人間外の世界への誘い(いざない)

人間の中には、自分にとって一見「不利益」なものを敵と呼びたがる傾向がある人もいるようだが、もし、あるものの存在自体を一掃しようとするならば、全体のバランスを不自然に乱し、自分自身にしっぺ返しが来る。

生物に対してだってそうだ。ある人にとっては見るのも嫌な「有害な」生物は、ある人にとっては興味深く愛しい生物だ。時代や文化によっては特定の生き物を「悪」と見なす風潮があったが、それをそのまま自分の現実に取り入れるならば、好んで歪んだレンズをかけ続けることとなる。

同じ理由で私は「歴史」についても見直し作業をすることが好きだ。学校で教えられていた、教科書に載っていた歴史の別側面や誤りに気づき、世界が一新される体験を大人になってから何度もしてきた。
明らかな嘘や偏りがあっても「公の歴史」になることはある。一定数の人が信じるようになればそれが常識になるのだ。

同様に、歴史を眺めるときには、その時代の人々の常識や世界観を理解する必要がある。少なくとも「今とはまったく違うスタンダードがあったんだ」と想像する姿勢が不可欠だ。
「現代の私」のままの目線で別の時代を理解することはできない。

たとえば日本の古典を読むと、現代の人々では考えられないほどに当時の人々が目に見えない存在やその影響を「真に受けて」、恐れてもいたことがわかる。

ではあなたは、そうした資料に出てくる生き霊やもののけの話を「当時の人々は今よりも知見が浅く、迷信深いからだ」と笑い飛ばすだろうか。

私はブログ上で「その時代の人々は、現代の人々よりも目に見えない世界が実際に見えていたのだ」ということを伝えてきた。
「何を信じるか」が人間の知覚を決める。
物質ではないもの、目に見えないものは「存在しない」ということを新たな「合意」に盛り込んだ現代人は、それを知覚の基準にしており
、大多数の人が共通して「体験する世界そのもの」にしている。
いわば「フィルター」をかけて、合意「外」のところを知覚から排除しているのだ。

一方、「それらはあるものだ」と信じていた時代の人々にとって、見えない世界を垣間見、その体験と共存することは日常だった。

日本に限らずどの文化でも、呼び方は違えど、人間以外の「半霊的な」存在の伝承がある。妖怪と呼んだり、妖精と呼んだり、精霊と呼んだり様々だ。
しかも彼らは時折、人間にとって害なのか無害なのかわからない存在であることも共通だ。

このように世界各地で共通している伝承を「人間の想像の産物」と片付けて終わりにするのは、その方が都合がいいからだ。
現代の常識に符号しないものなどには、まじめに取り組まない方が表面上は、生活が安定する。「すっかり知っていること」の範囲内で未知への惑いを覚えることなく、信じていることを揺らがせることなく暮らせるからだ。

しかし、あなたが現代の世界観の枠に「おさまり切らない自分」へちらりと目をやるならば、きっといつか気づいてしまうだろう。
私たちが大手を振って暮らしている地球という舞台ですら、人間だけのものではないことに——。

「ガイド」や「守護存在」ではないけれど

精神世界の話題が好きな人なら、守護存在や「ガイド」と呼ばれる見えない存在についてはなじみがあるのではないだろうか。

その理解のされ方自体、私から見ると誤解も多くはらむのだが、実際にあることではあるので、私もこれまでのセッションや講座、ブログで色々と説明をしてきた。根本の誤解をなるべくとけるように意図しながら。
なお、そうした存在を私は様々な呼び方を用いて説明してきたが、ブログでは大体「ヘルパー存在」と呼ぶことに落ち着いていて、ブログ内の関連する内容の記事は★「ヘルパー存在・天使」というカテゴリーに入れてある。

よくある誤解のひとつをあげれば、そうした存在は「存命ではない」というものだ。「霊」や「見えない存在」についての前提からそう考えてしまうのだろう、人間としての人生を「今」体験しているはずはないと信じられている。
しかし霊的現実について理解するときに、私たちの日常採用している直線的な時間の概念は誤謬を生む。

同時に皆生きているので、あなたのガイドが「今」同じ時代に肉体を持って生活していてもまたおかしくはない。と言うと、典型的な「守護霊」などの概念を信じている人はきょとんとしてしまうかもしれない。

言い方を変えれば、あなたも物質的現実への関心が「オフ」になっているとき、誰かのガイドをしているかもしれない。それは別の時代の誰かかもしれないし、現代の誰かかもしれない。
夢でそういう活動の片鱗を見たことがある人もいるのではないだろうか。

それはさておき、私が今回伝えたいのは、ガイドと呼ばれるような「人間のサポートをしている」、自らそれをミッションのひとつと捉えているような存在についてではない
ガイドは、人間にとって「興味を持ちやすく」「好意的に捉えていることが多い」ので、あまり今は解説する必要があるとは思っていない。

それよりも、益・無益が人間の目線からはよくわからない存在について言及したいのだ。
「ガイドではないけれど」
人間とときどき出くわす、ときには交流もする、そんな存在にお目にかかることは、わりとよくある。
(ブログではそれらのエピソードを★「霊的な話」や★「うちゅうじんず・あい」というカテゴリーに入れている。)

彼らとの交流に気づけない理由と、その場合どうなるか

この間◆「Deeper, deeper」という記事で、非物質的体験を自覚するためのシンプルなコツを挙げた。

そこに書いた点を意識していないとき、私たちはたいてい自分の「採用している合意外」の事象に気づかない。
特に「肉体活動」をしている間は、ある一定のサバイバル・モードになってもいるので、自分の生存に直接関わらない多くのことを取りこぼす。
「肉体・人間」としての立場を優先的に維持しているのだ。

では、「体験しているが気づかれなかった非物質的体験」はどうなるか。
その一部をご紹介するために、つい最近、ある存在の「ささやき」に対し、私がどう気づくに至ったかを書いてみよう。

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