光をすみずみにあてて、見えない自分を見る人間関係

自発的に「物書き」であるということは、言葉にできない余剰分の思いが内にものっすごく有る人間、ということなのかもしれない。その意味では私は物書きにぴったりだ。言葉を紡ぐけど、言葉にならないものがあるから言葉を紡いでいる。この動機は逆説的なような、まるで自己完結していく曼荼羅のような……。

コミュニケーションのための言葉と、ぴったり形にできないことを少しでも形にしてみたくて創造する言葉と。
同じ言葉なのに両者の働きは違っていて、私には後者も必要になりがちなので「書いている」気がする。

心の中にある見えない思いに対して「君は、ひょっとしてこういうものなの?」と、それらをそっとなぞりながら流れるままに言葉にしてみる。
本当はどんな形にもはまらない「思い」は、そうやって言葉という仮の形を与えられることでこの次元にどうにか居場所を与えられ、エネルギーとしてほとばしって昇華される……選んだ言葉がおおむねそれと合致していれば。
もし違う言葉を選んでしまったら、その思いは沈殿して残る。どこにも行けない。
書く作業のこの側面は、「成仏させる」感覚に似ていて、普段は成仏という概念があまり好きではない私でも表現として妥当だと思う。

自分の中の、形にならない、よく見えないもの……様々な「思い」たち。
疑似の平安を体験できる私たちは、不意に心が揺さぶられる度、「あったのに、見えなくなっていたもの」を自分の内に発見する。
穏やかで、平和で、静かで……と思っていた内面が、ある光の反射によって照らし出されると、見たことがないものが出てくる。いや、これはどこかで見たような……もしかすると今つくられたものではないのかもしれない。

その「照らし出してくれる光」は自分自身の光と呼べるものだが、こちらにはね返してくれる「反射板」が必要になる。
つまり、外の世界や誰かとの関わりがあることで「光がはね返ってきて」、心の中の見えなくなっていたものが照らし出されるのだ。

そうした関わりの中でも、特に反射が強烈に感じられる場合がある。
自分がどれだけ光を集中的に投げかけるかによって度合が変動する点もあるだろうし、反射板そのものの形状やキャパシティーと説明できるものもあるのかもしれない。言い換えると、自分の思いをどのくらいそこに投げかけるかと、対象となる相手の個性との組み合わせ、両方の要因が関わってくるのだろうと私は最近実感している。

人間関係の中で強烈な「反射板」になりえる存在と出会うときは、感覚上ではそれがうれしい作用であれ、逆であれ、私たちは「ラッキー・ポイント」にいるのだと思う。
光を思い切り集約して投射しても反射できる相手……それは、体験としては自分自身を他にないほどの度合でぐらぐら揺さぶってくれる相手と出会えた、ということだからだ。

まるで人生の中でセットされていた時限爆弾のようなもので(物騒なたとえだが)、適切なタイミングでその仕掛けが働くようにできている。何らかの目的に沿った自分のゲージがフルになったとき、それが起こるというか。

ただ、私たちがそんな人間関係の中でやってしまいがちなのは、

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