たったひとつの答え、エゴベースの世界をリアルにしない

この9月が勝負かなと、自分について思っていた。流れる時間的なリミットという意味じゃなくて、人生を俯瞰した場合の、エネルギー的なポイント(位置)として自分が今どんなあたりにいるかという意味で。

こうした「人生全体を見た上で、今どのへんで、どんな感じか」という情報は、私には内からわりとよくもたらされる。多いのは、夢でだ。
夢は象徴で語りかけるので、たとえば自分が大規模な長距離マラソンに参加していたりする。どの走者にも専属のサポーターたち(ヘルパーである霊的存在、ガイド)がいて、途中のポイントで休憩しながら励まされたり、今後の走りについてミーティングしたり、現状何位くらいか知らされたりする。

何位くらいかというのも象徴で、決して他者との競争による成績という見方ではない。自分自身の人生を「いかに本当の自己と一致して生きているか」という観点で眺めての評価なのだ。これはけっこう定期的に様々な形で夢に出てくるよ。
さほど、いい成績じゃないときもある。
あるときは三百人中、百二十八番くらいで「悪くはないけど、特に良くもないか……」という微妙な成績を眺めていたし、あるときはテストの点や通知表のような形で成績を見ていて、思いのほか好調だとわかることもあった。
くれぐれも繰り返すけれど、ここで表現されているのは「自分内での、本当の意図と一致している度合いの成績」だ。
誰もが内では自己を正しく把握していて、どれくらい自分が真の意図と合致しており、どれくらいブレてしまっているかも理解しているのだ。

そして、9月も半ばを過ぎた今も、私はこの9月中が勝負だと思っているのだった。自分の人生の過程においてね。
何が勝負なのかというと、先延ばしにせず、ここらで「合一」を揺らぎないものにしたい、ある状態まではStableなものにしたい。
何との合一? 自分の内なる自己、霊的な真実を知っている自己とのだ。

ここで言う「真実」とは、この世界の中で具体的な事柄について「何が本当なのかな」と考え、探求することではない。そのような問いへの答えとなる固定された真実は、この世界に存在しない。
☆関連記事◆「この世に真実を探さない」

このことを、こんな風に理解しよう。
ヴァーチャルな世界を実在の世界だと思っている間は、あなたはその世界の中に真実と嘘とがあると思っており、その通り経験もする。
でも、ヴァーチャルな世界であること自体に気づけば、真実はヴァーチャルな世界の中で見つけるものではなく、自分の実在する次元の方にあることがわかるはずだ。
もちろん、ヴァーチャルの世界に真実を「反映させる」ことはできる。

今月に入ってから公開した記事、
「真の動機はこの世にない【霊的存在としてのチームワーク】」
「目的と自由のパラドックス【魂の示す道】」
では、前述の表現で言う「合一」が進んでいると知ったこと、象徴的にそれを体験したことをアウトプットしている。

自分が自分とひとつになることは、私たち全員に必須の課題で、「たったひとつの答え」だ。
答えを知っていても、答えを生きなければ知っていることにならない。

それを「生きる」ときの問題は以下の点だ。どんな有用な答えも、
人間が「そうしたいと思えない」ときにそれは達成されない。
本人が「それ以外の答えがある」と思っているときには、その答えに自発的に向かわない。

あせって選択しても、選択したことにはならない。
いかに正しそうだという理由で選択しても、腑に落ちていなければ、あなた自身が自分の進路を変えてしまう。
自分の中で本当の納得、本当の決意はできていないからだ。
自分が自分との合意に達していないからだ。

その点で私は、わずかにでも「信頼可能である」かのように心を残してきた「これまで自分が学んできた人間世界でのやり方(エゴベースの世界)」への未練を、今では細い糸になっているそれを、手放す過程にあるのだった。

目覚め続ける意思を持つと、自己の意識の比重の大半が霊的視点に移っていく。その過程で起きること

「意識を向ける割合は、表層2、深層8くらいでいいんじゃない?」や、
「半人半霊は全霊へ」の記事で表現してきた通り、私たちの意識の自覚の度合いが上がれば上がるほど、自己の用いる焦点は、この世界という「思いの結果」ではなく「思いの発生源」の方へ向かう。

モノや出来事という「形」になっている現実ではなく、その「元」を見る、つまり霊的視点だけを自分のスタンダード、日常にするということだ。

これまで人間は、霊的視点を遮るようにして、別の視点を用いてきた。
別な視点とは、ものがよく見えなくなる、おかしな形に歪む「フィルター」を通した見え方で、そちらを日常の道具にしてきたのだ。
フィルターを通した視点を、「エゴの視点」と呼ぶ。

あなたもきっと、エゴと真我の違いをこれまでも聞いたことはあるだろう。
それどころか真剣に自己を見つめ、真我として生きることをあなたのやり方ですでに実践しているかもしれない。

霊的な自己へと認識の比重が移れば移るほど、その過程で「不自然なもの、そぐわないもの」を取り除く経験をする。
このとき知っておきたいのは、私たちは表層上は納得できる「正論」で自己を説得しても、どこかで「強制されている」かのように自分が感じているときにはその先へ進むことに合意しない、喜べないのだ。

つまり、自分が本当にそうしたいと思っているのだと認めたときには抵抗が生まれないが、
「正しいから」と言ってムチ打つように、強いるように自分を「目覚めさせよう」「霊的視点で生きよう」と追い立てても、あなたの中のまだぐずぐずしていたい自分が顔を出し、必ず邪魔をする。

だから、自分がどのように感じているのかを包み隠さず眺める必要がある。
抵抗の背後には、あなたの「信じていること(観念)」があるからだ。

センチメンタリズムは好きですか? 本当の優しさは

たとえば、「苦しみにも正当な理由がある」という幻想を信じていたいエゴの観念がある。
これを信じていれば、苦しみを奨励するし、受け入れるし、苦しみに愛着を持つ。

不公平や不平等があるという考えもそうだ。
その観念からはヒロイズムが生まれるし、あらゆる形での不公平や不平等を正す戦いが正当性を持つことになる。

地球世界を形作っているエゴは、二極の見方によってもたらす「ドラマ」が大好きだ。

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