カネゴン

1980年生まれ。脳性麻痺の障碍者です。 毎日ヘルパーを使って生活をしています。 普通…

カネゴン

1980年生まれ。脳性麻痺の障碍者です。 毎日ヘルパーを使って生活をしています。 普通の暮らしにあこがれています。 生い立ちや日々の思いなどをつづっていきます。

最近の記事

恋愛の話

最初は小学校に上がる前の院内学級の頃だったので、明確な年を覚えていませんがある女の子に一目ぼれをし、院内学級を卒業するときに告白をし、養護学校の入学式の次の日に告白し、小学校三年生の冬休み前にその子が転校することをしり、また告白し、小学校六年生の三学期の一月に帰ってきたときに告白し、小学校卒業式の日にも告白をし、中学校に進学し新学級が始まった入学式の次の日にも告白をしました。間があいて最後に同じ子に告白したのが中学2年生の夏、最後に告白したときに 「いいかげん、私じゃない他

    • 高校を卒業してからの話

      在学時からインターンとして出向いていたNPO団体に就職目的で行ったところ、無給の研修生扱いで3年間、そのあと月1万円プラス交通費で1年アルバイト、卒業してから5年目で一人暮らしを始めたことで正式にNPOに採用されました。そのお話をしたいとおもいます。 研修生(無給の時の話) NPO団体に就職するつもりで、実際に卒業式が終わって3月中に出社をしてみると 「何言ってるんだ、お前はまだ一人暮らしもしていないし、親元で成人もしていないんだから、働けるわけないだろ」 「え?どう

      • 車イスでの怖い話

        今から思うと少し笑えるのですが、怖い経験をしたお話したいと思います。 高校二年の春より将来を見据えて電動車椅子での外出を始めていました。 最初は学校の校内だけでしたが、高校卒業するころには電動車いすに乗って出かけることに慣れて、学校が終わってからまっすぐ帰れば17時半に確実に帰れるところ、いつも21時22時まで出かけていました。 そういったなかでいろいろな経験をしました。 1・池袋でチンピラに絡まれるまず一つ怖かったのは、池袋でチンピラに絡まれたということです。サンシ

        • 食べ物の好み

          わたしは自分の好みでいえば野菜全般が苦手であり、あとクセの強い食べ物、ドライフルーツが苦手ですがそれも克服するようにと家では折に触れて食べさせられました。 食べ終わったあと数十分後に気分が悪くなり結果として吐いてしまっても、とりあえずは食せるという形で克服しなさいと物心ついたときからいろいろとやっていたおかげで 野菜やクセのあるたべものは味付けや調理法によっては食べられるようになりました。 ドライフルーツに関してはどうしても無理だったので、高校卒業するにあたり母親に

        恋愛の話

          17歳 人生が動き始める

          高2の冬のころ。 養護学校は毎年冬に卒業生を呼んで高校生中学生の生徒の前で 卒業していった先輩が今どのように生活しているか、また進路をどのようにして選択したかなどの経緯を聞く 「卒業生を囲む会」というのを開いていました。 今から考えればこの「卒業生を囲む会」の話が私の人生においての最初のターニングポイントになったように思います。 その話というのは福祉、ヘルパー派遣業の話でした。 その話を聞いた私は私よりも重度な障碍を持っている二回り以上の先輩が自分で会社を興して自分

          17歳 人生が動き始める

          16歳。パソコンと出会う。

          マイクロソフトから請け負い学校で取り組んでいたパソコンの実証実験はそれなりの成果があがったようで、学校では毎年パソコンが触れるようになりました。 マイクロソフトがいろいろな企業からパソコンをあつめて最終的には30,40台のパソコンが学校に置かれるようになりました。 僕よりも年上の先輩2人と下級生5,6人が学校のホームページの管理をしようという話になり、HTMLを管理して3年間ホームページの管理をしていました。 その経験でパソコンが好きになり、いろいろな経験ができるんだと

          16歳。パソコンと出会う。

          14歳・1995年1月17日・大震災

          1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災。 その前々日に 私に早く家を出ていけといった祖父が九州の小倉で亡くなりました。 明け方に電話がなり、父方の祖父が亡くなったので通夜と告別式をするので手伝いに来なさいと、何十年ぶりかに父の兄弟たちから連絡がありました。 急遽両親が話し合い、兄も交えて話した結果、わたしの面倒は誰も見れないし、近くに頼める人もいないので母の実家である大阪に3日ほどあずけて、あとの家族はみんなで手伝いにいこうという話にまとまりました。 (母方のお

          14歳・1995年1月17日・大震災

          15歳 ・揺れ動く青春時代

          1995年の阪神淡路大震災後に、祖母を呼び寄せ半年間同居生活がありました。 厳しかった祖父とにて、ある種エリート意識の強かった祖母は、私たち(父・母・兄・私)とうまくいきませんでした。 「なんであなた達は〇〇(父の名前)の子供なのにこんななの?兄は大学は2浪して入るし、あなたは障碍者だし」 さらに母のことも父のことを理解していないという発言もあり、わたしたち家族が父の人生の足カセ的なことをよく言われていました。 そういった祖母の態度もあり、同居生活は短い期間で解消しま

