。だからこそスマホは売れ、進化もしていくのだろう。
けれども、スマホ購入前の記事から書いていたことだが、ノートパソコンを毎日使い、主に在宅で仕事をする私のライフスタイルには、スマホの意義はやっぱり薄かったのだ。否、もはや「無い」と断言していいのではないか。

一年半以上が経ってみて、スマホを持つことで私の心が喜ぶこと、ときめく要素は皆無に等しいことがわかった。以前の携帯電話よりも重たいし、内蔵されている機能やたくさんのアプリは使われないままになっている。スマホを何のために持っているのかわからなくなってきた。
自分がiPhoneにしてから、私の友達はiPhoneの利用者がわりと多いことに気づいたが、かといってコミュニケーションは以前と同じように話したいときは電話、それ以外はメールで事足りていて、あえてiPhone同士(あるいはスマホ同士)でなければならない条件を感じることもない。

この状況に私は「時とともに慣れる」ことを念頭に置いてきたが、そろそろ慣れなくてもいいのでは、自分のライフスタイルにしっくりくる道具に変えてもいいのではと結論して、本格的に別の方法を吟味することにした。

今の快適さのためにiPhoneのキーボードをGboardに

もっと言えば、iPhoneは私にはストレスになる要素があった。設定で何とかなるところはどんどん自分で程良いように変えていったのだが、キーボードが「使いにくい……」「日本語変換がなぜ、こんなにおバカ?」と正直感じつつ、「これに慣れるしかない」と耐えてきたのだ。

日本語変換に関しては、私が常日頃から文章を打つことに自然と多くの意識を注いでいる人間だからなのかもしれない。Macbookシリーズを使っていた頃にも文章を打っていると変換がおかしいことに耐えられなくなり(前述のリンク先の記事にこのことも書いている)、ソフトの導入も検討したものの結局手放して、他のWindowsパソコンを買い直す動機のひとつになった。
けれども身近にいるMacやiPhone使用者は気にしていない、気になったこともないと言うから、日本語変換に私は注意が向くタイプなのだろう。

今後スマホをやめる可能性を見つめているにしても、たった今の「快適さ」を最善を尽くして実現することも大切だ。キーボードについては自分自身が「些細なこと」と軽んじてしまっている面がなきにしもあらずだったので、以前から見当はつけていたGboard(Google キーボード)をこの機に使用してみることにした。

すると、いかにこれまでのキーボード操作がストレスだったかがわかった。

Gboard - Google キーボード(iPhone向けダウンロードサイト、Apple Store)

なんというのだろう、Gboardを使ってみて、これだったら過去の携帯電話を使っていた頃や、パソコンの文字入力の感覚と変わらずにポンポンいける、と快適に感じた。物理キーではないタッチパネル上でフリック入力をしているという違いだけだ。それについては慣れたので問題ない(私はスマホだとフリックの方が便利だが、もちろんフリック入力でない設定も選択可能)。
変換も使いやすいし、「痒いところに手が届く」という実感。こんなに楽になるとは予想していなかった。

オマケ的な要素ではあるが、キーボードのカラーを変えられるのも楽しく、色味もきれいで優しいものを選べるので、好みの色にすると気分がいい。
スマホ操作の中でキーボードってけっこう長時間目にするものだものね。

Gboardについては使用し始めて間もない私の感想になるけれど、iPhoneのキーボードや変換がしっくりこない人には自分好みのキーボードを探してみることをおすすめする。使い勝手がぐんと向上するかもよ。

私は、ははぁー、こんなことならiPhoneのキーボードに無理して慣れようとせず、早くにこちらへ変更すればよかった、なにせこれは私のスマホなのだから私の感性に従って最善のものを選べばよかったね、と思った。しかも、費用すらかからず無料でできてしまう。自分の感覚を軽んじず、望むものをしっかり見据えれば簡単に実現できることだったのだ。

既述の通り、私のスマホの使い方ではキーボードには毎日触れる。この変化はうれしい。

時代の流れだと自分を納得させることすら不要【自分の住みたい世界に住むこと】

このように日々のなにげない出来事を通してはっとするのは、私はまだどこかで本当の望みを打ち消す「あきらめ」、自分が「外界」に合わせなければならないという観念を維持していたということだ。

外界とは自分の「内」が外に反映されたもの。自身の意識の中で限界を信じたら、それは自分の外にある限界として体験されるのがこの世界だ。
平たくいえば現実とは、「私」の意識が見ている夢だからだ。

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