生命形態と意図、たくさんの目、虫から見つめる知性

ちょうどよく熟した果実は、そのタイミングで収穫することも大事だよね。
そうすることで新しい実りのサイクルの始まりへ、スペースを空けることになるのだから――と、こんなメッセージが読み取れそうな夢を見た。

前回の記事◆「問題を作りたがる癖を手放し、真の自己の道を歩む」では、思いがけず夢の中で感じた悲しみの感情について説明したけれど。今朝は、収穫の夢だったのだ。

それは果樹園などではなく、道端の街路樹のような風景の中にある、細くて華奢な一本の木だった。
けれどもその木の枝には、たわわにりんごが実っていた。
どのりんごもずっしり重く、はちきれそうに立派に育って、赤々と色づいている。
私はそばにいた家族に、りんごを摘んで差し出しながら、こんな旨のことを伝えていた。

「ほら、もうこんなに真っ赤に熟れてるよ。収穫しないと。次の実のためにもね」と。

そのときの私には、やがてまた青く結実するりんごのイメージまで見えていた。だから、ちゃんと今、熟した実を収穫しておかないと、と。

収穫したりんごをひとつかじってみると、びっくりするほどみずみずしく、味が濃くておいしかった。

同じ眠りの中で他にも覚えている限り8種類くらいの夢を見たが、それぞれどれも印象に残り、また異なるメッセージ性もあった。
とはいえ、ここに載せるには前回からの流れと、今の集合的なエネルギーとに沿ってこの「収穫」の話題がいいなと思った。

私にとっての収穫は色々あるけれど、今一番思い当たるのはやはり日々の、虫についての認識アップデートだろう。
これは「出来事」として言葉で説明できる以上の内的インパクトを私に与えており、やばいな、これまで私は何を見てきたんだろう……との爽快な動揺と、気持ちを一新するほどの「開眼」体験をもたらしている。

というか、虫についての勉強って合法? これ、学んで大丈夫? こんなの知ったらもう、意識内の「枠」外れまくりじゃん。現代の人類のメジャーな「集合的合意」は幻想だってはっきりわかってしまうはずだよ、という感想すら抱いている。

もちろん、他の生物について学ぶ場合にも同じことが言えるのだが、今私が特に修正しているのはそう珍しくもない身近な虫への見方で、それだけでも関心を向けて調べてみればみるほど、自分の中に誤った知識や思い込みや、深く考えてみなかった事柄があるとわかるんだよね。

だから、虫について学ぶときには情緒が忙しい。
ある瞬間、虫の姿にうっとり見入り「癒されるー」とじんわり心がほぐれていたと思ったら、次の瞬間、「えっ、な、なんて⁉」と、しっかり読み直したり調べたりしたくなる驚きの要素が出てくる。

そのように知識面でも取り組んでいるとはいえ、通常の意味での知識なら、詳しく説明できる人やふんだんな情報をほかにネットなどで見つけることができると思うので、私はこの作業を通して物事をどう見ているかという内的部分にフォーカスして語っていこう。

生命形態と意図設定

私は、様々な生物の形態や生態を、ある言い方をすれば「生命デザイン」として眺めている。
どういうことかというと、創造者がどのような意図を持ってある形態や生態を設定したかの「意図」に注目し、深ーく感動しているのだ。

現代の科学ではまだそう捉えられてはいないけど、私たち人間も他の生物も根本的に同じ「霊的存在」で、物理形態に依存しない(非物質的な)存在である。(※生物たちの「精霊」の概念も参考に。◆「万年テレパシー状態に移行する【異種間コミュニケーションと全一性」

別な言い方で説明すれば、私たちは形を持つ以前に「概念的存在」だということだ。アイディアが形になる。

だから、存在が、この物質的次元に「形」という表現をとるとき、どんな風に自己をデザインし設定するかという観点で見ると、人間以外の生物たちのことはとても参考になる。
これを、「意図の具現化の勉強」と言ってもいい。

その視点から、様々な生物たちのことを、
「うわー、思い切ったなー!」
「すごいなー、そうくるか!」
と感心、感動しているのだ。
人間だけを眺めていたら見出すことのできなかった発想を知る。

さらには、こうして他の生物を眺めた上で人間のことを考えてみると、ある種の不自然さを感じることにもなる。決して、人間が自然の一部ではないという意味ではないよ。
そうではなくて、人間ももちろん地球の自然界の一部を担っているけれど、私から見ると人間は地球にとって「外来種」なのだ。
正確には、外来種と在来種のハイブリッドだと思っている。

しかも私たちは現状、自分の意図を使いこなせておらず、「こういうものだ」と信じている観念の枠組みに閉じこもっているので、体の機能や生態もその思い込みの通りに限定されている。
私たちの自覚が増していくにつれ、人間の生命のあり方、たとえば体という「表現」にも、より自由度を持たせることができるだろう。
その点でも、他の生物たちは「教師」となるのではあるまいか。

