一日、一虫(いちにち、いちむし)。虫へのこもった熱い想い

一日、一虫を心がけるようになった。一日一善ではない。一日一虫だ。
普段通りの生活の中でも、毎日一匹の虫になら出会える。
たとえあなたが大都会で暮らしていたとしても、地面を見ればダンゴムシやミミズの一匹を発見できるはずだし、宙を気をつけて見ればハエなどの羽虫を見つけられるだろう。

そのように無理のない形で虫のことをもっと知っていくことが、他の生物に比べてずいぶん遅くに虫への愛を意識するようになった私の望みと目的だ。
もちろん、同じ虫が連日重複したってかまわないし、生身で虫に遭遇できなかった日は、気になる虫のことを「調べる」という形でもかまわない。
小さな歩みでも、そうやって日々積み重ねていけば、生きている間に地球の生物をもっと知りたいという私の願いを、死ぬまでにより多く達成することができるだろう。

そう心がけると、自分の目が積極的に虫を探すようになることはもちろん、虫の方もまるで招待に応じているかのように、会いに来てくれる感じがしてくる。
虫たちは天からの使いであるかのごとくに現れる。元々身近にいる生物として、虫が現れることに何の神秘も感じないことは可能だけど、改めて彼らと向き合ってみると興味深いものだ。こんなに身近に接していて、虫のことをこうも知らないなんて……と驚かされる。

それと同時に、元から基本的に生物を好きだった私が、割合としては少ない「苦手な生物」に虫を含めていたことを振り返ると、ここにまだ、完全解決できていない何らかの要素が横たわっているとも感じている。

私は夢(眠っている間に見る夢)によって多くのことを知るが、実際、自分の昨今の夢の中に虫への恐れの「残滓」を認めている。
最近二度ほどそれを明示する夢を見て、はっきりと自覚した。
そもそも、虫への愛にフォーカスを向けようとしている自分を知ったのも、夢がきっかけだった。◆「人間外の世界への誘い(いざない)」という記事で、その内容をつづっている。

この夢の中で私が愛おしく思っていた妖(あやかし)君が、虫への愛の象徴であったことに後日、思いがけず気づくことになるのだが……。
そのストーリーを書いた記事はこちら。
「蜂が開いてくれた扉・夢は現実のラフスケッチ」

最初の夢の中では、幼児の姿で現れた妖君のお世話をできるかどうか考えていた自分。これは、私の中にある虫への愛情を育てていくかどうかの選択、決意へ向けた表現でもあった。

ただし、元々は「苦手」のグループに入れていた虫たちを愛と興味の対象にするようになった一方で、その熱は、生来虫が大好きという人たちとはまだ異なっていると思う。
私のそれは、情熱というよりは「こもった熱」という感じで、おそるおそるの部分がある。前から好きだった一部の虫を除き、まだ「壁」がある反応、接し方をしているのだ。

たとえば私は、自分の大好きな生き物を見るとどうしても笑顔になってしまい、愛情がほとばしりすぎて奇声を発してしまうこともありがちなのだが、虫に対してはどうだろう。
蜂など以前から好きな虫には同様の愛情が炸裂するのだが、まだまだ未知の、これまでの自分の態度からあまりなじんでこなかった虫たちに対しては、まず「んっ……」という心の沈黙が訪れ、しばし観察してから心の中で相手への距離を縮めていく。

この心の沈黙の部分は、かつてなら「きゃー!(苦手!)」というジャッジが入っていたところが「空白(白紙)」になったということで、前進してはいるのだが、ここで止まらずに他の生物に持っているのと同じだけの愛情を拡大したいところだ。というか、その流れの渦中にいるのは確かだ。

このnoteの記事やブログで、私は度々野鳥たちへの愛情を表現しているが、私は昔、元から好きな一部の鳥を除けば鳥類がわりと苦手だった。
それが自然の流れでいつの間にかここまで野鳥好きになっていたので、苦手から好きへの大躍進という変化は、すでに経験済みのことなのだ。

野生生物とのアニマル(テレパシー)・コミュニケーション

それで、一日一虫である。力まない範囲で、身近な虫を知っていく。
ここしばらくを振り返ると、庭の背の高い木の葉っぱの上に、蜂によく似た姿のハナアブが「ふぅ……」という感じで長い時間休憩しており、じっくりベランダから眺めて観察することができたし、ある夜は、家の中にいつどのように入ったのかわからないが、複数の部屋の中間地点となる廊下のど真ん中にゴモクムシが鎮座していた。
「ゲジが教えてくれたこと・虫と鳥と私の恋と」の記事に書いた方法で、外にそっと放ったのだが、近づいても逃げることなく、とてもおとなしい虫だった。

