虫 led me to a new world. 自分のことをわかってなんかない。

虫へのときめきが止まらない。
私の身近な「会えるアイドル☆」は野鳥たちだったはずなのに。
明らかに虫がそこに加わり始めてる。ううん、もう加わってる。

「一日、一虫(いちにち、いちむし)。虫へのこもった熱い思い」の記事に書いたように、虫に会えなかった日はテキトーに虫のことを調べる。自分の気になる虫とか。
そうしているうち、次から次へと関連する虫や思いついた虫を調べるためにネットサーフィンしている。これを「虫ホッピング」と心の中で呼んでいるのだが、ひとり画面を眺めて「むむむむむ……」とか「か、かわ……!(かわいいっ)」とか騒ぎ、身をよじったりもしている。
それほど虫について知ることは斬新で、驚きに満ちた世界なのだ。

虫の体の仕組みや生態には、驚き息をのむことがたくさんある。私にとっては totally 未知。
そして、よく見ると胸にズッキュン! な、彼らの愛らしい姿。
多くの人が撮影した写真をネット上に載せてくれている現代に感謝したい。そうでなければ私は、あの小さな虫たちの、こんなに素晴らしい姿に気づけなかったことだろう。

ここで虫と総称している中には昆虫以外の生物も含まれるが、私は虫たちをこれまで「そんなに好きな方ではない」人間だと思い込んできた。
けれども今、こうして虫に注目してみて気づくことは、幼年期を含め、自分の人生の中で接してきた「実は、懐かしく記憶に残っていた」「気になっていた」虫たちの存在だ。

中には、ごく身近な存在でありながら「まさかこんなに好きだったとは」と、自分で気づけていなかった虫もいた。

たとえば、セミがそうだ。

セミ Love

昔から、セミがあの小さい体を共鳴させてあんなにも大きな声で鳴く、そのことに心惹かれているとは自覚していた。
ただ、セミを特に自分の好きな昆虫であると認めるほどの実感はなかった。
嫌いではないことはわかっていたけれど。

ところが「実は私は、セミを好ましく思っているのでは」と、あるきっかけでようやく気づいたのである。
振り返ってみると、ブログの過去記事でも何度かセミの写真を日常の一部として挿入したりしていた。

セミは形態もかっこいいと感じていたが、最近になって、素晴らしく美しい目を持つことも知った。
2つの複眼のほかに、人間でいうおでこのあたりに3つの宝石のような単眼がある(著作権フリーのちょうどいい写真が見つけられなかったので、気になる方はネット検索してみて。ほんとに素敵だから)。

魅力あふれる虫、セミ。毎年の風物詩となっている彼らの声は、耳をすませていると瞑想状態を誘発するなぁと昔から思っていた。

それが、ある年から、せみしぐれが「I love you」に聞こえるようになった。
夏あちこちから聞こえるセミの声が、I love you I love you I love you……と、私の心には聞こえるようになってしまったのだ。
はじめは漠然とそれを妙なことだと思い、私もとうとう神がかってしまったのか……と思いかけて、いや待てよ、セミの大合唱はオスのラブソングだと考えると、あながち妙でもないなと。
あの鳴き声にはもっと細かい情報も入っているだろうけど、メスへのラブソングなのは共通だよね。
☆後日の記事◆「鳥のおと(音)、セミのおと(音)」では、このトピックについて私がより深く考えたことを述べている。

Loveと言えば、私のLoveとは、彼ら人間以外の生物の存在があることで鏡のように反射され、はね返ってくる形で実感できるのだなとつくづく思う。
植物のそばにいるだけで、わぁーっと幸福になる。生物を眺めていると胸がいっぱいになるほどのよろこびにあふれる。空や星を見ているときもそうだ。それは自動的に起こることで、人間と接しているときは「フィルター」がかかりがちな愛が、直に感じられる。
人間のことも好きだけど、他の生物たちの存在なしで、地球をこうも愛することができるかどうか? というと、それはわからないなと思うのだ。

Baitではなく、虫への愛はガチらしい

私は最近急激に高まった虫への愛情を(と言っても、振り返ると長年かけて徐々にそれを認識しつつはあったんだけど)、何らかの「Bait(餌)」なのではないかと疑ってもいた。

たとえばね、◆「万年テレパシー状態に移行する【異種間コミュニケーションと全一性」を読んでもらうとわかるけれど、虫への情熱がきっかけで自分の意識状態、生き方の姿勢が変わったりもしているわけで。
それって結局のところ、虫への関心を使って「変化」を方向付ける「手段」にすぎなくて、目的は私が意識状態を自発的に変えることとか、テレパシーの感受性を高めることで、それによって霊的次元の「お筆先」になる役割でもあるんじゃないの? と。
長年、書く活動や教える活動などをしているし、そういうことかなと考えてもみたのだ。

そこで、ある美しい夏の日に(最近のこと)、静かな心でそれについて内観してみたんだよね。

すると明らかになったのは、私が認識できる「目的」なんて大したことなくて、私は私のことを全然わかっていない、という一点だった。
私が私と思っている自己像は氷山の一角で、私は、私を全然知らない。

どうしてだかわからないけれど、私は今、虫たちに心打たれており、それによってさらに自然の驚異や営みに心奪われて、もっと知りたくなっている。
そして虫たちを知ることで、「人間の固定観念ってなんて限定されているんだろう」と、ほとほと思い知るようにもなっているのだ。

地球上の仲間がこれだけのことを教えてくれるなら、地球外の生命においてをや、と、現状の視野の狭さを冷静に把握もできるし、
大宇宙のすべての要素がどの生命にも宿っていることを思えば、一匹の虫を通して私は宇宙を学んでいるとも言える。

あなたの身近に存在する貴重な宝たち。
日々、当たり前に思って注目もしないかもしれない、生命の表現。

虫に限らず、天体も鉱物も土も微生物も植物も、あらゆる生命が「聞く耳を持つ人」に語り続けている。

私のことをわかってなんかいない私は、様々な表現をとるたくさんの「私」に今日も教えてもらっている。

★セミについては翌年2021年のこの記事もどうぞ。
「エネルギーヒーリングの豆知識、見え方感じ方など+セミの音」


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