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再読の醍醐味の話がしたい

「一度読み終わった本はもう二度と読まない」という意見をお見かけすることがあります。
思いつく人だと作家の森博嗣、あと以前読んだサマセット・モームも著作『サミング・アップ』(岩波文庫)でそのように書いていました。


私自身、一度の読了をもってその本との縁をおしまいにすることもあるので、すべての本に対する再読の推奨ということは出来ません。
ただ、どんな本であっても再読をいっさい行わない理由が「読了時点でその本から得られるものをひととおり吸収できたから、もう読み返す必要がない」というものでしたら、そこはちょっと待ってほしい。
今回はそういう話です。


❏ ❏ ❏


少し前に書いた「とにかく無性に小説が読みたい」という記事で、森博嗣さんの小説『恋恋蓮歩の演習』を8年半ぶりに再読したと書きました。

その際に初読時はスルーしていたある部分に気付いて、手に取る前には予想もしていなかった想定外の興奮を伴う読書になったんです。


※本作はミステリィ小説で、ここから先は内容のネタバレを含みます。事件のトリックに関する詳細には触れませんが、ネタバレを避けたい方はこれ以降を読まずにいただけますと幸いです。










作家の森博嗣さんのデビュー作は『すべてがFになる』(講談社文庫)ですが、その本以降に発表された長編小説全10冊は「S&Mシリーズ」と呼ばれています。

全10巻としてシリーズ完結後、登場人物を一新して始まったのが「Vシリーズ」と呼ばれる連作で、そちらも全10巻で完結します。
『恋恋蓮歩の演習』は、Vシリーズの6巻目に位置する小説です。


「S&Mシリーズ」と「Vシリーズ」。
主人公や登場人物が違うので、片方を知らないまま個別に読んでも何の問題もありません。でも作品単体ではなく作家・森博嗣のファンであれば、両方を刊行順に読むことで、思わずニヤリと出来る仕掛けがあります。


わかりやすいものだとタイトルの関連性。
S&Mシリーズの5作目は『封印再度』。
Vシリーズの5作目は『魔剣天翔』。
どちらも漢字4文字のタイトルですね。

S&Mシリーズの6作目は『幻惑の死と使途』。
Vシリーズの6作目は『恋恋蓮歩の演習』。

「シトシト」と「レンレン」という、繰り返す響きが共通点。
5作目と6作目のタイトルに関しては、Vシリーズ執筆時に狙って決めたことを森博嗣さん自身も語っています。


他にも、上の方にリンクを貼った講談社文庫のサイトに記載があるあらすじを読み比べるだけでも、2作目はどちらも衆人環視の中で起こる事件・3作目はどちらも館で起こる事件・6作目はどちらも「消失」の話、などの関連性を見出すことが出来ます。
(他の巻にも共通点と呼べそうな類似点がありますが、これを書いてしまうのは確実にルール違反なので詳細は伏せます。特に7作目と10作目!)


で、先日読んだVシリーズ6作目『恋恋蓮歩の演習』。
本作を初めて読んだのは2013年でした。
それ以来一度も再読せず、しかし活発な新陳代謝を心がけている自分の本棚にずっと置いておいたのは、そのたった一度の読書体験が素晴らしかったからです。
刊行順に読み進めていた時に「Vシリーズの中でも一番好きだ!」と強く感じ、全10作を読み終えた後もかなり好きだという評価は揺るぎませんでした。


その理由のひとつに、S&Mシリーズとの関連性があります。
もともとS&Mシリーズの6作目『幻惑の死と使途』が大好きだったことに加えて、上で挙げたタイトルのリンクにも気付いていたので、本書を読むのが楽しみだったんです。


で、いざ『恋恋蓮歩の演習』を手にとって開いて、目次の章題を見てものすごくびっくりしたんです。
「第1章 種も仕掛けもありません」に始まり、すべての章題が手品に関連する文章になっている。
S&Mシリーズ6作目『幻惑の死と使途』が天才奇術師の話だったので、こんな角度からS&Mシリーズ6作目とリンクさせたのか! すごい!!! と2013年の私は大興奮したわけです。
しかもその文章がしっかり内容に沿ったものなんですよ。一章読み終えるごとに章題を眺めて、確かに…! と唸れるぐらいの。