いや、でも、ゴモクムシかどうかは実のところ定かではないのだ。
私は見たことがない虫で、ゴキブリでもなくコオロギでもなく、一体君は何なのだい? と思いながら後で調べて、おそらくゴミムシの仲間か……中でもゴムクムシかな? と自分で見当をつけただけなのだ。

●ゴミムシ(Wikipedia)

先に書いたハナアブの情報へのリンクも掲載しておこう。
ハナアブはこちら。
●ハナアブ(Wikipedia)

虫に対する私の知識は絶望的なほど足りておらず、出会う虫ほとんどの生態を私は知らない。乏しい知識の中から予想して調べてみることで、少しは虫全般についての理解を増やしていっている。

先日は、部屋の網戸にとまって休憩している蛾と出会った。
今日の「一虫」はこのモスちゃんだ!(英語で蛾はmoth)と、喜んだ。
蛾は私の中で長年「とても苦手」だったのが、今では「好き」に昇格済みの昆虫だ。しかも、網戸やガラス越しに眺められることは「ラッキーチャーンス!」の到来である。裏側からじっくり観察することができるからだ。

そのモスちゃんは非常に小顔。小顔に見えるのは、胴体がとても太いからで、体全体と羽は白を基調としている。
カビを思わせるような白黒のぼかしのある色合いで、広げた羽には、黒丸の印象的な模様があった。

裏側から見ると、胴から繊細な6本の脚が伸びている。毛でもふもふ、ふかふかのお腹。広げている優雅な羽。
「どうして君は、そんなに胴体が太いの?」
と、語りかけながら観察させてもらう。

私が網戸越しに顔を近づけてじぃぃぃっと見たとき、その蛾はじり、じりと居心地悪そうに動いて、わずかに移動をした。
それで私は、「何もしないよ、窓を少し動かすけど(暑いので窓を開けようとしていた)、そこでゆっくり休んでいていいからね」とテレパシーで伝えると、引き続き観察をさせてもらった。
すると、蛾は再びくつろいで、じっとしていた。そのまま何時間が経過しただろうか。私はときどき、蛾の様子を確認した。

面白かったのは、日中の光のもとでその蛾の顔を観察していたときよりも、日が暮れかけて薄闇になってからの方が、顔立ちをくっきり認識することができたことだ。
別に、暗くなってから燐光のように顔が光ったとかいうわけではないのに、なぜか、薄闇の中での方がその蛾の顔立ちが見えやすかった。
大きな黒目の顔立ちだけを見ると、フクロウに似ていた。

日が暮れた後も蛾はしばらくそこに同じ姿勢でとまっていたのだが、20時頃に私が確認した時点では、すでにいなくなっていた。
おそらく夜行性なのだろう。暗くなってから、ご出発された様子だ。

その蛾の種類を調べようと思って後で探しても、結局わからない。
やや似た蛾を見つけても、模様などが決定的に違う。写真を撮っておくべきなのかもしれない。
一方で私は、人間のつけた名前や、記録された生態を知る以上に、直接相手から感じたこと、教えてもらったことを大切にしたいとも思っている。
(☆後日追記……その後、シャクガ(エダシャク)だったのだろうと見当はつけた。◆「生命形態と意図、たくさんの目、虫から見つめる知性」
それから、この蛾とのコミュニケーションを解釈する際、私にはバイアスがかかっていたことがわかった。それが解けた記事はこちら!
「自然の使者たち(ハチ、ヤモリ、樹木)、精霊を見る目」

「アニマル・コミュニケーション」と呼ばれる、テレパシーでの他生物とのコミュニケーションも行っていた私は、やっぱり直の交流に心の焦点を合わせたい。
(アニマル・コミュニケーションについて、ブログの該当カテゴリーは★「異種間コミュニケーション(多様な生物とのお話し)」

いわゆる「ペット」や「コンパニオン・アニマル」と呼ばれる、人間と共に家族として暮らしている動物と違って、野生生物とのコミュニケーションはまだまだ学びの途上にある。

講座やセッションの参加者の方にはお話ししたことがあるが、人間と一緒に暮らしている動物たちは飼い主さんとの意思疎通をもっとしたいと日頃から望んでいるので、とてもコミュニケートしやすい。自ら色々と話してくれるのだ(もちろん、人間語でではないが)。

でも、野生生物はそうはいかない。
彼らにとって人間とコミュニケートすることは日常ではないし、人間の思考になじんでもいない。それどころか、多くの場合、人間は彼らを「害する、脅かす」存在でもある。

虫の「見かけが不快」って、そんなのあり!?