          15歳 ・揺れ動く青春時代

          養護学校での勉強などについての思い出

          小学校高学年のときにウインドウズ95がでてユーザーサポート機能の実証実験として養護学校が選ばれて、マークシートなどをつかいいろいろな実験をしました。 そのころ、二つの英語学校から先生が来ていてネイティブな英語発音のを聞いていました。 僕自身は英語が苦手意識があったので、ちゃんと聞けなくて恥ずかしく感じていました。 知能判定で教科グループは普通の授業をうまくうけられないと先生達はおもって独自のカリキュラムを作られていました。 もらった英語のプリントを紙飛行機ばかりおって

          養護学校での勉強などについての思い出

          いっときだけ泳げるようになった10~13歳頃の話

          寮に入った前後に一軒家の社宅に引っ越すことになりました。 それまでは社宅内の子供たちや近所の同世代の子供たちともふれあうなということを言われていました。 当時は私自身障碍というものをわかっていなかったので、なぜだろうとおもいながら、親の言いつけだからしょうがないと思いながら過ごしていました。 学校の家庭科の授業だと中学生までは家庭科の授業をやるのですが危ないことは一切しないのですが、寮は違って「自分たちで全部やれ」と言われ、ホットプレートや包丁をつかうので寮と学校では教

          いっときだけ泳げるようになった10~13歳頃の話

          寄宿舎・寮生活の話

          寮生活は現在でいえば簡単な施設にちかいと思われます。 一部屋常に5人の障碍者がねとまりし、5人の障碍者に対して各部屋の担当者が男女それぞれに二名で面倒をみることになり、その部屋が8部屋あるという形になっていました。 その2名の職員は毎日代わる代わるはいってくる重度のお子さんの面倒をみるのにかかりっきりになり、私をふくめた3人はすべて自分でやりなさいというような形で放っておかれていました。 決まった時間に朝食や夕食をとらないとならないのですが、時間が間に合わず食事がとれな

          寄宿舎・寮生活の話

          寄宿舎に入る

          小学校4年生に上がるときに、ほとんど授業を寝て過ごしていたためか、 授業態度が悪い 協調性がなく感情の起伏も激しい 自己主張が強い との判定で 「うちの学校にある寄宿舎というところに入って、ご家族と離れて集団生活をすることに慣れさせてみてはいかがでしょう」 という話になり、小4の春から最終的に高3の夏までそこの寮に入る事になりました。 最初は一泊二日から始まり、小学校卒業するころには月金で土日だけ家にかえるという生活をしていました。 小4から中3までは土日に平日す

          寄宿舎に入る

          9歳の頃「なんで家を出ていくって言わないんだ?」

          こんにちは あなたの心の片隅にいる カネゴンです。 今回は祖父から言われた衝撃的な一言について書きたいとおもいます。 当時小学校低学年、9歳くらいだったでしょうか。 両親と一緒に父方の実家に帰った時のことです。 両親が所用で出かけて家におらず、祖父と二人っきりになったとき、祖父は私を真っ直ぐに見つめて言ったのです。 「なんで自分から家を出ていくって言わないんだ?」 えっ? 「オマエ、なんで他の家に行くって言わないんだよ?そのくらいわかるよな?」 今で言うところ

          9歳の頃「なんで家を出ていくって言わないんだ?」

          幼少期の話(ちょっと変わった家庭)

          こんにちは あなたの心の片隅にいる カネゴンです。 幼少期の私の家庭ですが、今思うと独特なことがいくつかあります。 週末は必ず手巻き寿司と手作り餃子(4人家族で毎回80個くらい食べるために) 月に1回、家族総出で500~600個の餃子を作っていました。 私は具材を大きなボールで混ぜるかかりをやっていました。 お正月に関東近郊に住んでいる親戚を集め、皆でカウンターの寿司屋かどこかホテルのディナーORランチバイキングにいくのが定番でした。 母親が関西出身、父親は九州出

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          閉じ込められていた子供時代とヒーロー物テレビ

          こんにちは あなたの心の片隅にいる カネゴンです。 今回は周囲から隠されていた子供時代のお話をしようとおもいます。 週末はほとんど部屋に閉じこもりきりのことがおおく、特に父の仕事関係の人、兄の友人などが自宅にきたときは 必ず自分の部屋に入って、電気も消してテレビもイヤホンをつけながら、来客が帰るのを待っていました。 四畳半の部屋にポータブルトイレからテレビからミニ冷蔵庫があり、 「この部屋から絶対にでちゃだめよ」 と言われ過ごしていました。 最初は親のいうことは聞

          閉じ込められていた子供時代とヒーロー物テレビ

          ある養護学校教員さんの話

          こんにちは あなたの心の片隅にいる カネゴンです。 今は無くなってしまいましたが、当時の養護学校は1~3年生の時に校庭に大きな木がありました。 昼休み中にある先生にその木の上に上げられて 「この景色よくみておけ!」 と30分以上放置されるというのを、毎回やられていたのを覚えています。もちろん今でもその景色は覚えています。 その先生には体育の授業の前に綱引きの綱を身体にまきつけられて体育館の2階から突き落とされる、いわゆるバンジージャンプのようなことを毎日やられていま

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