生命の形や生態は「意図」が元である――このことをまず心に留めて、その視点からあらゆる生命に教えてもらう意欲を持つと、あなた自身の意図へも自覚が深まるはずだ。
なぜなら、意識的であれ無意識的にであれ今もあなたは、自分自身の意図を用いてこの世界を経験しているからだ。

お目目の数はいくつ、どこに配置する? 目についての思い込み

つい最近、私が虫から学んだ具体例を挙げると、目の多様性だ。

元々、アニマル・コミュニケーションを実行すればするほど、人間の目の使い方と動物たちの目の使い方の違いを認識するようになっていた。
たとえば人間同士だと目を見ることがコミュニケーションの際の有用な手段になるが、動物によっては目を見ない方がくつろいだコミュニケーションが行える。

目を見るというボディ・ランゲージに付与している「意味」は生物によって異なるので、それをやられると居心地悪い、人間が抱く意図とは別の意味になる、という生物はたくさん存在する。
だから、実地でのアニマル・コミュニケーションのセッションのとき、動物がコミュニケーターのことをじっと見ていると「いかにもコミュニケーションが取れている感じがして安心する」という人がいるかもしれないけれど、それを確証として欲しがる必要はないのだ。

☆関連記事(私のブログ内、訪問でのアニマルコミュニケーションと遠隔の違いなども説明している記事)
「訪問アニマルコミュニケーション・レポート【Kさん宅、あんずちゃん】」

さらには、虫となると、また目の構造が違う。
少し前の記事◆「虫 led me to a new world. 自分のことをわかってなんかない。」では、セミの単眼の美しさについてふれた。
その記事を書いていた最中には知らなかったのだが、甲虫目やカメムシ目を除く多くの昆虫が、セミと同じように複眼のほかに単眼も持っていたんだね(単眼の数は異なる場合がある)。

複眼と単眼 - Wikipedia

そして、かつてブログに載せた情報に訂正の必要があることも発見した――青虫の目についてだ。
私が「ミドちゃん」と呼んで毎シーズン愛でていたナガサキアゲハの幼虫もそうだが、青虫の黄緑色の目に見える部分は、実は目そのものではなかったとわかった。

こちらのサイト様の説明と写真を見ると、とてもわかりやすい。
●「ぷてろんワールド - 幼虫の体:頭部」

私が幼虫の黄緑色のお目目と思っていたところの下部に、待針を刺したみたいな6つの小さな単眼があり、左右ともにあるのだそうだ。それが幼虫の目なのだった。
……それにしてもかわいいね、その下の吐糸管の写真もめっちゃかわいいね!(個人の感想)

というわけで、正しく目を把握すれば、私が擬人化して描いたミドちゃんのイラストも(擬人化してる時点で正しいも間違っているもない感じは否めないが)、黄緑のお目目ではない。本物に寄せるなら、6つずつの目を描かなければならなかったのだ……いや、本物に寄せるなら擬人化は無理そうだ。

☆ある日思い立ってテキトーに、でも愛をこめて描いた、ミドちゃん擬人化イラスト。ブログの過去記事より再掲載(画への苦情は受け付けない)↓

画像1

昨年のミドちゃんの話題。記事内に過去シリーズへのリンクもあり。
「今秋のミドちゃん(ナガサキアゲハの幼虫)」

このときは繰り返し訪れていたナガサキアゲハの生殖を喜んでいたけれど、今年の初夏は、ミドちゃんを見つけられなかった。どうしたのだろう。
うちでなくとも、どこかで無事に繁殖してくれていればいいのだが……。

ちなみに、アゲハの幼虫の目について調べたきっかけは、◆「一日、一虫(いちにち、いちむし)。虫へのこもった熱い想い」を書いたときに名前のわからなかった蛾について、シャクガの、エダシャクの一種だったんだろうなと見当をつけたからだった。

その幼虫は、いわゆるシャクトリムシであると知り、
「! この幼虫が、どうやったらこのような成虫に……」
と神秘を感じつつ幼虫写真をしげしげと眺めていたら、目はどうなっているんだろうと気になり始め、調べるうち、ナガサキアゲハのミドちゃんの目についても知識が修正されたという流れだ。

このように色々な目のあり方を知ると、私の中での旧来の「目のルール」は順調に崩壊しつつある。
自分が意識体として、好きな形態や活動を選ぶ際には参考にしたい。
どこに? おいくつ? どんな目を配置いたしますか?

たくさんの目を持つ異次元存在、私が見た上位自己のヴィジョン

それで思い出したのは、私が今から十何年も昔に夢の中で出会った、とある存在だ。それは精神世界やスピリチュアル分野で言う「高次」の存在、上位自己、源の存在と呼んでもいいのだが、その頃の私は、その存在をある程度「人型」のヴィジョンとして見たのだった。

とはいえ、人間と同じ姿なわけではなかった。
ある点でまったく違っていて、その姿が象徴的に何を意味しているかは明瞭なメッセージであり、当時の私でもすぐ理解できた。

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