そういうことを、虫の立場でひしひしと感じることが、以前にも増して多くなった。皆さんなじみのあるコバエを例に挙げてみよう。

私は高校の頃、生物の授業でキイロショウジョウバエを実験のために卵から育てたので、それ以来、ショウジョウバエを好ましく眺めている。
どんな生物でも、育ててみると愛情が湧いてくるのではあるまいか。
目の色の遺伝について学ぶ授業だったので、ショウジョウバエが現れると、何色の目かなーと観察する習慣もある。

しかし、他の種の小さいハエとあわせて「コバエ」と総称される彼らは、けっこう嫌われていることを知った。
というか、最近私が興味を持つ虫の多くが嫌われている。「不快害虫」などと呼ばれていることもある。なんという、一部の人間の感想、どストレートな呼び方。
ある日コバエについて調べていたら、殺虫剤などを多く製造している大手の企業のサイトで、こう書かれているのを見た。

「病原菌などの媒介はしませんが、見た目に不快。」

断っておくが、その企業さんをディスる気持ちはみじんもない。自分だって何度も同社の製品を利用したことがあり、助かった経験がある。
それに、虫へのこうした表記はそこら中にあふれていて、何もこの例が特別なわけじゃないのだ。

――なのだけど、私の心はズガーン! と、衝撃を受けた。
見た目に不快……それが嫌われる理由だと、もし誰かが誰かに言われたら、泣いてしまわないか?

虫は、虫は……それを理由に人間から駆除され得るのだ(泣)
見た目の美醜って、人それぞれ違う主観じゃないのか?

思うに、人類がこうした価値観をまるで共通認識のようにして持っている間は、「地球外」の生命との交流なんてできないと思う。
人間とはまったく異形の種が存在していて、その種がとても知的で、豊かな情緒もあり、人間よりも進化した文明を築いているなんて想像しないばかりか、実際に目の前に現れたとしても受け入れられないだろう。

地球上の生物に対して偏見を持っている間は、地球外生命との対等な交流、先入観なしでの交流は不可能だろう。

私が虫への認識を改めたいのはこれが理由だというわけではないが、人類が「外観」についての特殊なこだわり、思い込みを持っていることについては問題視せずにはいられない。

そもそも私は、意外と苦手とする人が多い両生類や爬虫類などを幼少期からかわいいと思い、好いてきたため、こうした「ギャップ」はこれまでも感じてきた。
(2019年のブログ記事◆「動物園をなくしたい」で書いた通り、上野動物園での私にとっての癒しスポットは「両性爬虫類館」だったりする。)

と同時に、自分も一定の虫を怖がってきた経験があるから、どうにもその姿を見ただけで、恐怖や気持ち悪さが湧き上がってきてしまう……という人の気持ちはわかっている。

ただ、私の場合、そういう自分の反応は「間違っている」と常々思っていた。虎視眈々と克服のチャンスを狙っていたし、そうできるよう心を向けてきた。
その背景には、小さな子どもだった頃は、もっと多くの虫とふれあっていたという記憶がある。

シロツメクサに止まっているチョウの羽を触ると鱗粉がつくこと、ミミズを素手で触ると指ににおいがつくこと、アリの巣を掘ると色々な部屋があって、宝物のように卵やサナギがしまってあること(巣を破壊してごめんよ、アリたち)、

夏はカブトムシを育てたし、外で土を掘っているうちに埋まっている幼虫を発見したときには、その体のふわふわな感触が好きだった。
アゲハチョウや大きなトンボを捕まえたときには、捕まえたのは私たち姉妹だったのだが、容れ物がなくて一緒にいた近所の子に借りたところ、虫ごとその子のものにされてしまって姉妹揃って憤慨したこともある。

そんな親しみ方をしていた私も妹も、たった数年後には、社宅(集合住宅)の階段の踊り場に止まっている蛾が怖くて怖くて、身がすくんで家のある階までたどり着けなくなりそうなほどの怯え方をし、いつからか大多数の虫が苦手になってしまう。

それって一体なんなんだろうと、長く考え続けてきた。
恐れとは「幻想」であるのに、その幻想を信じている間は、リアルな効力を持つ。

虫を怖がるとき、自分が相手を怖がらせている

どうして多くの人間がそうも虫を嫌がったり、怖がったりするのだろうか。
蚊などの、刺されると痒いとか病気を媒介することがあるとかの「理由」がある虫を除いて、無害な虫にまで恐れを抱くのはなぜなのか。

単純に考えれば、あなたの体格以上の巨大虫にでも出会わない限り、そんなに虫を怖がる必要がない。つまり、虫への嫌悪や恐怖は、冷静に見れば道理にかなっているとは言い難い。

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