目的と自由のパラドックス【魂の示す道】
「目的」という言葉を聞くと、それ自体があなたを制限するような、不自由な感じを覚えることがあるかもしれない。
しかしこの記事では、「あなたがあなたの目的を果たしているとき、最大限の自由を感じる」という話をする。
「目的など何もないことが自由」と考えてきた人にとっては、これは意外で「パラドックス」と思える概念になるだろう。
また、精神世界の探究者で、悟ることは「何もしないこと」「無の境地」との錯覚に囚われている人がいたならば、違った見方を提供しブレイクスルーを起こすことに繋がるだろう。
ただし私が伝える要点は、「形」のレベルでの話ではない。
ここでお話しする「目的」とは、形の次元に属するものではないのだ。
この記事は単独で読んでもらうことができるが、もし、読んでみてより理解を深めたいと思ったら、前回の記事◆「真の動機はこの世にない【霊的存在としてのネットワーク】」もあわせて読むことをおすすめする。
あなたが自然でいると、果たしている役割
前回の記事の中で、ひとつのものを部分部分に分け、それぞれを分離させて考えることの例として、
「食事をするとき、食物を運ぶ手が、『私は口の手先にすぎないんだ!自分の意志に関係なく使われているんだ!』と、考えたらどうだろうか。
ひとつであるということを忘れ、切り離された別々の個として存在できると信じる誤り、無意味さを理解できるだろうか。」
と、述べた。
私たち個々の存在を体のパーツにたとえるのは、あくまでたとえだが、もし「手が手であるのをやめ」「足が足であるのをやめて」「心臓が他の器官になろうとしたら」という状況を想像してみよう。
彼らはそれぞれ自分が何であるかをすっかり忘れてしまったか、そのことを覚えていても信じられなくなったのだ。
すると、ひとつのものとしての調和は乱れ、混乱が起き、全体の機能に影響が出るだろう。
かといって、手が手であるとき、意識的に「よーし、頑張って手として役割を果たそう!」とか、足は「なんとしてでも、足になるぞ!」と力んで足になったのではなかったと考えてみよう。
ただ自然にしていると、それぞれを全体の中で眺めた場合に、「手として」「足として」認識され、役割を果たしていたとわかるにすぎない。
役割と聞くと、「私の役割は何だろう」と思い悩む材料にする人がいるかもしれないが、役割とは、全体との関係の中で初めて意味を持つ言葉である。
つまり、あなたが全体を見る目を持っていなければ、役割の内容、「具体的な意味」などわかるはずがないのだ。
あなたが自然なあなたでいるとき、自分自身である以外のことを一切しないとき(余計なことを「しない」でいられることは、自分自身であることを「生きる」際、必須となる要素だ)、あなたは自然と役割を果たしている。
ただし、それを自分で「私の役割はこれこれこうです」と定義しないこと。
前述の通り、あなたは自分の役割を正確には理解できない。すべてを知っているわけではないからだ。
それにも関わらず定義してしまうことは、何らかの形で自分への「制限」になる。
では、これを踏まえてこれからお話しするあなたの「目的」とは何だろう?
そしてなぜ、それを果たしているときにこそ「自由」を感じることができるのだろうか。
目的を果たしているとき、あなたが自由である理由【魂の示す道を生きる】
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