内容にも綺麗に騙されて大満足の読了になり、気付けたことと驚けたことの双方をもって大好きな一冊になりました。






時が経って2022年2月。
とにかく無性に小説が読みたい、という渇望をもって自分の部屋の本棚を眺めた時、その根底にあったのは爽やかな読後感への期待でした。
なので『恋恋蓮歩の演習』が目にとまり、久々に読みたいなと思って8年半ぶりに再読をしたわけです。


森博嗣さんはずっと好きな作家ですが、正直な話、これまで読んだミステリィ小説のすべてのトリックや展開を覚えているわけではありません。中にはどんな内容だったか、犯人が誰だったかも忘れてしまった作品もあります。
ただそれでもこの『恋恋蓮歩の演習』に関しては、内容に展開に結末まで、初めて読んだ時の高揚感とともにかなり鮮やかに覚えていました。
だからこそ期待を胸に読み始めたわけです。


しかし。
二度目の読了で得たのは、爽やかな読後感でも高揚感の再来でもなく「2013年の私、なにを読んでたんだ…?」という率直な動揺でした。
浅い読みしか出来ていなかった当時の自分を俯瞰で眺める体験と言いましょうか。




森博嗣さんは著作『本質を見通す100の講義』(だいわ文庫)で、下記のように語っています。

(89より引用)
問題を解かせないためには、問題が解けたと勘違いさせることが有効なのである。これはゲームでも応用できる。相手に勝ったと思わせることが、こちらが勝つために有利になることが多い。油断させるという意味もあるし、思考停止を招く効果もある。人は、「問題が解けた」と思った瞬間もう考えなくなるのだ。

この『本質を見通す100の講義』という本も『恋恋蓮歩の演習』読了で驚いたことがきっかけで直後に再読した一冊です。こんなタイミングでこんな記述に出会うというのも運命的なものを感じました。


”「問題が解けた」と思った瞬間もう考えなくなる”
まさに2013年の私です。
冒頭の章題から簡単にS&Mシリーズとの関連性を見出して、そこで満足してそれ以上深く考えずに読了した、2013年の初読時の私です。




S&Mシリーズ6作目『幻惑の死と使途』は、天才奇術師が殺人事件に巻き込まれるというセンセーショナルな内容ですが、「名前」が終盤の展開における重要なキーワードになります。
そこで語られる「名前の重要性」を突き詰めて考えていくと、人間が人間たり得るためには、といった話題にも広がっていく。そんな哲学的な題材です。


しかしS&Mシリーズ『幻惑の死と使途』で語られる「名前の重要性」は、Vシリーズ『恋恋蓮歩の演習』で真っ向から否定されます。
それもたった一行で。
『幻惑の死と使途』における天才奇術師の殺人と、『恋恋蓮歩の演習』における豪華客船での男性客消失。二つの事件そのものに関連性が全く無いからこそ、思いもかけない角度から飛んできた「名前」という重要なキーワードに心底驚きました。
タイトルや手品の章題など明確に関連性を持たせているのですから、この名前に関する部分もきっとしっかり計算されたものなんでしょう。


先月再読してこの点に気付いた時、タイトルの音の響きとか奇術師と手品とか、そんなことよりもっとずっと重要な共通点じゃないかと思いました…。
にもかかわらず今の今まで気づかなかった。
何なら再読する機会が無ければ一生気付かないままだったかもしれません。今回の再読を通して、自分の中で作品世界の解像度が間違いなく上がりました。


❏ ❏ ❏


どんな本であっても再読をいっさい行わない理由が「読了時点でその本から得られるものをひととおり吸収できたから、もう読み返す必要がない」というものだったら、そこには再考の余地があるかも、と自分の経験をもって思います。
時が経って価値観が変われば見え方も変わるし、学びを経て新たな視点が得られることだってある。私はたまたま小説で実感しましたが、小説に限らずどんな本でも言えるはずです。
むしろ「再読では得られるものが無い」という主張をどんな本にも当てはめられるとしたら、それは読み手側の停滞が原因かも。


新しく読みたい本もたくさんあります。
でも今回、煽られた再読欲に素直に従うことで、初読からは決して得られない感銘を受ける喜びも改めて実感しました。
どっちも大事にしつつ、引き続き好奇心をもって本を読んでいきたいです。




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